「歩いて向かうのですか?」
執事の制服の上にダッフルコートを羽織り、身支度を整えたあと、すぐに出かけるというので車のキーを取りに行こうとしたところで制止を掛けられたラウルが、不思議そうに訊いた。
「え~、なによ。そこから説明が必要? 春節初日のピカン・シティの繁華街周辺は歩行者天国になるわよね。まあ、日没までだけど。そうじゃなくても観光客も増えるし、車なんかで移動できるわけないじゃない」
髪の色と同じ深紅のドレスに身を包んだナディアが、呆れたように肩をすくめた。
「そ……そうでしたか」
確かに、春節の時期には町の中心地が混雑するという話は聞いたことはあった。
が、それは一般人の間の話で――大抵の場合はアルテミスのアジトにて、作戦会議と銘打った『新年会』が催されていた。
三日間ほど場末のバーを貸し切ったような状態で、終結したメンバーで飲んだくれるわけである。
――今年は参加せずにすんで、まあよかったな……。
怪盗団の連中、あるいは懇意にしてくれている後援者などが参加する宴会で、それなりに楽しめはするものの、やはり無茶苦茶なノリであるため、終わった後の疲労感は半端なかった。
今年の場合、お嬢様の世話をするというミッションはあるものの、ほかの従者――とりわけマリーが不在というのは随分と気が楽だった。
――口うるさく言われることもないからな。あのメイドが居ては息が詰まる。
身勝手でワガママだが、理不尽というほどでもないナディアとふたりきりという方が、明らかにマシな状況といえるだろう。
それだけラウルはマリーが苦手だった。
美しい衣装に見合ったミンクのコートを身に着け、防寒対策をきっちりしたナディアを伴って敷地内から出て門を施錠したところで、とある人影に気づいたラウルは思わず、顔を背けた。
「おっはよーございますー! っていうか、
門の前のアフロヘアの青年が大きく頭を下げた。
黒のロングコートの中身は
「リー刑事? どうしたの? こんな朝早く」
「いやだなあ、
「なんだ、てっきり『アルテミス』から予告状でも届いたのかと思ったわ」
「さすがに春節は泥棒も休暇中なんじゃないですか? 予告状も何も届いていませんよ」
「だったら、あなたと春節を過ごす理由もないわね」
冷たく言い放つと、ナディアはリー刑事の前を素通りし、歩道を歩き始めた。
「ちょっ……きょうは確かに『アルテミス』絡みじゃない。ですけど、やはりヤツを捕らえるためにはプライベートも充実させる必要があるでしょう。我々の信頼関係を強固にするためにも、こうして――」
「アルテミス絡みだけで充分だわ。それに、きょうのエスコート役は信頼できる、うちの執事が務めてくれてるから」
目立たぬように後方を歩いていたラウルの腕を取り、ナディアが笑みを浮かべた。
「あ? 新しい執事の方……ですか?」
「ええ。ラウルっていうの」
「ど、どうも」
ラウルは警戒気味に頭を下げた。
怪盗アルテミスとしての活動中、変装した姿だとはいえ、敵対する間柄だ。
何げない振舞いや、癖で身元がバレる可能性はある。
ラウルはできるだけ特徴を出さないような歩行を心掛けた。
「……ふぅん、随分とまあイケメンだね? なに? 今回は顔で選んだとか? 確かに見栄えの良さは重要だろうけど、それだけじゃ……」
不愉快そうに顔を覗き込まれ、ラウルの頬に汗が伝った。
ナディアが苦笑する。
「そんなわけないじゃない。彼、腕が立つの。だから……ボディーガードとしても優秀よ。おそらく、アルテミスを捕獲するのにも一役買ってくれるはずだって……」
――腕が立つ? いったいどうして……。
運動神経のよさについて見透かされていることは把握していたが、戦闘力の高さまで見抜いているとは……。
ナディアのことを侮れないと思いながら、そちらに視線を送ると、彼女は苦笑混じりに口を開いた。
「そういうことだから、リー刑事。それなりに長い付き合いになるあなたより、わたしは新参者のラウルと過ごすことで、出来るだけ信頼関係を築いておきたいと思ってるの。ご遠慮願えるかしら?」
「だ、だとしても……ナディアさんの執事はボクの仲間でもあるわけで。ボクにしても彼のことをよく知る必要はあるでしょう? 同行しますよ、ボクも!」
――簡単に引き下がるつもりはないってことか……。
あわよくば、令嬢とデートをするつもりだったらしいリー刑事はラウルを敵視するよう、鋭く見据えている。
「お嬢様、刑事がそうおっしゃっていることですし、
リー刑事と怪盗の自分……猫とネズミのような関係だと思えば、決して同行したい相手ではないが、彼とこうして接点を持つということは、リスクを抱えると同時に敵を知る――というチャンスでもある。
――この刑事がどういう人物なのか知っておくのも悪くはないだろう。
さらに、ラウルはナディアにひそひそ話でこう続けた。
「……寒い中、お待ちいただいたようなのです。無下になさってナディアさまに対する興味を失ってしまわれたら……
「……そうね、
と、ひとこと発したところで、目を輝かせたリー刑事がナディアの腕に自らの腕を絡ませた。
「ではお供します」
「って、なんでそんなに馴れ馴れしいのよ⁉」
突き飛ばす勢いで彼から離れ、ナディアはこめかみに青筋を浮かべた。
「ええ⁉ 若い男女が並んで歩くのに腕を組まないなんてそんなこと、あり得ますか? プライベートですよ? 誰に咎められることもないのに! この機を逃したら男がすたる!」
「なんでわたしの意志は丸無視なのよ? わたしがいつあなたと腕を組みたいなんて言った? 言ってないわよね?」
「言わなくても伝わります。照れ屋なんですから……」
自分の胸に手を置き、リー刑事はぽっと頬を染める。
「行くわよっ」
さっと身体の向きを変えると、ナディアは早歩きで前進しはじめた。
「ああ、ナディアさん! 待ってください。歩行速すぎっ……もしかして競歩の達人ですかぁあ~?」
「………」
爆速で歩行する令嬢と、それに続くアフロの男。
異様な光景を眺めながら、ラウルは静かに彼らのあとを追った。