――あれは私がまだ、幼い子どもだった頃。
「やーいやーい、虹髪虹髪ー!」
「お前の髪、気持ちワリーんだよ!」
「どうせ前世で悪いことしたから、そんな髪になったんだろ? 俺たちが天に代わって罰を与えてやるぜ!」
「う、うぅ……」
当時の私は珍しい虹色の髪のせいで、近所のイジメっ子たちから、毎日のように理不尽な暴力を受けていた。
だが、心も身体も弱かった私はやり返す勇気も持てず、ただうずくまって痛みに耐えることしかできずにいた。
――その時だった。
「コラァ! またあなたたち、リュディガーをイジメてるわねぇ!」
「ゲェ! マーヤだ!」
「お節介女のマーヤだ!」
「に、逃げるぞお前ら!」
幼馴染のマーヤが、颯爽と助けに現れた。
「まったくアイツらときたら、本当にダサいんだから! ――大丈夫、リュディガー?」
マーヤが太陽のような笑みを浮かべながら、私に手を差し出してくれる。
「う、うん……。ありがとう、マーヤ」
私は高鳴る胸を抑えながら、マーヤの手を取った。
「……いつもごめんね。僕が弱いばっかりに」
「何言ってるのよ。あなたは毎日欠かさず花壇に水をあげるような、とっても優しい心を持ってるじゃない。その優しさこそが、本当の強さなのよ、リュディガー」
「マ、マーヤ……」
「それに身体なんて、大人になったら自然と強くなるわ。だから将来は、リュディガーが私のことを守ってね」
「う、うん! 約束するよ!」
「ふふ、はい、カレーパン半分あげる。一緒に食べましょ」
「あ、ありがと」
マーヤから差し出されたカレーパンを齧ると、自然と涙が溢れた。
「ふふ、何泣いてるのよ」
「あ、あはは。あまりにカレーパンが美味しかったからさ」
「でしょでしょー! このお店のカレーパンメッチャ美味しいよね! 私も将来パン屋さんで働いて、こんな美味しいカレーパン作るのが夢なんだー」
「はは、マーヤならきっとその夢叶えられるよ」
マーヤと二人でいる時間は、まさに夢のようだった。
約束通りマーヤを守れるような男になるため、私は必死に身体を鍛えた。
――そして月日は流れ、20歳になった私は、遂に念願だった王立騎士団に入団することができたのだった。
これで約束通り、マーヤを守れる男にやっとなれる。
私は入団許可証を握りしめながら、マーヤの働いているパン屋に駆け込んだ。
「マーヤ! やっと俺、騎士になれたよ!」
「わあ! おめでとう、リュディガー!」
マーヤがいつもの太陽のような笑みで、私を祝福してくれた。
「やっと夢が叶ったのね!」
「ああ、これもずっと君が応援してくれていたお陰だよ」
「ううん、騎士になれたのは、それだけリュディガーが頑張ったからよ。私は大したことはしてないわ」
「そ、そんなことないよ! マーヤがいてくれたから、俺は今日まで頑張れたんだから!」
「リュディガー……」
マーヤとの間に、何とも言えない甘い空気が流れる――。
子どもの頃は男勝りだったマーヤだが、今ではすっかり大人の美しさを纏った女性に成長していた。
そのあまりの美しさは、わざわざ貴族の男性がマーヤ目当てにこの店に通うほど評判になっていた。
「そ、それに、夢を叶えたのはマーヤのほうが先だしさ!」
マーヤは私よりも一足先に、パン屋で働いて美味しいカレーパンを作るという夢を叶えていた。
マーヤの作るカレーパンは絶品で、私はほぼ毎日このパン屋に通って、マーヤお手製のカレーパンを買うのが日課になっていた。
「まあね! でもそれだって、リュディガーがずっと私を応援してくれたから、叶えられたんだよ」
「はは、じゃあ、俺たちはお互いがお互いの夢を叶える手伝いをしてたってことなんだな」
「ふふ、そうだね。――あ、リュディガー、これ持っていって。私から騎士になれたお祝いだよ」
マーヤが袋いっぱいに詰めたカレーパンを差し出してくれる。
「え!? いいの!? こんなにいっぱい」
「もちろんだよ。これ食べて、お仕事頑張ってね」
「……ありがとう。頑張るよ」
今思えば、この時が私の人生の絶頂だったように思う。
――だがその数日後。
「……あ、いらっしゃい、リュディガー」
「……?」
私がいつものようにパン屋に入ると、普段は常に元気なマーヤが、珍しく気落ちしている様子だった。
マーヤの前には、如何にも高そうな装飾品で全身を着飾った、30歳くらいの男が立っている。
その男に私は見覚えがあった。
それは他でもない、我が国の筆頭侯爵家の当主である、オストヴァルト侯爵その人だった――。
マーヤ目当てにこの店に通っている貴族男性というのが、まさにオストヴァルト侯爵だったのだ。
この時私の背中に、不意に悪寒が走った。
「ヘヘ、そういうことだから、またな、マーヤ」
「……はい」
オストヴァルト侯爵はマーヤにそう言うと、私に無言でゴミを見るような目を向けながら店から出て行った。
「マーヤ、オストヴァルト侯爵は何て?」
「…………求婚されたの」
「――!!」
私は後頭部を鈍器で殴られたような感覚がした。
きゅ、求婚……!?
マーヤがオストヴァルト侯爵から……求婚、された……?
――完全に油断していた。
いくらオストヴァルト侯爵がマーヤに気がある素振りをしていたとしても、オストヴァルト侯爵ほどの身分の人が、平民のマーヤと結婚することは有り得ないと高を括っていたのだ。
それに――。
「で、でも、オストヴァルト侯爵には、あまり良くない噂を聞くけど……」
オストヴァルト侯爵は今まで三回結婚しているのだが、その三人の妻、いずれもが不審死しているのだった。
三人とも全身に酷い虐待を受けた挙句、全裸で路地裏のゴミ捨て場に遺体を遺棄されていた――。
世間ではオストヴァルト侯爵が妻を惨殺したのだという説が濃厚だったが、相手が筆頭侯爵ということもあり、王立騎士団でも早々に捜査を打ち切ってしまったと、騎士の先輩が零していた。
「……うん、でも、もし断ったら、私の家族がどうなっても知らないぞって言われて」
「なっ……!? あんまりじゃないかッ! そんな脅すような真似ッ!」
「……」
マーヤはエプロンを両手でギュッと握りしめながら、俯く。
――くっ!
「俺、オストヴァルト侯爵に抗議してくる! もしそれでも引き下がらないなら王立騎士団で再捜査して、オストヴァルト侯爵の悪事を暴いて見せるよ!」
「――! それだけはやめてリュディガー! そんなことしたら、あなたはオストヴァルト侯爵に圧力を掛けられて、王立騎士団をクビになっちゃうわ!」
「で、でも……」
「騎士になるのは子どもの頃からのあなたの夢だったじゃない。お願いだからその夢を、私のために潰すようなことはしないで。もしそうなったら、私は一生後悔するわ」
「マーヤ……」
「大丈夫! 私はリュディガーの知ってる通り腕っ節には自信あるから、万が一オストヴァルト侯爵から暴力を振るわれても、十倍にしてやり返すからさ! あなたは絶対、立派な騎士になってねリュディガー。私はずっと、応援してるからね」
「……」
いつもみたいな太陽のような笑顔でそう言われてしまっては、もう私は何も言えなかった――。
――そして半年が過ぎた。
「……ハァ」
王立騎士団からの帰り道。
マーヤが働いていたパン屋の前を通りながら、今日も私は一人溜め息を零した。
マーヤがオストヴァルト家に嫁いでからは、私がこのパン屋でパンを買うことはなくなったが、それでも毎日わざわざ遠回りをしてでも、このパン屋の前を歩いてしまう。
このパン屋を見るたび、マーヤとの思い出が蘇る気がするから……。
「――!」
その時だった。
前方に無数の護衛をつけながら、マーヤとオストヴァルト侯爵が並んで歩いているのが目に入った。
思わず目を逸らしそうになったが、ふと視界の端に映ったマーヤの顔を見た瞬間カッと頭が熱くなり、慌ててマーヤのところに駆け寄った。
「マーヤッ!!」
「――! ……リュディガー」
マーヤは私の顔を見た途端、絶望的な表情を浮かべた。
だが私はそれ以上に絶望していた。
――マーヤの顔は、見るも無残に腫れ上がっていたのだ。
明らかに誰かに殴られたものだった。
……いや、そんなの、オストヴァルト侯爵に殴られたに決まっている!
私はオストヴァルト侯爵のことを、鬼のような形相で睨みつけた。
「アァン? ああ、お前は確か、マーヤの幼馴染だった男か。何だ? 俺様に何か文句でもあるのか? その鎧、王立騎士団のものだよな? あそこの団長とは、俺も懇意にしてるんだがなぁ」
「くっ……!」
コイツ――!!
私は思わず拳を握りしめた――。
「や、やめてよリュディガー! いつまで幼馴染面してるのよ!」
「――!?」
マ、マーヤ……!?
「わ、私はもうこの人と結婚して、幸せな人生を歩んでるのよ。そ、そうやって付き纏われるの、ハッキリ言って迷惑だわ」
「……!」
マーヤ……。
「さあ、行きましょあなた。こんな男のことは放っておいて」
「ヘヘ、ああ、そうだな」
オストヴァルト侯爵は勝ち誇ったような顔を私に向けながら、マーヤと手を組んで去って行った。
私はそんなマーヤの背中を、いつまでも無言で見つめていた――。
――そしてその翌月。
「……ハァ」
私は酒瓶を片手に、夜の街を当てもなく彷徨い歩いていた。
あれ以来私は、すっかり酒に逃げるようになってしまっていた。
毎晩浴びるように酒を呑み、いつの間にか眠る。
そうでもしていないと、とても生きていられなかった。
「うわぁ、こりゃ酷ぇな」
「ああ、だれがこんなこと……」
「……?」
その時だった。
前方の路地裏の前に、黒山の人だかりが出来ていた。
私の背中に、不意に悪寒が走った。
ま、まさか――!
「ど、どいてください!」
私は人だかりを搔き分け、前に出た。
そこには――。
「――あ、ああ――マーヤ」
全身に酷い虐待痕が痛々しく残っているマーヤが、全裸でゴミ捨て場に無残に捨てられていた――。
夥しい数の鞭で打たれた痕があり、挙句お腹には焼きごてで『燃えるゴミ』という文字まで刻まれていた……。
マーヤ――!
マーヤマーヤマーヤマーヤマーヤマーヤ――!!!
「ああああああああああああああああああああああああ」
私は慟哭しながら、もう体温が残っていないマーヤの身体を抱きしめた。
何故――!!
何故私は何もしなかったんだ――!!
大人になったら私がマーヤを守ると、あの時約束したはずなのに――。
自分の不甲斐なさに震えながら、私の全身は怒りに支配されていた。
オストヴァルト――絶対に許さん――!!
私は上着をマーヤの身体にそっと掛けてから、オストヴァルトの屋敷に向かって駆け出した。
「オイ!!! オストヴァルトを出せ!!!」
オストヴァルトの屋敷に着いた私は、二人の門番に怒鳴りつけた。
「何だ貴様は」
「オストヴァルト様はもうお休みだ」
だが門番は無色透明な目で、事務的に私を追い返そうとする。
「オストヴァルトがマーヤを殺したんだッ!! 王立騎士団の騎士として、俺がオストヴァルトを逮捕する!!」
「オイオイオイ、滅多なことを言うもんじゃない。オストヴァルト様が奥様を殺しただと? 確かに昨日から奥様の姿は見ていないが、オストヴァルト様に限ってそんなことなさるはずがない」
「そうだそうだ。お前も王立騎士団の人間なら、自分の立場を弁えろよ」
「なっ――!」
この時私は確信した。
この二人も、オストヴァルトの悪行には薄々気付いていながらも、目を逸らしているのだ。
「何だぁ? 騒がしいなぁ」
「――!!」
その時だった。
オストヴァルトが寝間着姿で、眠そうな目を擦りながら現れた。
コイツ――!!
「貴様それでも人間かッ!!! 俺は絶対にお前を許さないッ!!! 必ず貴様の罪を暴いて、マーヤの仇を討ってやるッ!!!」
「アァン? マーヤの仇だぁ? ああ、もしかしてあの女死んだのか。どうりで姿が見えねぇと思ったぜ」
オストヴァルトは腕を組みながら、うんうんと頷く。
白々しい真似を――!!
「まったく、俺は愛する妻を喪った被害者だってのに、その俺を犯人扱いとは。平民の分際で、とんだ痴れ者だな。オイお前ら、この痴れ者を、キッチリ教育してやれ」
「はい。――オラ!」
「がはっ!?」
右の門番のボディーブローが、私の鳩尾にモロに入った。
「ほらよ!」
「がっ!?」
続いて左の門番の右ストレートが私の顔面に直撃し、思わず私はその場に倒れ込んだ。
「オラ! オラ! オラ!」
「痴れ者が! 痴れ者が!」
「う、うぅ……」
倒れた私のことを、二人の門番が容赦なく踏みつける。
子どもの頃、近所のイジメっ子たちから理不尽な暴力を受けていた記憶がフラッシュバックする――。
「ヘヘヘ、イイザマだなぁオイ! 平民の分際でイキがるから、こうなるんだよぉ!」
オストヴァルトが勝ち誇ったように高笑いしながら、私を見下す――。
あまりの悔しさに私は大粒の涙を流しながら、ひたすら痛みに耐えた……。
「どうだ? これで少しは自分の立場ってもんがわかっただろう? オイ、目障りだ。このゴミをさっさと俺の前から片付けろ」
「「はい」」
私は二人の門番に引きずられ、少し離れたところにあったゴミ捨て場に放り投げられた。
「これに懲りたら、二度と舐めた真似はするなよ?」
「この次はこんなもんじゃ済まねぇからな」
門番は去り際に、ペッと私の顔に唾を吐き捨てていった。
空を見上げると私を嘲笑うように、満月が煌々と輝いていた。
「う、うぅ……マーヤァ……」
私は顔を覆いながら、朝までその場で泣き続けた――。