「はしたない女だと思った? だけどね、彼には低俗な思惑があったわけじゃなかったの。ふたりっきりになっても、彼はあくまで紳士的な態度を崩すことはなかった」
まだまだしゃべり続けているロジエを前に、ラウルは魂が抜けそうになるのを必死に耐えていた。
――しょ、正気を保つんだ……まだ、本題に入っていない……。
さらに、店主であるローザがさりげなくこの場から姿を消したため、ラウルはなんだか裏切られたような気分になっていた。
「……あの……それで……問題の絵画の話は……いつ?」
話が途切れたタイミングで、ここぞとばかりにラウルが尋ねた。
「ふふ、その彼はね、画家の卵だったの。すばらしい才能を持った逸材だと思ったわ」
「盗み出して欲しい絵画というのは『彼』の描いた作品ということですか?」
「ええ、そうね……でも、当時はまだ……無名で誰にも認められていなかった。だから……わたしは選択を誤ることになったのよ」
「選択……?」
「ええ……」
ロジエは哀しげな表情で、空を仰いだ。
◇◇◇
「綺麗! これがわたし⁉」
あの廃屋は彼のアトリエだった。
彼――ジャクリーと名乗った美麗な青年に「きみを描きたいんだ」と懇願されたことで、わたしはモデルを引き受けたの。
イーゼルに立てられたキャンバスには裸婦の線画が描かれている。
「綺麗なのはきみさ。僕はその美しい姿を描いたにすぎない」
もちろん、人前で裸を晒すのには抵抗があったけど、芸術のためだし、彼に描いてもらえるならって――
「きょうはここまでだ。着色を終えるまであと数日かかる。だけどきみは――」
「大丈夫。完成まで滞在するわ。あのね……ご迷惑かもしれないけど……ここにわたしを泊めて欲しいの……」
少々躊躇いはしたものの、意を決し、わたしはそう切り出した。
「こんなあばら家にきみのようなお嬢様をかい?」
ジャクリーは驚いたように、瞬きをした。
「あばら家なんかじゃないわ。あなたの素敵なアトリエよ。わたし、ここに住みたいくらい」
わたしの必死な物言いに、事情を察したのかジャクリーはふっと笑った。
「OK。ちょっと不便かもしれないけど、僕も明日は休みだし、ちょうどいい。この絵を完成させよう」
「ええ。楽しみ」
徐々にふたりの距離が縮まっていき、わたしは初めての口づけを経験した。
それから――いえ、これ以上多くは語らないけれど、とてもしあわせな夜を過ごしたの。
そして――
その二日後……
「できた! これはいままでにないくらいの出来だよ!」
徹夜して描き上げたわたしの肖像画を見せ、ジャクリーが言った。
「……う……ん」
そばに置かれた古びたカウチに横たわっていたわたしは、身体を起こした。
彼には申し訳ないけど、眠ってしまっていたらしいわ。
「ほら、ご覧!」
だけど、そんなことを気にも留めていない様子で、ジャクリーははしゃいでいた。
言われるままに、わたしはその絵を手に取って眺めた。
「! え? すごい。本当に綺麗に……」
それはいままで見たどんな絵画よりも、美しくて優れているように思えた。
彼はすごい才能を秘めていると思ったの。
「素晴らしいわ! こんなに優美で繊細で……そして、存在感のある絵を見たのは初めて」
「気に入ってもらえてなによりだよ。僕もこんなに筆が乗ったのは初めてだ」
ジャクリーは満足気に微笑んだ。
その笑みにもつい、見惚れてしまう。
「ああ、ジャクリー。素晴らしいわ! あなたなら本物の画家になれるはずよ!」
「僕の絵を見た人はみんなそう言うよ。だけど、現実は甘くはない。なかなか、成功の糸口が見いだせないでいる。こんな片田舎でくすぶってちゃだめだと思いながら、外に出ていく勇気もない」
「ねえ、ジャクリー、わたしと一緒に逃げましょう? わたしも籠の鳥、窮屈な生活なんて望んでない。それにこのままこの街にいてもいずれ見つかってしまうわ。そうなる前に、駆け落ちしない?」
「かけ……おち⁉」
さすがにそんな考えには至ってはいなかったようで、ジャクリーは声を裏返して後ずさった。
「あなたがこの街を出られないでいるなら、理由を作ればいいじゃない。わたしと一緒に都心へ逃げましょう? 都会は人が多いから、そうそう見つかることもないわ! そして、あなたはきっと有名な画家に――」
と、言ったところで
「そこまでだ!」
シャルルの声が、廃屋に響いていた。
「シャルル⁉ どうして?」
「探したぞ、ロジエ。まさか、こんなところに居たとはな」
苦虫を噛み潰したような表情のシャルルが迫ってくる。
侵入してきたときに物音がしなくて、気づかなかった……。
完全に油断していたわ。
「いやよ! わたしは戻らないわ! 彼と共に自由に生きるの!」
「何を言ってるんだ。こんな青二才と……生活だってうまくいくわけがないだろう? きみは貧乏な生活が出来ないから、私と一緒になると決めたんじゃないのか? きみに相応しいのはこんなあばら家じゃない。私の持つ、城に匹敵するくらいの豪奢な屋敷だ」
「あんたは彼女の婚約者かもしれない。だけど、ロジエが愛しているのは僕だ!」
そのとき出たジャクリーの自信たっぷりな台詞に、胸を撃たれたような衝撃を受けた。
やっぱり、素敵。
彼しか考えられないわ!
「貧乏がなによ! わたしは自由に生きたいの!」
わたしも勢いに乗って言ってやった。
「ほう。だが、これを聞いてもそう言いきれるのか?」
「え⁉」
シャルルが後方を向いて手招きすると「ロジエ……」と力ない声が聞こえた。
「お母さま⁉」
「ロジエ、わたくし、貧乏はいや。あなたがシャルル殿と結婚できなければわたくしも路頭に迷うことになるの。そうなったら困るでしょう? 一時的な思い込みで人生を棒に振るようなことはやめてちょうだい」
「い、一時的な……思い込みなんて……」
全身に汗が噴き出した。
お母さまの言葉は呪いの言葉だ。
彼女の意志に逆らうことは……できない。
幼少の頃から、彼女の言葉を聞くと思考が停止してしまうのだ。
「あんなどこの馬の骨とも分からないような将来性のない殿方と一緒になってはだめ。あなたにはシャルル殿のような富豪の紳士が相応しいの。分かるわね?」
「おかあ……さま……」
わたしは激しい耳鳴りに襲われ、耳を押さえた。
「ロジエ――」
ジャクリーが何かを叫んだようだけど、わたしの耳には届かなかった。
「ロジエ、答えてちょうだい。あなたは誰と結婚するの? あなたに相応しいのは誰?」
「シャルルさん……です」
「そう。いい子ね。さあ、行きましょう。お邪魔したわね」
お母さまは満足気に微笑むと、わたしの肩を抱いてアトリエをあとにした。
手切れ金といって、シャルルがジャクリーにいくらか渡したという話をのちに聞いたわ。
随分あとになって――
それを元に彼は成功への階段を上っていったという話を聞いたことがある。
そう、逆らおうと思えば逆らえたのだと思うの。
結局のところ、わたしにも見る目がなかったのね。
確かに上手だと思ったけれど、そううまく有名画伯と呼ばれる地位に就けるとは思ってもみなかったのよ。