「えーーっ、ウソ! うわっ、本当だ。まだ全然時間が経ってない……どうして!?」
カレンが戸惑うのも無理はない。
まるで内と外で時の流れが違うかのように、
カレンは内部に入った後、一つ目の祈りを終えるところまでは順調だったらしい。だが「外に出られない」とわかった瞬間にパニックになり、そこで時間の感覚を完全に失ってしまったようだった。
クレノ顧問はぶたれた顔面を押さえながら、つとめて冷静な口調で言う。
「わかってもらえてよかったよ、カレン」
「ご、ごめん……。そうとは知らず、カッとなっちゃって、つい……」
カレンは申し訳なさそうにもじもじしていた。
フィオナ姫は両者の反応が良くないのを不思議そうにしている。
「おかしいのう……。これは魔法使いたちにとって最適な祈りの場となるべく開発された瞑想ポッドなのに」
「こんな恐ろしいところで祈れる魔法使いなんていませんよ」
「じゃが、これを使えば外部の環境に左右されずに祈ることができる。つまり、これまでは不可能とされていた、戦場でのストックの再装填を可能にするのじゃぞ?」
「姫様……!」
クレノ顧問は眉をしかめた。
姫様が言い出したことはかなり危険な発想だったからだ。
続けて厳しい意見を発しようとしたときだった。
部屋の扉がノックされて、小鳥のようなかわいらしい声が来訪を告げた。
「
「おお、フェミニか。ちょうどいいところに来てくれたな。入ってよいぞ!」
控えめに開けられた扉の影から、魔法開発局の白いローブをまとったフェミニがひょっこりと顔を出す。
「おじゃまします、姫様。あ、クレノセンパイも! 探しましたよ~! ぜひとも、おふたりにお願いしたいことがあったんですよぉ。あれから例の『窓』の魔法の書き換えに挑戦してるんですが、ちっともはかどらなくて。やっぱりシャネル軍曹さんにもう一度タブレットを飲みこんでもらうしかないのかなっておもってましてぇ……」
フェミニはこの間からは少しましになったものの、疲れた表情である。
まだストックを全消しのリカバリーができていないらしい。
「あれ? これなんですか? 公衆トイレ?」
フェミニは部屋の真ん中に鎮座した扉つきの四角い箱を見て眉をひそめる。
フィオナ姫は新たな犠牲者……もとい、評価試験の対象を発見し、瞬時に瞳をギラつかせた。
「これはな、フェミニ研究員殿。完全防音で視界遮断機能つき! 中に入ると周囲に邪魔されずにお祈りができるという魔法兵器なのじゃ!」
「え! それは……なんというすぐれものでしょう!」
「いまなら体験料は無料、アンケートに協力してくれればさらに、高級マカロン五個入りもプレゼントじゃ!」
フェミニは姫様の安い売り文句に感動している。ただし彼女の置かれた状況では、フィオナ姫の言葉が甘い囁きに聞こえるのも無理はない。
しかし、クレノとカレンで立て続けにひどい心の傷を負ったのだ。
三人目の犠牲を出すわけにはいかない。
「やめとけフェミニ。うっかり中に入ったら、内側からは扉を開けられないし、声も届かない。白一色の空間で音も聞こえないとなると、気がおかしくなるぞ」
決してウソを言っているわけではなかったが、フェミニがポッドへの興味を失った様子はない。
「でも、ちょうどこういうものがうちの局にもあったらな、とおもっていたところなんですよねぇ。主任研究員といえど、研究スペースは共用の部分が多いですから。全員が集中してお祈りができる空間なんていくら財力があっても確保できません。ほら、小神殿はセンパイが壊しちゃいましたしね?」
「うっ!」
「まだ試作品ですから、それなりのリスクはあるとおもいますが、これが使えたらめっけもの……。姫様、フェミニにこちらを使わせていただけませんか?」
フェミニはノリノリである。
これは止めても無駄だと思い、クレノは最低限の安全策を立てることにした。
「それじゃあ中に入る時は、リボンに鈴を結んだものを持って入ることにしよう。限界だと思ったらリボンを中から引いてくれ。鈴が鳴ったらすぐに扉を開けるから」
「はいはい、センパイは心配性ですねえ……。わかりました。正直こういうのは好みが分かれるというか、むきふむきもあるとおもうんです。使えるひとが使えばいいんですよ」
フェミニはクレノを小馬鹿にしたように言って、扉の中に入って行った。
「大丈夫かな……」
とクレノが言うと、カレンも表情を曇らせた。
「ダメだったら鈴が鳴ると思うけど……心配すぎるよね……」
しかし。被害にあったクレノとカレンの予測を裏切り、十五分を過ぎても、扉からはみ出したリボンが引かれることはなく鈴は鳴らなかった。
それからあっという間に一時間が経過した。
*
ポッドに入ったフェミニは、すぐにクレノ顧問やカレンの言っていたことを理解した。
(おお~……これはこれは……! 思った以上に静かです! というか、完全無音の世界ってこんなふうなんだ!)
外の世界、自然の世界では、完全無音の空間というのはほぼ存在しない。人がそばにいなくとも、風や木々のそよぐ音や、動物や虫たちの声がしてくるからだ。
だから、音が全くしないというのは究極の『不自然』であり、拒否反応を起こすクレノやカレンの気持ちはよくわかる。
(でも……フェミニ的には、これは悪くないとおもうんですよねえ。たとえば、すごく集中して瞑想できてるときって、こんなかんじなような……)
瞑想や祈りに限らず、勉強や何かしらの作業に没頭しているとき、フェミニには周囲の雑音が聞こえなくなって時間の感覚が失われる経験がよくあった。ポッドの内部にいるときの感覚にかなり近いものだ。
(こういう人の感覚を外部から操作するかんじの魔法って、
フェミニは気を取り直して、ポッドの内部に座りこみ、精神を集中させる。
杖を抜いて、まずは基本の祈りを捧げてみる。
(風の神様……フェミニがここにおります。わたしの声をどうかどうか、天に届けてくださいませ……くもりなきいのり、民の声をお聞きください……)
祈りがひとつ終わっても、疲れはない。いつもなら周囲の様子やらお仕事の
(いける! この中だったら……もっともっとやれる!)
フェミニはふたつ、みっつと順調に祈りをこなしていく。
(ここでなら、失った魔法のストックを全部取り戻せるかも……。あのときの『窓』の魔法だって……)
祈りは順調そのものであった。
しかし、ある時点で、その自信にかげりが出はじめた。
それはまず、肉体の感覚として現れた。
(
外ではどれくらい時間が経ったかはわからないが、そう。
彼女は尿意をもよおしていたのだ。
どれだけ時間の感覚が狂っていたとしても、体の感覚まではごまかせない。人は、生理現象を拒否することはできないのだ。
(え……でも、行くの……? トイレ
このまま祈り続ければ確実にこれまで到達できなかった高みへと行ける。
フェミニにはその確信があった。
その確信を捨てて『トイレなんか』に行くのかと思うと、もったいなくて仕方がなかった。
(しょうじき、いや……! こんなに誰にもじゃまされずに思索にふけるのって、何年ぶり……? ここから出たくない!)
だが、出たくないからといって出さなければどうにもならないのが尿意である。
そのとき、フェミニの頭脳である天才的な『考え』がひらめいた。
(いや、まって……? もしかしてだけど。ここで『出して』しまえばいいんじゃない……!? ここでしてしまったとしても、ここにはわたししかいない……誰にも見られない……だったら『いい』のでは……?)
考えれば考えるほど、それは正しい考えのような気がしてくる。
(
そのとき、フェミニははっと目が覚めた。
「いやいやいや!! いい訳あるかーーーーーーっ!!」
一声叫ぶと、必死に握りしめてたリボンを振り回す。
瞬時にガチャリと音がして、ポッドの扉が開き、心配そうなクレノ顧問が顔を覗かせた。
「大丈夫かっ! フェミニ!? もう三時間もたってるぞ!?」
「ふん!」
ポッドから飛び出したフェミニは前蹴りでクレノ顧問を蹴り飛ばすと、一目散にトイレに駆けこんだ。