さぁ、いよいよだ。ナディスはゆっくりと深呼吸をして、自分の身だしなみを確認する。
美しいブロンドヘアは、普段はストレートだが今日は緩く巻いてもらってゆるふわヘアにしている。大体は下ろしているが母ターシャの勧めでハーフアップに。
子供なのであまり化粧をしすぎてけばけばしくなってはいけないからと、頬に少しだけ赤みを入れてパウダーをほんのり乗せて肌の調子がよく見えるようにしつつ、唇がふっくら見えるようにと淡いピンクの口紅を。
ドレスは控えめに、だが相手であるベリエル・レイ・ペツォールト・グロウの色である『紫』をベースにしている。
子供らしくふんわりとしたデザインのもので、裾にいくほど紫が濃くなるように。肌を露出することは好ましくないと、肘辺りまで袖はあるし手首には淡いクリーム色のレースの手袋をつけている。
髪飾りはナディスの目の色である青色を入れたかったので、最高級のサファイアをあしらった黄金のバレッタを付けて、ハーフアップにしているところのまとめの飾りとしている。
「お母さま……わたくし、おかしくない?」
「大丈夫よナディス、とっても可愛いわ」
「んにゃ」
そしてナディスの腕の中にはしっかりツテヴウェが控えているのだが、ベリエルが来たらほいっと投げ捨てる気満々である。
「お越しになりました!」
執事長の声で、ガイアスがナーサディアやターシャの前に出る。豪奢な馬車が公爵家の門前に止まり、門が開かれれば馬車から赤い絨毯が敷かれていく。
「(来た……!)」
ナディスがごくりと息を吞んでいると、馬車の中から正装したベリエルが降りてくる。
「ようこそお越しくださいました、ベリエル殿下。ガイアス・フォン・ヴェルヴェディア、殿下のお顔を拝謁できましたこと、光栄にございます」
「ああ」
「遠いところ、遥々我が国へと足を運んでいただきましたこと、重ねて御礼申し上げます」
「いや、将来の婚約者になるかもしれない相手に会えるんだ。このくらいこちらから足を運ぶことが礼儀であろう」
まぁ……とターシャの口から感嘆の声が零れる。
とても礼儀正しく、眉目秀麗。
公爵家の使用人たちも、ほう……とベリエルに見惚れているのだが、それ以上に彼に見惚れているのは他でもない、ナディスだった。
「(え、どうしましょう。これは夢……? 夢なのかしら……)」
<夢じゃねぇよ>
ぎち、とツテヴウェがナディスの腕に爪を立てたおかげでナディスはハッと我に返るが、こそっとツテヴウェを腕から下ろす。
「……ああ、あちらにいらっしゃるのがわたしの?」
「はい、我が娘、ナディスにございます。さぁナディス、こちらへ」
「……はい、お父さま」」
一度目の王太子妃教育、王妃教育で培ったもの全てを吐き出さんばかりの勢いで、優美にベリエルの前にナディスは歩み出て行った。
そして、グロウ王国式の礼を取る。勿論、王族に対してのものなので、最高の敬意を払って、外ではあるがすっと膝をついて深く頭を下げたのだ。
「(へぇ?)」
「高貴なるグロウ王国、王太子殿下であらせられるベリエル殿下に拝謁できました光栄。ナディス・フォン・ヴェルヴェディア、光栄の極み。そして我が国にお越しいただきましたことにつきましても、父に続きまして御礼申し上げます」
丁寧なグロウ王国の言葉できっちりと挨拶をし、ベリエルが良いというまで決して顔を上げないようにナディスはじっと待つ。
ふと、視界にベリエルの靴の先が入ったかと思えば、下を向いているナディスに対して手を差し伸べているのが見える。だが、すぐに顔を上げてはしたない令嬢だとも思われたくないから、そのままで居続けていると頭の上からベリエルの声がやってきた。
「ナディス嬢、顔を上げてくれるかい?」
「……お言葉、しかと承りました」
す、とナディスが顔を上げる。
ばっちりとベリエルと目が合ったナディスが、叫ばないようにすることで必死だったのだが、それがどうやら功を奏したらしい。
「そんなに怯えないで、取って食いやしないよ」
あはは、と笑ったベリエルの笑顔の眩しさたるや。
さらさらと揺れる黒髪はとても綺麗で手入れがされていることは一目瞭然、美しい肌と手袋越しにも分かるしなやかな指、美しい赤い瞳はまるで吸い込まれそうなほどに深く美しかった。
「……あ、の」
「ああ、目の色が珍しいかい?」
「いえ……まるでルビーのように深く美しい色だな、と見惚れてしまいました。不躾な眼差し、誠に申し訳ございません……」
申し訳なさそうに言うナディスに、さぁ、と自分の手を握る様に促したベリエルの言うがまま、ナディスはようやく彼の手を取ってゆっくりと立ち上がった。
一体どうなることやら、と見守っていたガイアスやターシャは、ほっと息を吐く。
「御手を、失礼いたします……」
ナディスはしずしずとベリエルの手を取ったまま歩きながら、照れ臭そうに微笑んだ。
「良いんだよ、わたしのせいでナディス嬢に膝をつかせてしまったことも申し訳ないし、将来のわたしの妃になる予定の大切な人を、いつまでもあんな姿勢でいさせるわけにはいかない。それに……」
「それに……?」
「是非、この公爵邸の庭を案内してくれないかな。きっと、とても美しいんだろうな、と思って」
「……っ、はい!」
ナディスの顔がぱっと輝き、ガイアスとターシャを見て、とても嬉しそうに微笑んだまま明るい声で言葉を続ける。
「お父さま、お母さま、わたくし殿下をご案内いたしますわ!」
「ああ、ではご案内が終わるころを見計らって四阿にお茶を用意させよう。殿下、もし何かございましたら遠慮なく娘に」
「ありがとう、公爵」
「では……ベリエル様、参りましょう?」
にこ、と微笑んだナディスは、くい、と軽くベリエルの手を引く。
とてとてと歩いてくるツテヴウェを見て、ぱちん、とナディスはウインクをした。
<ツテヴウェ、何かあればサポートよろしくね>
<おう>
「あれは、君の猫かな?」
「はい。我が家に迷い込んできたので、わたくしがお世話を……」
「とても責任感が強いんだね」
にこにこと上機嫌なまま、ベリエルとナディスは仲睦まじそうに歩いていく。
彼らの後ろ姿を見送ってから、ほっとした様子でガイアスとターシャは屋敷内へと歩いていくが、手招きして護衛騎士を呼んだ。
「お呼びでしょうか」
「ナディスと殿下を守れ、何があっても怪我一つさせるな」
「はっ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ナディス嬢、君の語学力はすごいね」
「え……?」
「わたしとの婚約の話が出てから、あまり日にちが経過していないっていうのに」
中庭まで歩いてきたナディスとベリエルは、ゆっくりとしたペースで庭園を散策していた。
「わたくしの……語学力が、でございますか?」
褒められたナディスは、内心飛び上がるほど嬉しかった。
絵姿でしか見ていないベリエルに会えたことだけでも嬉しいのに、こうして言葉を交わせて、しかも手を繋いで庭園を散策までしているだなんてまるで夢のようだ!と心の中でくるくる踊っている。
「婚約者となれるかどうかは分かりませんでしたが……ベリエル様の御国のお言葉を話せた方が良いでは……と、その……勝手ながら判断いたしまして」
照れ臭そうに呟くナディスを見て、ベリエルは嬉しそうに微笑んだ。
ああ、これは全て自分のためなのだと思うとベリエルは嬉しくてたまらない。
正直なところ、ここまでの気遣いをしてくれた令嬢は、今までほぼいなかったのだ。更に、自身の国の礼儀作法まで学んでくれているだなんて思いもしなかった。
これまでなら、『ベリエル様の御国に嫁いでからしっかりと学びます!』と笑顔で自信満々に言っている令嬢ばかりで、先に学ぶ視線を見せてくれている人になんて会えなかった。
「……嬉しいな」
「……殿下?」
「こうやって気遣いをしてくれている令嬢に、だなんて、早々会えることはないんだ。だから、とっても嬉しいんだよ」
ベリエルの言葉に、ナディスの顔はぼふ、と真っ赤になる。
ああ、とんでもなく可愛い人だ……とベリエルはほっこりしつつ頬を赤らめるナディスを見ている。
……のを、公爵家の面々と、ベリエルの従者たちが木の陰にかくれて『何て可愛いお二人……!』と感極まって見つめているだなんて、二人は全く気付いていなかったのだ。