――大丈夫か?
死んだ魚のような目をしたラウルに、ローザはそっとおしぼりを差し出した。
――あ、ええ……いったいいつになったら本題にたどり着くのかと……。
ロジエに聞こえないように、ラウルは小声で呟く。
――実在の人間の語りに対してはスキップ機能も倍速機能も行使できないからな。黙って耐え忍ぶしかないだろう。
――もしかして、ボス、この話を聞かされたんですか?
――相手は依頼人だ。ある程度は仕方なかろう。これも仕事のうちだ。
――ある程度?
ロジエがしゃべり始めてから、三十分が経過している。
この調子では数時間はこの語りが続くことだろう。
昔話を滔滔と語り続けている婦人を見遣り、ローザとラウルは小さく嘆息した。
◇◇◇
「いらっしゃい。おお、これは珍しい。随分と美しいお客さんだ」
店頭に現れた彼は、パティシエふうの衣装を着た、美麗な男性だった。
地味な街に相応しくないくらい、洗練されたオーラを纏っていたの。
年のころは二十歳そこそこで、わたしと同世代。
商品である『ネジネジ』のように、首元で赤色のスカーフをねじねじと巻きつけているところもお洒落だと感じたわ。
要するに、わたしは彼に一目惚れしたのね。
まるで電撃に撃たれたような強烈な衝撃はなかったけど、胸の高鳴りは感じたわ。
「あの、『ネジネジ』というお菓子をいただきたいのだけど」
彼がまぶしすぎて直視できなかったわたしは、うつむき気味に言った。
「ありがとう。いくつ必要?」
「おひとつ。おひとついただきたいの」
ひとつと伝えたのは、どうせ母もシャルルも庶民の食べ物だとバカにして口にしないことが予想できていたことに加え……
恥ずかしながら、いくつも買えるほどの持ち合わせがなさそうだったためだ。
「……六百キンスになります」
「え? ええ……」
庶民的な食べ物だと聞いていたのに、思った以上の高額でわたしは巾着に手を突っ込んだまま、固まってしまった。
パン一斤が二百キンス。
この小さな菓子ひとつなら、せいぜい、百キンスもしないくらいの値段だと思っていたの。
巾着の中には三百キンスしか入っていない。
やはり、わたしは世間知らずなのだと落ち込んだわ。
どうしようかと逡巡していると――
「私が払おう。身なりを見て吹っ掛けるとは、卑しいヤツだな」
シャルルが現れ、千キンスを乱暴な仕草でカウンターに置いた。
「吹っ掛けてなんか……!」
「釣りはいらない」
「あっ……」
シャルルは紙の袋に入った『ネジネジ』を受け取ったわたしの肩を抱くようにして、強引に広場のほうへ引っ張っていった。
「い、痛いわ」
噴水のある街の広場に着いたわたしは、シャルルに抗議するよう言った。
「きみはバカにされてるんだ、あの男に。なのになぜ言い返しもせず、ぼうっとしている?」
「わたしが世間知らずなだけでしょう? バカにされているような感じもしなかったし、手間暇がかかったお菓子なのよ、きっと。彼は職人だもの」
「職人? こんな駄菓子を作ることがか? 高級なケーキを作る職人ならともかく、こんな片田舎のチンケな菓子になんの技術が居る? 材料だってどこから調達したのか分からんぞ?」
「ちょっと、やめてちょうだい」
彼から買った『ネジネジ』を奪い取ると、シャルルは噴水のほうへ放り投げた。
「あっ!」
と思った瞬間、横から走ってきた彼が噴水に飛び込み、ネジネジをキャッチしたと思ったら、縁の部分に着地していた。
「食べ物を粗末にするほうが、よほど卑しいよ。僕からするとね」
キラキラと輝く水しぶきの向こう側で、振り向きざまに彼が言った。
噴水の縁から降り、こちらへ向かってくると、彼は空中を飛んだものの無傷で済んだ『ネジネジ』をわたしに握らせた。
「あ、ありがとう……」
「僕が提供したお菓子は、しっかりお客さんに食べてもらいたいからね」
爽やかな笑みに、わたしの胸が高鳴った。
「お菓子屋さん……」
「それから……お釣りだ。お金を大切にできないことも卑しいことだと僕は思う」
彼はシャルルに釣り銭を差し出し、厳しい表情をした。
「卑しい? ほどこしだよ。金持ちが貧乏人にほどこしをするのは当然だからな」
シャルルがふん、と鼻を鳴らした。
「ほどこしを受けるほど貧しくない。つましくも楽しく暮らしてるんだ」
素早くシャルルのポケットにつり銭をねじ込んだ彼は、わたしの腕を取った。
「行こう」
「え?」
わたしの手を引いて駆け出した彼に驚きながらも、気分が高揚するのを感じた。
「おい! なんだ⁉」
突然のことに驚いたように、シャルルが追ってくる。
軽やかに駆ける彼に従い、街の中の雑然とした通りを走った。
さすが、住人なだけあって、ここの通りがどうなっているのか知り尽くしているようで、
「どこだ⁉ どこに行った?」
追いかけてきたシャルルが奔走する様子を、建造物の屋根の上から見下ろしながら、彼と顔を見合わせた。
通り過ぎていったのを確認すると、屋根から飛び降りた。
そして、彼がしばらく歩みを進め、繁華街から少し離れた薄汚れた小屋の前に辿り着くと、足を停めた。
「ここなら人が来ない」
「あの、お仕事は……?」
「きょうはきみが最後のお客さんだったんだ。夕方からは僕は自由だ。そういう約束なんだよ」
「そ……うなの?」
どういうつもりで、人気のない廃屋にわたしを誘ったのだろう。
これは
だけど……
彼と一緒にいられるのなら……。
怖いけれど、好奇心のほうが勝っていた。
「きみを招待するにふさわしくない場所だっていうのは分かってる。だけど、じっくりきみを見たいと思ったんだ――」
「――『彼』に見つからないうちに、行きましょう」
彼の真摯な視線を受け、周囲を見回したわたしは、彼よりも先にその小屋の敷地内へと足を踏み入れていた。
◇◇◇