「ナディス」
「あら、ベリエル様」
ベリエルが公爵家に滞在して三日目。
ベリエルのきらきらオーラにやられまくっていたナディスだったが、ようやく慣れてきた。慣れてきたものの、少しだけ胸の奥でもやついたものが存在している。
「ナディス、先日の件だけど……」
「先日、の……って」
何かあったか、と思ったがランチの時の『愛』という単語が引っ掛かっていたのだ。
しかもそのことで、表情を凍り付かせるという失態まで犯してしまった。ナディスの頭の中には、この婚約が失敗すれば公爵令嬢としての価値がなくなってしまうのでは、とじわりと顔色を悪くした。
「……あ、あの」
「何か、あったのかな?」
あれ、とナディスは一瞬だけ目を丸くした。
まさかこんなに気にかけてもらっているだなんて、思ってみなかった。ベリエルの目には、ナディスを心配する気持ちが、はっきりと見えるから、これを信じていいのかと不安になってしまうが、『信じたい』という気持ちが大きくなってきているのも事実だ。
「何かあった……と、申しますか……」
ベリエルは、ナディスが話してくれると信じているのだろう。
まっすぐ、ナディスから目を逸らさずに真剣な目を向けてくれているから、正直に話した方が良いのでは、と判断した。けれど、悪魔の力を使ってやり直ししているだなんて言えるわけはなく、ほんの少しだけ脚色することにした。
「……実は、夢を見まして」
「夢?」
「実は、ですね」
申し訳なさそうに、少しだけ恥ずかしそうにしながらナディスはぽつぽつと話し始めた。
「なるほどね……」
ナディスが話した内容は、以下の通り。
夢の中で、成長したナディスはミハエルの婚約者となっていたのだが、夢の中でひどい裏切りにあった、ということ。別に好きな人が他にできたとかは良いとして、やってもいない罪を押し付けられ、ナディスが処刑されてしまうだけではなく、家ごと取り潰されてしまって怖かった……というもの。
「夢、か」
「はい。ですが……たかが夢、だなんて思えないほど、リアルで……わ、わたくし……」
ほんの少し脚色をして話したのだが、やり直す前の処刑寸前の状況を思い出したらしい。
ナディスの目から、ぽと、と涙が落ちた。
「あ……」
「ナディス」
おかしい、こんなはずではなかったのにとナディスが慌てて涙を拭おうとした矢先、ベリエルの手が伸びてきて、ナディスの涙をそっと拭った。
「大丈夫だ」
「ベリエル、様」
「わたしは、君のことをそんな風に雑に扱ったりはしない。わたしは……きちんと君のことが、必要なんだ」
必要だ、という言葉にナディスの目から更に涙が落ちる。
やり直す前、ナディスの言うことはミハエルには何も聞いてもらえなかった。それどころか、人を罵って国王夫妻が留守のタイミングを見計らって処刑までしでかした。
そんな人とベリエルを混同するだなんて、とてもひどいことをしてしまったとナディスは後悔する。
「君と話して、わたしはナディス自身が欲しい、と思ったんだ」
「わたくしが、欲しい、って」
「うん」
にっこりと満面な笑顔でベリエルは躊躇なく言い切って、涙を拭った反対の手でナディスの手をぎゅっと握る。
「へ!?」
「うん、正式に婚約しよう。文書を作らせて、さっさとこちらに送らせるから、婚約締結をしてもらおう」
「あ、あの、えっと!?」
とんでもなく早い展開に、ナディスはぎょっと目を丸くするが、ベリエルはいたって本気のようで繋いだ手をぐいっと引っ張られ、そのままベリエルに抱きしめられてしまった。
「(あああああああああああああああああ!?!?!?)」
<姫さん生きろよー?>
「(助けて!! 幸せで死ぬ!!)」
<……あーもー>
なお、このやりとりはナディスの部屋で行われていたから、一応同じ空間にツテヴウェもいた。
ナディスの心の中の絶叫にツテヴウェはこっそり耳を塞ぐようにしていたのだが、ナディスがそれを見逃すはずはない。ヘルプを出して、さっさと助けて! と絶叫する。
契約者だから助けなければ、とツテヴウェはのそりと起き上がってとてとてとナディスのところまで歩いて行って、ベリエルの足元にすり寄った。
「……おや」
「……あ」
「ナディスの騎士が来てしまったな」
あはは、と笑っているベリエルは、ようやくナディスの体を離した。できればもう少し早く離してほしかった、と思いつつ離れてほしくもなかったなぁ……とナディスはちょっとだけ後悔するが、ベリエルがナディスの頭をぽんぽんと撫でた。
「ナディスを守っていてくれた騎士様が、離れろって言ってるみたいだし。でも、最終的にはわたしのお嫁さんになるんだからな?」
「にゃー?」
「あはは、さすがに人の言葉は分からないか」
<分かってるよ、ばーか>
「(ツテヴウェ)」
<すんません>
ベリエルに見えないように、ナディスはその辺のごろつきなら殺せるのではないか、というレベルの眼差しでツテヴウェを睨みつけた。
その恐ろしい目と視線がかち合ったツテヴウェは、思わず硬直するがしゃがんできたベリエルに頭をわしわしと撫でられる。そうするとナディスの目力が更にアップすることとなってしまったのだが。
「(ベリエル様に何撫でられているのよ!)」
<不可抗力って、知ってる?>
「(知らん)」
令嬢らしからぬ凶悪な顔と、ドスの聞いた低音に尻尾が物凄い勢いでぴんと立つ。
「あれ、どうしたんだろうね?」
ベリエルがそう言って微笑んで振り向いた瞬間、ナディスはぱっと微笑みを浮かべてベリエルの隣にしゃがみこんだ。
「きっと何かを感じ取ったんですわ。……もしかしたら、ベリエル様の未来が明るくなるか……あるいは」
「あるいは?」
「当家のご先祖様でも『見えて』いるのかしら」
あはは、うふふ、と和やかに話しているナディスの変わり身には適わない、とツテヴウェはこっそりため息を吐いた。しかし、ナディスはそれだけベリエルを大切に想っているし、ミハエルとは異なって行動できちんと示してくれる。
「(わたくしは……この人を、信じたい)」
そう決めたら、やることは一つだけだった。
「ベリエル殿下」
「ん?」
「わたくし、もっともっと、勉強します」
「……うん?」
「だから……お側にいても、良いでしょうか」
「ナディス、それって……」
ふ、とナディスは表情を緩めて頷いてみせる。
今度は、やられたらやり返すだけで、遠慮なんてしないと決めたのだ。
しかも、ナディスには一番の味方であるツテヴウェがいてくれる。それならば、何も怖いものなんかない。
「婚約のお話お受けしますので……まずはわたくしの父と母に……」
「ああ、是非とも報告しよう!」
ベリエルも本当に嬉しそうに微笑んで頷いて、そして、ナディスに向けて弾けんばかりの笑顔を見せてくるものだから、ナディスは危うく点に召されかけるほどの衝撃を受けたのだが、まぁこれは恋愛馬鹿のナディスにとっては割とよくあること。
本当はこんなことない方が良いのだが、如何せん、ナディスの目には彼女が恋をした相手がとてつもなくキラキラと輝いて見えているのだから仕方のないこと。
とはいえ、見ている側にとっては結構心臓に悪い。悪魔も例外ではなかったらしく、ツテヴウェがちょっとドン引きしているレベルで物凄い顔をしているナディスを猫のまま見上げた。
<……顔>
「(黙らっしゃい)」
うっかりツッコミを入れたツテヴウェは、ベリエルが部屋を出て『婚約を結ぶぞー!』と意気揚々と叫びながら出て行った後で、がっちり尻尾を掴まれて宙づりになるというお仕置きを受けてしまうのだが、まぁそれは別の話である。
ついでにナディス曰く『このくらいのお仕置きなんて、ツテヴウェにとっては朝飯前ですわ、きっと』と断言してくれたおかげで、次回からはもうちょっと優しいお仕置きにしてくれ! と懇願するツテヴウェ(猫の姿)がいるのだが、こっそり見ていたメイドによってヴェルヴェディア公爵家中に拡散されてしまったのは、言うまでもなかった。