慌てて階段を駆け下り、ホテルのロビーに降りたラウルは周囲を見回した。
「ナディアさま?」
まさか、彼女の関係者――というか、ライバルの令嬢やその従者と話をしていて、置いていかれるなんてことはないとは思っていた。
だが、周辺を探し回っても、ナディアとマリーの姿がどこにも見当たらない。
「⁉」
困惑しているラウルの頬に、冷たいガラスのようなものが押し当てられた。
「お疲れ様」
振り返ると、レモン水の瓶を持ったナディアが立っていた。
「どちらから?」
本当に驚いた、といった表情でラウルが訊いた。
「これを向こうで買ってたの」
フロントの先――ラウルからは死角になる位置に飲み物などを出している店があり、そこで購入してきたのだという。
「あ、ありがとうございます」
ラウルは差し出された飲み物を受け取った。
「早速、いただきます」
喉が渇いていたため、すぐに飲み干していた。
「まあ、お嬢様がこういった性格なので仕方のないところはありますけど、揉め事だけは起こさないようにお願い致しますわ」
空き瓶回収ボックスを指差し、マリーが冷ややかにいった。
「特に揉めたりは……」
――してない筈……だが。
「わたしは非常に満足よ。さっさと帰りましょ? 運転手が車を回してくれたから」
と、エントランスを指したとき、出入り口に車が停まったのが見えた。
「運転手?」
「きょうだけ雇ったの。うちの車、なんだか調子悪くて、途中で停まちゃったのよ。そのとき、ちょうど通りがかってね」
目の前に見覚えのないタウンカーが停まり、運転席に座る男が頭を下げた。
「なっ――」
彼の顔を見て、ラウルが硬直した。
「何をしているのです? ラウルさん」
「あ、はい」
ラウルは慌てて右に回って、後部座席のドアを開けた。
不審な表情でラウルを見ながら、ナディアが乗り込み、左側にマリーが乗った。
――ということは、俺が助手席か。
ラウルは運転席の男を軽く睨んだ。
「お嬢さまがお茶会に参加されずに帰るとおっしゃったので、予想よりもだいぶ早くなりましたけど、よくお気づきで。ずっと気を張っていらしたのですね?」
ホテルの正面玄関脇に駐車場があり、運転手はそこで待機することになっていた。
会が終わり次第、マリーが彼に声を掛けてホテルに車を付けてもらおうと思っていたのだが、その必要がなかったことを感心していた。
「いや~、まあ、ちょうどさきほど用足しにホテルに入ったんですよ。そのさい、お嬢様方が降りて来られるのを見ましてね」
調子のよさそうな運転手の男が満更でもなさそうに、頭を掻いた。
――嘘つけ。おおかた、令嬢か
「有能よね。専属の運転手として雇おうかしら」
「――ぶっ」
急にラウルが噴き出したために「まあ、はしたない」とマリーが眉をひそめた。
「お誘いいただけてありがたいんですが、専属にはならないフリーランサーなもので」
運転手がにっこり微笑んだ。
「そう、残念だわ」
さして残念ではなさそうに言って、ナディアが走り出した車の外を眺めた。
★
「――なんでおまえがここに居るんだ?」
後部座席のふたりが完全に寝入ったところで、ラウルが口を開いた。
ふたりが眠るよう、少々細工を施しておいたのだが、それが効いてきたらしい。
「一応、オレも今回の件に関してある程度関わってるっつ~か、そのお宝をゲットしてきたわけだし、ことの顛末を見守る必要はあるんじゃねえかな~って」
ラウルが抱える茶器ケースを
「俺が眠っている間にも動いてくれたことには感謝する。だが、人出不足の筈だろう? ボスの許可は取れたのか?」
「ボスなあ……なんつ~のかなあ、開き直ってるっつ~か、イカれはじめてるっつ~か、最近は突然大声で笑いだしたり、ひとりでぶつぶつ言い始めたりって……情緒不安定な様子だけどな。戻ってきたらおまえは三倍働かせるとかなんとか息巻いてたけど。ルカのヤツも勝手な行動をとったペナルティで、なかなかの激務にさらされてるっつ~か」
「三倍……? また、無茶なことを……」
汗を滴らせ、ラウルが顔を強張らせた。
「ボス曰く、おまえがお嬢に肩入れしすぎなのが、気がかりなんだと。実は今回、オレがこうしておまえに張り付いてんのは、その辺りを見極めてきてほしいな~、って、やんわりした命令でもあったりするわけよ。仮にそうだとしたら、修正しろってよ。オレはオレで別の仕事を掛け持ちさせられてるし、結構ハードなんだぜ~?」
「肩入れなど……!」
思わず顔を赤らめ、ラウルは拳を握りしめた。
「してねえって、言えるか? 誰の目から見てもおまえがお嬢に傾倒してるのは明らかだろうが」
「な、なにを言っている⁉ それはミッションを遂行するためで――」
「わ、分かった、分かったから。おい! 運転中だぞ、あっぶねえな⁉」
胸倉をつかみかけられ、ジオットは不安定な状態でハンドルを切った。
「あのな。オレはなにもからかいとか、冷やかしって意図で言ってんじゃねえ。今後もこんな調子でお嬢のために尽くされてもいちいちフォローできねえって言ってんだ」
手元が狂った勢いでセンターラインをはみ出したが、幸いにも対向車はおらず、何事もなくジオットの運転する車は安定した走行に戻った。
「……分かっている。今回は異例の異例だ。どちらかというと、勝負を申し込まれたのは俺の方だからな……」
「は~、案外負けず嫌いっつ~のか……お嬢とは似た者同士ってとこあるんだろうな」
「だから、いちいち令嬢のことを持ちだすな。今回のことは俺が個人的に勝負を受けたようなものだ。突っ走った行動をとったことは反省している」
「そこが、らしくねえって言ってんだ」
前方を見据え、ジオットが低い声で言った。
「どういう意味だ?」
「俺の知るエッジって男はもう少し冷静で、感情とは切り離した行動が取れるドライなヤツだったはずなんだよ。私情で行動を変えるような輩じゃない。――だからこそ、ボスはおまえにこの任務を与えた」
「もしかして……俺を任務から外すような話になっているのか?」
ラウルは息を呑んだ。
なんだか心がざわついた。
この勝手な行動を思えば、そうなったとしても仕方のないことだが……。
「いや? だから、こないだも言っただろ。ルオ家に入り込む人間が入れ代わり立ち代わり現れるようなことになると、リスキーだって。だから、今後もおまえに任せるつもりではいるらしい」
「そうか……」
安堵したことを悟られないよう、できるだけ感情を乗せずにラウルは呟いた。
「だからまあ、なんだ……もう少しうまくやれって話だ。悪いことはいわねえ、なるべく早くこの件を片付けろ。そうしねえと、うまくいくもんも行かなくなる」
「………」
――確かに、早急にケリを付けるべきだな。彼女の元に長居するようなことになったら……。
ジオットの言いたいことは分かる。
情が移ることを懸念しているのだろう。
――しかし……
横目でミラー越しに令嬢の寝顔を眺める。
――俺は……。
無事、『彼女』を裏切ることができるのだろうか……。
これ以上、この件について考えるのは得策ではない。
いまはひと仕事終えたばかりで、心も体も疲弊しているのだ。
ラウルは腕を組み、目を閉じた。