「もう! なにをしてるの? 早く絵を返さないとハン会長に切り刻まれちゃうわよ!」
包まっていたラウルの布団を引っぺがし、ナディアが怒鳴り声を上げた。
朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。
「お嬢様! 従者とはいえ、殿方の部屋に乱入するなんて、なんとはしたない!」
ナディアの発言を察知するや否や、高速で駆けつけラウルの部屋に突入したマリーが、声を荒げた。
手にはホウキが握られているが、どうも清掃を目的として持ち込んだわけではなさそうだ。
――というか、何故、このふたりは早朝に俺の部屋に問答無用で押しかけてきてるんだ……?
「言っておくけど、もう九時よ? いまから速攻で支度して出向かないと、開館の時間に間に合わないの!」
「そ、早朝ではありませんでしたか?」
「早朝の定義をご存じ? 今朝の業務を免除したからといって、いくらなんでも堕落しすぎですわ!」
朝五時から働いているマリーがホウキを振り上げた。
「あ、す、すみません。いますぐ支度致します!」
ベッドから飛び出し、足をもつれさせ、転びそう――になったところを、驚異的なバランス感覚で立て直すと、ラウルは急いで洗面所へと向かった。
「……なんかお酒臭いですわね……」
くんくんと鼻をひくつかせながら、マリーが顔をしかめた。
「……まあ、いいんじゃないの。呑みながら絵画の鑑賞でもしてたんじゃない?」
「まああああああ! たるんでますわ、たるんでますわぁあ! お嬢様にワガママを通してもらった挙句にお酒をあおるなんて! わたくしなんて、春節以来、禁酒していますのに! 従者の風上にも置けませんわ!」
マリーは悔しそうに地団太を踏みながら、ホウキを振り回した。
「マリーはお酒飲んで暴れたから仕方ないじゃない」
「暴れてなんていませんわ!」
現在進行形で素面のまま暴れていたマリーが、ホウキをまっすぐ床に立てた。
「そりゃ、記憶にないから……そうなるでしょうけど」
春節の休暇中、酒に呑まれて三節棍を振り回したという記憶がきれいさっぱり消え去っているマリーが険しい表情になる。
「これから再びハン会長主催の絵画展に行かれるということですが……」
「そうね。絵を借りてきたから、それを戻しにね」
「何時にお戻りなのでしょうか?」
じっとナディアはマリーに見据えられ、ナディアは「そうね~」と人差し指を顎に当てる。
「きょうは昼食も夕飯も要らないかも」
「⁉ ちょっ、ちょっとお待ちくださいませ⁉ そ、それは、聞き捨てなりませんわ! 絵を返しに行かれるだけで、どうして一日留守にされるのですか?」
「え~、そんなのいいじゃな~い」
「ラウルさんを信用なさっているからといって、いくらなんでも……」
「なんの刺激のない生活なんてつまんないだけよ。マリーだって積極的に『お出かけなさいませ』とか、パーティーなんかの社交的な場に参加しろってよく言うじゃない。」
「だから、そういうこととはまっったく縁のない話ではありませんか。ラウルさんと親しくなさったからといって、何もプラスに働くようなことは――」
「……お待たせいたしました……」
ぴしっと制服を着こなしたラウルが突然姿を現したことで、マリーがひいっと息を呑んで硬直した。
「あの……?」
ラウルが声を掛けると、ぎこちない動きでマリーが振り返り、引きつった笑みを浮かべる。
「いってらっしゃいませ。……きょ、きょうもお休み扱いにさせていただきますから」
「じゃ、時間がないことだし、行きましょ?」
先に出てるわ、と言い残して部屋を飛び出していったナディアを追うように、借りた絵を抱えたラウルも部屋を出た。
★
「ありがとうございました。ナディアさまの機転のおかげで、絵をじっくり鑑賞することが叶いました」
ハンドルを握ったラウルが、言いながら微かに頭を下げた。
「そう……それならよかったけど、もう気が済んだの? あの絵、手に入れなくても大丈夫そう?」
助手席のナディアがトランクを見遣り、訊いた。
「ええ。問題ありません」
どういう答え方が妥当かは分からないが、ラウルはそう応じた。
「飽きるほど眺めたら――満足しました」
「なら、良かったわ。だけど……次に夢中になるとしたら、あんな絵じゃなくて……もっと身近な人物に興味を持ったほうがいいと思うんだけど」
ぼそぼそとつぶやくラウルは、何を言われたのか分からず――だが運転中なので気を抜くわけにはいかないと――注意深く、前方に意識を遣った。
「しかし、レンタルとはいえ、大事な絵をよくお借りすることができましたね。さすがはナディアさまというか――」
「まあ……その代わり、ちょっと厄介なことにはなりそうなんだけど……ね」
ナディアが複雑そうな表情で空を見上げた。
「厄介なこと?」
「ううん。そんなことより、まだちょっとお酒臭いわよ」
「そ、そうですか? 美術品を前に寝酒をしたことが影響しているんですかね」
ラウルが苦笑した。
ゆうべはローザに付き合わされ、明け方まで呑むハメになった。
ただ、ありがたいことにラウルのアルコールに対する分解酵素は強靭のため、二日酔いなどとは無縁だった。
酒臭く感じられるのは、超特急で分解した酒の成分が皮膚から放出された所為だろう。
「ひとりで呑むのが好きなの?」
「あ、まあ……そうですね」
ここで怪盗のアジトで仲間と呑んでいたということがバレるとマズいため、とっさにそう言った。
「わたしはあんまりお酒って呑んだことなくて……マリーもおかしなことになるし、あの気が大きくなるっていうのか、呑んだ人が呑まれてるっていうか、人格が変わる感じが苦手なのよ」
「まあ……身体にいいものではないと思いますから、無理に呑まなくてもいいと思いますよ」
「ううん。ラウルと呑んでみたい。お薦めのお店とかあったら……連れてって」
「え……」
――お薦めの店といわれても、我々のアジトを紹介するわけにはいかないだろう。
「あ、その……庶民的なところしか知りませんから、お嬢さまには似つかわしくないかと」
「いいわよ。っていうか、畏まった雰囲気の場所のほうが苦手だって言ってるじゃない。どっかのお坊ちゃんじゃなくて、一般的なひとと普通のお店に行ってみたい。そのほうがリラックスできそうじゃない?」
「あ……そろそろ着きますので」
親密な間柄になることは、できるだけ避けろとローザから帰り際に言われたばかりだったため、話題を変えるようにラウルが言った。
ミスター・ハンの推し★絵画展の会場がある、ピカン・セントラル・ホテルが見えてきた。
どこかのお坊ちゃんと一般人――ラウルがその対比の意味に気づくのはもう少し経ってからだった。