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第69話


 結局わたしはシャルルと結婚して安定な暮らしを手に入れた。

 心は満たされなかったけど、これが正解だったんだと思うことに努めたの。

 だけど……その生活が続いたのはほんのわずかな時間だけだった。

 結婚して一年後、母が病に倒れ、看病の甲斐もなく病死。

 その三年後、彼が事業に失敗し、父と同じように拳銃で自殺を図ったの。

 無一文でひとりきりになってしまった。

 途方に暮れたけど……わたしは自分の美貌と学生時代に声楽を勉強した経験を生かして、歌手として生計を立てるようになった。

 はじめは小さなバーで歌わせてもらっているだけだった。

 だけど、ある日レコード会社の社長が店を訪れたとき、スカウトを受けたわ。

 それで広くデビューすることが叶ったの。

 ロジエ・ドゥースンという名で、『真夏の夜のアリア』という曲をヒットさせたのだけど、ご存じないかしら?

 まあ……そんなことはどうでもいいわね。

 でも、この曲のヒットをきっかけに知名度は爆上がり、強力なパトロンがついて国じゅうを飛び回るほどの歌姫になったの。

 そんな……目を回しそうなほど忙しい日々を過ごすうちに、過去のことは忘れかけていた。

 そのはずなのに、心のどこかで彼の存在が頭の片隅にあった。

 すごく会いたい――

 でも、会うべきじゃない……。

 常にわたしは自分の想いの板挟みになっていたわ。

 だけどね、ふと、わたしの姿を鏡に映して思ったの。

 わたしは輝かしい人生を手に入れた。

 でも、彼は?

 あの小さな街で『ネジネジ』というお菓子を売り、画家になることを夢見ているだけの冴えない人生を送っていると思っていた。

 いまのわたしとは到底釣り合わないって。

 会ってもがっかりするだけだって、そう自分に言い聞かせて諦めていたわ。

 要するに、心の底では『彼』を見くびっていたのね。

 だからあのとき、『彼』ではなく、シャルルを選んだの。

 でも、それが誤った見識だったということを知ったときは、もう取り返しのつかない状況に陥っていたわ。



 あの日――

 公演を控えたわたしは、五十路という年齢に差し掛かっていた。

 コンサートホールのロビーの壁に展示されていた、一枚の絵画の前で足を停めた。


「どうしたの、ロジエ?」


 マネージャーのリズが怪訝そうに訊いた。


「あの……これ……誰が⁉」

「え?」


 それは肖像画だった。

 年若い娘が肌を晒し、まっすぐ前に視線を投げながら、カウチに横たわっている。

 わたしはそれを感慨深く見つめた。

 何度も色を重ねられ、丁寧に仕上げられていることが分かる。


――わたしだわ……あの頃の……!


「どうしたの、ロジエ?」

「この絵の作者は? どこに⁉」


 持ち主が誰であるかもわからないけれど、驚愕と感動で全身に鳥肌を立てながら、わたしは声を発した。


「ちょっと、いまから本番よ? そんなことしている場合じゃないわ」

「だけど」

「絵は逃げたりしないでしょう。そんなの仕事が終わってからでいいわよね? あなたのやるべきことは、無事にコンサートを終えること。開場まであとわずかだってことを考えると、リハもロクにできないのよ。だから少し、楽器との合わせと段取りの最終確認を……」

「以前、ここで歌ったことがあるから、どういうステージかは把握しているのよ。ピアノの調律さえきっちりしてあるなら問題ないわ」

「ロジエ!」

「……!」


 わたしは敏腕マネージャーに一喝され、身をすくませた。


「急いで。時間がないの。三千人のファンの方々が待っているの」

「わかった……」


 ホールのキャパシティが三千、客席は満員だと聞いている。

 会場に入りきれなかったファンも大勢いるとの話から、大盛況だということは分かった。

 いつもなら、その状況に満足するところだが、きょうはそれどころではなかったの。


 ステージに立ったわたしは、どうにかあの絵のことを振り切り、歌とトークに専念したのだった。


 アンコールのあと、カーテンコールを終えたわたしは、舞台裏から走り去ろうとした。


「ロジエさん、いつもより少し音程ピッチが低いように感じましたけど、喉の調子は?」


 ピアニストを務めたスパイサーに声を掛けられ、わたしは足を停めた。

 わたしと同世代のベテランで何度も一緒に仕事をしている。

 とても信頼できる演奏家なの。


「緊張したのかしら? ひとつ前の公演はもう少し小さなホールだったから」

「緊張? 百戦錬磨のロジエさんがらしくない」


 彼が笑ったため、わたしは苦笑した。


「百戦錬磨って……もういい年齢としだから、調子を戻すのに苦労してるの。歌い手は身体が楽器だもの」

「確かに。でも、なんだか一度入りを見誤った箇所がありましたし、調子がよろしくないのは確かなようなので……」

「そう……ね。少し疲れてるのかも」


 いまのスパイサーの指摘でどきりとした。

 その、自覚がない……。

 どこでやらかしたのかと尋ねると、間奏の一部を飛ばして歌い出してしまったようだが、それには気づかなかった。

 それが問題にならないよう、彼がフォローしてくれたようだ。

 おかしい……。

 いままで歌の入りを見誤ることはなかったし、音程が狂うなんてこともない。

 だからこそ、あの『絵』のことで心が乱されているのは間違いないと思ったの。

「あの、ちょっとわたし、用事が……」

『絵』の持ち主が誰なのか、まずは確認して……そして絵画の作者とコンタクトを取れるように交渉して……。


「ロジエ!」


 身体がよろけ、マネージャーのリズの声を聞いたような気がした――次の瞬間にはわたしの意識は暗闇に吸い込まれていた。


     ◇◇◇


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