狛犬東郷藤右衛門視点
天結という少女が番ではないかという疑惑がでたものの、彼女自身にそのような反応がないため暫くは見守ることにした。
といっても近づけば匂いでバレるだろう。一度話した程度の役人が身の回りをうろついたとなっては付きまとい犯罪者のようでいい気はしないだろう。
そこで騎士団の見回りと称して街に何度も出向きそのたびに彼女を探す。
どうやら永住目的と関所でいっていたのは本当だったようで、見かけるたびにふらふらと建物を確認している姿はハラハラする。
外見を一周見回して高さとパッと見の広さを確認してから建物の状態を見ているようだった。時々壁を叩いたり揺らしてみたりして中の状態を見に行っている。
どうやら見た目と間取りにこだわりがあるのか随分とあちこちで見かけたが、ここ数日は特定の何ヶ所に絞ったようでだいぶ限定された範囲で見かけるようになったので住まいが決まるまでもう少しといったところだろう。
候補を決めるだけでも数日かけて慎重に決めるところを見ると、番が現れたからといって相手の用意した巣に移り住むタイプではなさそうだ。
そうなると自分が彼女の巣に招かれるということになるだろうか。まぁ、自分はうだつの上がらない三男坊だ。家を出ても問題はないように思う。むしろ両親兄弟、甥姪に使用人もいない2人の静かな暮らしと思えばなかなかに魅力的だと思う。
って、待て待て。自分が番かもわからないというのにそんなこと考えたら変態じゃないか。生まれてこの方浮いた話もなく武芸ばかりできたからか周りにその気にされてこんなザマだ。もっと己を律しなければ。と、考えてたのは騎士団本部での出来事である。
午前中は事務仕事でもこなして午後からまた街の見回りにでも行こうかと思っていたとき、ふとあの瑞々しくて甘やかな香りが強く香ってきた。
すぐにでもしゃぶりつきたくなるような水密桃の爽やかで甘い香り。
「え、なんで……。」
永住用の家を探しているときですら騎士団近くでこんなにも香りがしたことはない。ということはこちらに近づいてきていると考えていい。
考えられる可能性は2つ。
ひとつは住居にする場所が決まったから申請に来た。もう一つは入國の際に取り決めた労働の実施かのどちらかだろう。
今すぐにでも門のところまで迎えにいきたいが、そんなことすればそれこそ付きまとい犯罪者の待ち伏せみたいになってしまう。
嫌われるのが一番まずい。
嫌われるのが一番まずい!
大事なことなので2回も自分に言い聞かせる。
でも、その間に変なやつに絡まれたり……と、いうか隊員にちょっかい出されたら?実は以前彼女の入國の際に自分の番が現れるかもということで、大多数の隊員がでばが……ん!見守っていたらしい。そのせいもあって彼女のことは周知されているらしい。
どういった周知なのか知らんが随分と暇そうだったので中でも熱烈だったものは後日、千本稽古をつけてやったので暫くはおとなしくしているのだと信じたい。
隊員を信じたい気もするが、それよりも天結の様子のほうが気になる。
だめだ。一度落ち着いて考えよう。手元の書類を見て頭を一度整理しよう。
手元にあるのは大和の特使から送られてきた手紙である。正直こういったものは文官が受け取るものなのだが、角ばった神代文字で護衛官1名の名誉とプライドがかかっているとのよくわかない一文が添えられ、なぜか肝心の本状は大和の一部地域で使われるという龍体文字でかかれている。
正直マイナーな文字なのでこの文字がどこで使われるのか何という文字なのかを探し当てるだけで1週間かかった。文官に呼んでもらえたらどれほど楽だったろうか。
同じ武官としてなんとなく名誉とかプライドなどと言われれば他人に見られたくないことなのだろうと書状と多言語の辞典をひたすら照会してやっとそれが龍体文字と当たりをつけた。
もはや嫌がらせの一環なのではなかろうかとも思えてきた。といか、こいつたしか昔殺魔から移住したやつだろう。殺魔文字使えよ!ってそれじゃ他のやつが読めるからだめか……。チクショウ。
文字が判明したから今度は単語ごとの解読作業である。ある程度の文字は単語の上に殺魔文字の単語を書いて食べ物の話だというのはわかった。苦手なものということだろうか?
動物の乳を焼く?わざわざ胸肉ではなく乳と表現してるから肉ではないだろう。だが乳を焼く?食事で?そんな料理があるのか?少なくとも俺はそんな料理知らない。煮るならわかる。だが煮るは別の単語があるから焼くことに意味があるんだろう。何のために?
そもそも料理にしたって殺魔で一般的に食すようなものしか知らないし、出されたものを食べていただけなので調理法もそんなに詳しいわけではないのだ。
(わかるかぁぁぁぁ!)
と怒鳴りたいのをぐっと堪えて辞書から視線を外せばまたあの香りが強く鼻をくすぐる。
あ〜!もう無理!
考えるよりも体が先に動くのは武官としてだいぶ致命的とは思うが、辞書と書状を机の脇に避けて立ち上がる。
気が急いてしまうせいでいつもよりも大きな歩幅でだがみっともなく走ることのないよう匂いに向かって歩き出す。
各隊を見渡せる通路をまっすぐ過ぎたお頃でまた一段と香りが強くなる。心なしか脈が早くなって身体が上気しているのがわかる。
通路突き当りの角まで来て目当ての人物の気配が伺えるようになってようやく生きがつけるような気さえした。
「あぁ、いらっしゃい。今日はどんなご用件かな?」
ぶつからないように気をつけながら頭2つ分は小さい少女を見つめれば、何か困ったように下がっていた耳がピンと立ち上がってあの日と同じキラキラとした目がこちらを見上げた。心なしか尻尾も小刻みに動いてて愛らしい。
「おはようございます。住居が決まったのでその申請と入國のときに約束した労働の一回目をと思ったんですが。」
想像していた案件両方を言われたものの、わざわざ足を運ぶなら終わらせられる用事は纏めて済まそうと思う人多いだろう。自分が休日でもそうやって効率よく動くだろうことを考えれば彼女の説明は納得である。
すぐに手続きをできるよう受付……ではなく自分の事務机へと案内する。
とてもじゃないが他の雄が使う席に座って天結にそいつの匂いでも移ったらそいつを鍛錬所に3日間おつきあい願いたくなるのでお互いのために回避した。とは言うべきことではないので黙っておく。
案内している間も自分の後ろをちょっと不安げだが気丈に、しかし置いて行かれることのないようついてくる姿は雛鳥をも思わせて可愛かった。
が、自分が人を案内してるのが珍しいのか、女性を伴っているのが珍しいのか隊員たちの視線が釘付けである。どうやら訓練が足りないらしい。と頭に視線の主たちを記憶していく。
「ではここに座って。」
「え、ここですか?」
「何か問題があったかな?」
「いや、問題は⸺⸺。」
なにか言いたげに口篭る姿にまさか自分以外の雄の移り香に不快を覚えるから自分の席に通した。など恋人でもないのにそんなこと思ってるとバレたのではないかと内申ヒヤヒヤしつつも、彼女が座ってくれたことに安堵する。
「カウンターを設置してないからすまないがここを使って欲しい。ここは私の席だから問題ない。」
うそだ。受付はある。が、さきほどから物珍しさか好奇心か知らないが天結を無遠慮に見つめる隊員が多い。自分の番かもしれない女性をそんな視線に晒すなど許せるわけもなく、小型種の彼女ならわかる自分の席に座れば他部署の隊員からは見えにくくなるので視線を避けるためにもここに座ってもらう。消して嫉妬だけではない。……はずだ。
少し居心地悪そうにしてることに軽くショックを受けつつも、言い訳をする子供のように説明するが居心地の悪さは変わらないようだった。
「わかりました。」
住居申請と入國手数料の労働のため騎士団を訪れた天結であったが、緊張状態でそれどころではなかった。
緊張状態の彼女がチラチラと周囲を気にしている。普段は皆訓練か書類とにらめっこをしてるというのに、俺が周囲から見えないようしたせいなのか、やたら歩き回る騎士たちがこちらを一様に見ているのに気づく。ひどいものは用事もないのに近くをウロウロしている。咳払いをして圧を飛ばすとすぐに自分の席に帰っていったが。
「それで住まいはどちらに?」
気を取り直すように努めて優しく話しかける。
「ご紹介頂いた宿のそばです。ちょうど良さそうな建物があったので。」
「あの夫婦のそばなら安心ですね。」
あの夫婦は特に面倒みがいい。夫の方は兄上の友人で自分も何度と遊んでもらったことがある。その奥方も面倒みがいいうえに切符気風が良く思い切りもいい。一度懐に入れた者を大事にする質で評判もいい。
あそこならば遠くから旅してきた少女にも良くしてくれるだろうし、何より身元責任者を小犬族としていた彼女だが小犬族はここではなく霧島に拠点を構えている。普段ならそろそろこちらに来て社交の時期にありそうなものだが、あちらは今立て込んでいるので来訪が遅れているので、身寄りのない状態といえる。そんな彼女がなにか困った事態になったときあの夫婦なら信頼できる。
「はい!ご紹介いただいてありがとうございました。今もお世話になっていてとてもよくしていただいてます。子だぬきちゃんもかわいいしごはんもおいしいし。宿を出入りするたびに必ず声掛けしてもらえてもう家族みたいで。」
「家族……?」
仲良くしてほしいとは思っているがそんなことに?まだひと月とたっていないが……。
「はい。実家は別でありますが、なんだか家族のように接してもらってて毎日とても嬉しいです。」
おもばゆそうに顔を綻ばせる姿はとてもかわいいが、それをさせているのが自分ではないことが残念でならない。
「家族、声掛け……そうですか。」
彼女が望むものを忘れないように己の中に書き留めることは忘れない。実家でもよく声を掛け合う仲のいい家族だったのだろうか。そんなことを考えつつ宿周辺の地図を広げる。
「えっと、ここです。このおうちの雰囲気とお庭が可愛かったんです。」
宿のそば一点を抑える指もかわいい。
「絵を飾ったり保管できそうな部屋もあってとても気に入ってて今から整備するのが楽しみなんです。1人で整えるのはやったことがないので不安だったんですが女将さんが得意な人を紹介してくれるって……。」
「紹介!?」
まさか若い雄ではないだろうかと焦る。番かもしれない自分もまだ入ったことない彼女の家に他の雄が足を踏み入れるなど考えるだけで嫉妬でどうにかなりそうだ。
「あー。書類提出に際して建物の強度などの確認をしたいので立ち会ってもらえるだろうか。」
そんな検査はない。殺魔では土地の所有権という概念がない。住みたい場所を自分で整え住み着くがその際の不備も全て自己責任だからだ。が、他国ではそういった際に立会検査があるというのは知っている。
まさか立場を利用してこんなことを言い出す自分に呆れもするが、正直なりふり構っていられないので敢えて周囲の視線は気にしない。視界の端で若いやつが「え?そんなのありましたっけ?」と隠すことなくこっちをチラチラ見てるので再び咳払いをする。
「では作業が終わり昼食を挟んでから午後に確認をしよう。天結も早い方が作業に障りがないだろう。」
ついでに街で一緒に昼食を取ってから行けば長く共にいられるだろう。どの店がいいだろうか。彼女は体が小さいからあまり食べないだろうか?量より質を取るとなると店はあのあたりか……と、いくつか候補を頭の中で考える。きっと食む姿も愛らしいだろう。
「そ、そうですね。そうして頂けるとありがたいです。」
言質もとったので問題ない。……たぶん。
「これ……。龍体文字ですか?」
「凄いな。見ただけでわかるのか?」
先程思考を放棄することになった難解文章の正体をすぐに当てる彼女に驚く。
「旅の間に大和にも行きました。その時に一部地域でこの文字が使用されていて特徴的な形が面白くて暫く現地の人に教えてもらってました。」
「では、これは訳せるか?細かいニュアンスがわからず困っていた。」
「私が見ても大丈夫ですか?」
旅しただけであの難解文字を理解するとは天結はよほど賢くて育ちが良いのだと感心しつつも手紙を渡す。他人が見ることを心配していたがもはや自分にはどうしようもないので他社を頼らざるを得ないし、文官に知られたくないようだったから部外者の彼女のほうが帰ってよいのではと判断した。
「問題ない。」
「そうですか。食物アレルギーの確認ですね。……同行者に1人生物アレルギーの方がいるので滞在中の食事は生食を出さないことはもちろん動物の乳製品は必ず加熱したものを使用してほしいそうです。また、卵も同様でそのままでは食べると湿疹の原因になるとのことです。穀物のアレルギーは無いため穀物に関しては通常の扱いで良いそうです。」
「なるほど、加熱か。動物の乳を燃やすとは一体どんな料理だと関係者が頭をひねっていたんだ。」
「あ〜。火を表す文字は解釈が難しいですよね。」
「助かった。」
「いえ、お役に立ててよかったです。」
訳した内容を忘れないうちに別の紙に書き留め、近くにいた騎士を呼ぶ。
「すまない、これを厨房長に持っていってくれ。」
呼ばれた男は書類を受取つつも、じぃっと視線は天結を捉えている。あまりの無遠慮な態度に彼女から見えないよう脇腹のあたりに拳をめり込ませてから半眼で入り口の方を顎でしゃくる。
「部下のしつけがなっていなくて申し訳ない。」
「いえ、珍しい毛色なのは自覚してますから。」
「私は綺麗な色だと思うが。」
自嘲気味につぶやく彼女に素直な感想をむければ、天結は目を丸くした。
「そ、そうですか。」
前髪をいじりながら照れてる姿が可愛い。そんな空気をぶち壊すようにそっと寄ってくるものがいた。
「あの〜龍体文字が読めるならこの本のここの部分を呼んでもらえませんか?」
「自分もここを訳してほしいです。」
「すみません、筑紫文字は読めますか?」
「お前たち……。」
騎士たちが手にしているのは紐とじの本である。騎士団の事務所には共用図書があり、歴代の諸先輩方が各地で入手してきた武術書を置いてあるのだが、他國の現地文字で書かれているので解読に時間を有する。よく見る言語は多くの武術書を読むうちになんとなく覚えていくものだが中には珍しい文字もあるので有識者がいるなら聞いてしまいたい気持ちもわかる。
「えっと、筑紫島の文字は全てわかると思います。それから大倭島の西側も大体わかります。あとは阿比留文字と阿波文字までならわかります。」
「は?」
「え、お嬢さんは言語学者さまですか?」
「いえ違います。」
あまりの文字種類の多さに自分はもちろん騎士たちも呆気にとられたが、さきほど龍体文字をすらすら読んでいたこともあり騎士たちは順番に並ぶ。
「えっと。私は構いませんが……。」
番かもしれない女性が他の雄の頼みを聞くのは業腹だが、部下たちの気持ちもわからなくはない。かく言う自分も文字が解読できず諦めた本がいくつあったか。
「許可する。天結、すまないが騎士たちのわがままに少し付き合って欲しい。」
「もちろんです。」
「お願いします!ここです。」
許可が出た途端に列の先頭にいる隊員が臙脂色の表紙の本を見せてきた。
「これは……やれることをやれるようにやっているだけでは、限界はすぐにおとずれる。ですね。言い回しがややこしいですね。」
天結が読んでいる間に空いてる椅子を持ってきて隊員と天結のあいだに壁になるように座り、インクと竹筆で翻訳をさらさらと殺魔文字に書き起こして渡す。
「ありがとうございます!」
騎士は本と翻訳した紙を受け取ると深々頭を下げて列の先頭から外れる。
「次!」
「お願いします!」
余計な会話は許さないと言わんばかりに号令さながらの声をかけると、稽古のときのように声を張った騎士が進み出て今度は深緑が表紙の本を差し出し翻訳して欲しい部分を指す。
「えっと……三角で入身し、丸く捌いて四角に収める。天は丸く地は四角い。」
「なるほど形を言っているのですね!ありがとうございます!」
晴れやかに立ち去る騎士の一方で、慣れない武術書に何だこれ?と行った様子を隠すこともない天結は真面目にその作業に取り組むが、先程訳してもらった騎士が同僚にここはこうだったと説明すると数人の騎士が慌てて図書コーナーに走っていく。
2人目の団員は翻訳を受け取るとなぜが外に向かって走り出した。なんて外に?とは思ったがものの数分で戻るときには文官を一人連れていていた。
気づけば列は今朝天結と遭遇した通路の角まで続いている。
「天結、大変申し訳なんだが。」
「はい。ちょっと薄々感じています。」
「どうにも収集がつかない状況になってしまったので、入国手数料の一回目の労働はここに並んでいる者たちの翻訳作業で頼む。」
「わかりました。」
正午になると騎士団の時報の鐘が鳴る旨を伝えて、それが鳴るまでもしくは列がなくなるまでで良い。と周囲にも周知するように圧を飛ばすのを忘れない。
「はい!次の方〜!」
労働で体を動かすよりこちらのほうが得意だから助かる。と笑う天結に感謝しつつ少しずつ列が減ってはまた増える。
こりゃ午前でこの人数は無理だな。
そんな中老兵が一人孫を愛でるように翻訳の礼に菓子を渡すとこれまでも丁寧な対応をしていた彼女が満面の笑みで礼を述べる姿は子や孫を持つ男たちの父性をこれでもかとつつき回したらしい。
菓子持参の2回目に並ぶ者も現れ始めて列の終わりが見えない。これは今後も翻訳作業を頼むほうが良いだろうと思うが、なぜ文書の専門家であるはずの文官までチラホラいるのか。呆れるばかりである。