極寒の空気――おそらく、体感よりも気温は高いのだろうが、寒さに弱い彼は今暖かで保護された空間から、抜け出せないでいた。
本日、ピカン・シティは春節――新年を迎えていた。
「さむ……っ……きょうはひと際冷えるな……」
布団から手を伸ばして掴んだカーディガンを引っ張り込むと、ラウルはそれをもたもたと寝巻の上に着用した。
カーテンの外がうっすら明るくなっているような気がして、ひやりとして時計を見遣る。
だが、まだ5時台と、日の出を迎えるまでに一時間以上猶予があることに、安堵した。
――まだ、なんとか、大丈夫そうだな。
ルオ家の令嬢の住まうこの屋敷で執事を務める彼は――この寝心地のいい寝具での早起きが不得手だった。
というのも、裏では怪盗を生業としており、活動は夜行われることが多いからというのもある。
夜行性ともいえる性質の彼に早起きしろというのも酷な話ではある。
――さっさと身支度しなくてはな。また『お叱り』を受けてしまう。
グズグズと布団から抜け出せない自身を叱咤するために、いま一番恐れていることを妄想する――
『春節のめでたい日に寝坊するとは、何事⁉ 根性を叩き直して差し上げますわ』
などと、侍女長のマリーが飛んできて、バケツの冷水を浴びせかけられる……という、極端な情景が浮かんでしまった。
さすがにそこまでの目に遭ったことはないのだが……どこか被害妄想に見舞われているらしい。
「起きよう……」
決心し、布団から這い出たラウルは、やはりその寒さに怯みそうになるも、なんとか気持ちを立て直して洗面台へ移動し、やはり水の冷たさに耐えながら歯を磨いて洗顔をした。
さっぱりしたところで、改めて着替えをしに自室へ戻った。
――妙だな……。
普段なら――使用人の数は少ないながら、業務に励む者たちの物音がしている筈だというのに、今日はしーんと静まり返っている。
――まさか、屋敷の者全員が神隠しに遭ったなどということはないだろうな?
相変わらずの静寂の中、自室で手早く執事ウェアに着替えたラウルは屋敷内の様子を伺うために部屋を出た。
「……お、お嬢様⁉ よかった。ご無事だったんですね?」
「は? 何言ってんの?」
眉根を寄せるナディアは、シックな紺の
基本的に彼女は外出時以外、ラフな格好でいることが多かった。
「いや、あまりにしんと静まり返っているので、何かあったのかと思ったのですよ。誘拐されたとか……」
「誘拐って……あなた、頭大丈夫?」
ラウルが冗談を言っている様子でないだけに、ナディアが訝しげな表情をする。
――しまった……令嬢とはいえ、一般人に誘拐というワードは非現実的だったか……。
怪盗を生業としていると、裏の世界を見ることが多く、誘拐窃盗はおろか殺人まで往行しているために、それらが『過激な言葉』だと意識せずに発言するのが難しい。
「い、いえ……神隠し……とか、なにか……」
慌てて取り繕ったが、ナディアの表情は渋い。
「そんなわけないじゃない。休暇よ、休暇。屋敷が静かなのは、みんな休暇で帰省したり旅行したりしてるからなの」
「……は?」
「え、なにその『いま、初めてその話聞きました』って感じの反応は? 休暇の申請出しておいてって言われたでしょ? 早い者勝ち的なところがあるから……この間までみんなの勤務とか、執事が取り仕切ってた筈だけど、今回はマリーが管理・調整してくれたんだと思うけど」
――休暇? そんな話はあったか???
屋敷の仕事(雑務)をこなしながら、ちょこちょこ怪盗としての任務もこなしているため、情報が整理できていないところはあった。
忙しさにかまけて、後回ししていた事柄の中に、どうやら春節前後の休暇の話もあったらしい――いま、ようやくその事実に気が付いた。
もしかしたら、連絡掲示板に記載があったのかも知れず、見逃したらしい。
「この期間、基本的に二人ずつ残ってくれるってことにはなってるんだけど、今日明日だけはマリーも休みを取ることになってね。何年もお姉さんや姪っ子に会えてないものだから、それを咎められたとかで実家に帰っちゃったのよ」
「え……従者は私、ひとりですか? きょう……?」
こんなことは予想していなかった。
少数精鋭とはいえ屋敷の従者が常に何人か居て――大所帯の家族と共に住んでいるような気になっていた。
どう反応すべきか分からず、しばらく呆けていると――
「そ。でも、きょうは外出の予定だから、食事も外で済ませればいいし。それに付き合ってくれればいいの」
助け船でも出すように、ナディアがそういった。
「え……ええ……」
「ってことで、わたしも支度してくるから、あなたも」
「え? 今からですか⁉」
まだ日が昇りきらぬ早朝に外出とは……?
春節祭として、街がお祝いかつ祭りのムードに染まるのは、一般的に店舗が開店する時間くらいからの筈だが。
「別に早すぎることなんてないでしょ。ピカン・シティじゃ、
と、言いかけてから、ナディアはぽん、と手を打った。
「あ、そうか。あなた、
「え、ええ……宝石商として、各国を飛び回っていましたから……確かに、この街の習わしには疎いですね……申し訳ないです」
この屋敷に入ったときの設定を思い出しながら、話を合わせた。
ちょくちょく『以前の様子』については質問されるものの、どうにかうまく躱してはいる。
――深い質問をされた場合に逃れる術を見出していないからな。あまり長居するのも考え物かもしれん。
この屋敷に仕えるのも『華麗なる忠誠』を盗み出すまでの間だけだ。
来年の今頃はおそらく、もうここには居ない。
――まあ、最初で最後の正月らしい正月を体験するのだと思えば、悪くはないか……。
怪盗という特殊な職業についているおかげか、真人間の風習というものに縁がなかったため、それはそれで新鮮という気がしていた。