細い建物の1階。黒い暖簾のかかっている木製の引き戸。看板もなければのぼりもない。
一見すると店には見えずに見過ごしてしまいそうな佇まいである。
「ここですか?」
「ああ。ここは退役した狼獣人がしてる店なんだ。牙瑠風ってやつなんだが……やってるか?」
簡単な店の説明をして戸を開けた藤右衛門は中に向かって声を掛ける。
「お〜らっしゃい。今日は醤油と味噌と豚骨ならまだあるぞ。1人……じゃないのは珍しいな。連れだよな?」
藤右衛門のあとに続いて入ってきた天結を見て驚きを隠しもしない灰色の狼は頭にタオルを巻いて左目に眼帯をしていた。退役したと藤右衛門がいっていたのでこの怪我が原因なのだろう。ただ天結は問われたので黙って2度頷いておいた。
「マジかぁ〜!やったな!」
「あ、いや……まぁ。」
にかっと笑う牙瑠風に対して歯切れの悪い藤右衛門の態度になにが「やった」なのかわからないまま案内されて2人並んでカウンター席に座った。
「払いはこれで。黒山豚の足だが2人分足りるか?」
羽織っていた外套から一抱えはありそうな包を渡すと「おうよ」と包を受け取って一度奥に引っ込んでいく。後ろ姿の尻尾が揺れていたので彼にとってはいい取引だったのかもしれない。
「あんな厳ついナリだが、趣味のラーメン作りが隊員の中で評判になって周りが店まで用意したもんだから退役してここで店をやってるんだ。」
「そう、なんですか?」
まさかの怪我が原因じゃないとわかって天結はあっけにとられる。そんなんでいいんかい!
「隻眼だから負傷による退役だとよく勘違いされがちなんだが、あいつは弓兵だから片目だろうと腕前になんら問題はなかったんだがな。」
「よく言うぜ、副隊長だって一枚噛んでたんだろ?」
「俺は板材になるいい木を知らないかって言われたから切り出してやっただけだよ。」
そういって出された急須から備え付けの湯呑み2つに茶を注ぎ一つを天結の前に置いて笑う。
「ったく〜いい味出してるから文句も言えねぇしよぉ〜。んで、何にする?」
「豚骨大盛りに焼き飯と餃子に唐揚げ10個。天結はどうする?」
多くないですか!?とは思いつつも騎士なんて体が資本の仕事をしていればそんなものなのかもしれない。と思い直す。
「えっと、醤油を大盛りで!」
「あいよ!」
普通に考えて女子なら慣れない相手と食事にいくなら少食に見せたいとか可愛く見られたいとか考えそうなものだが、そこはさすがの天結である。他人に迷惑をかけないは信条としてあるが、他人と深く付き合ってきたことがないため自分を取り繕ってよく見せようという概念がない。それどころか修行時代に「己を偽り人を騙せば魂が汚れて神通力が弱くなる」と教えられたことも大きい。
それに加え、ラーメンは天結に中で三指にはいる好物の一つということもあり通常サイズでは物足りない。替え玉と呼ばれる麺だけのおかわりができる店もあるが、殺魔は基本その日にある材料で店主が得意なものを作るということが多いので毎日同じメニューが食べれるとは限らない。したがって壁だったり席にメニュー表というものがないので麺だけのおかわりというシステム事態あるのかわからない。ということがひとつ。
さらに天結の持論としてあとから麺だけ頼むと麺にスープがなじむ暇がなくて物足りないと感じるため、余力がある時は始めから大盛りで頼むのがポリシーである。
返事とともに背を向けて料理に集中する牙瑠風がカウンター越しに見える。これもまたカウンター席の醍醐味だ。
「ここの醤油ラーメンは地元の好事家が作ってる甘めの醤油を使ってるんだが、それが澄んだ鶏のだしとよく合う。」
「藤さんの頼んだ豚骨はどんなですか?」
「そうだな、ここもそうだが殺魔は基本的に豚骨とは言うが鶏ガラや野菜を煮込んだあっさりしたものが多いんだ。それに……。」
「お前全部説明したら食べる楽しみがなくなるだろうが。」
呆れたような物言いをしながら2人の前に小皿を一つずつ置く。
「これは……?」
注文もしていないのに出てきた小皿に戸惑って藤右衛門を見上げると、備え付けの箱から箸を出して差し出される。
「あぁ、殺魔の料理店ではだいたいどこでも大根の漬物が出るんだ。場所によっては小壺に入って好きなだけどうぞって店もあってお通しだったり食後の口直し用にサービスで出される。」
「そういえば宿でも必ずありますね。」
「ったりめぇだろぉ〜薩摩で漬物の出てこねぇ店はモグリよ。」
「はは、モグリかどうかはしらんが……まぁ、ないと物足りなさは感じるな。騎士の中には他國で出てこなくてがっかりしたってぼやいてたやつもいたな。」
「そんなに殺魔のひとはお漬物が好きなんですか?」
「好きかどうかというより、物心ついたときからあるのが当たり前だから無いことのほうが違和感がる。といった認識が正しいと思う。」
「無いことに違和感……。」
果たして自分にそんな食べ物があるだろうか……。そんなことを考えて天結はめの前の小皿に視線を落とす。イチョウ切りにされた薄い大根はもとの白いままに艶があり瑞々しい。
大根の漬物といえば黄色いたくあんのイメージがある天結にとってはそれ事態がなんだか未知のものにすら感じる。
「いただきます。」
薄切りの端をチビリと齧ると透けそうな厚みの割にしっかりとした歯ごたえがある。歯を入れるだびにパリパリとする音が耳と顎に心地いい。一枚をしっかり口に入れじっくり咀嚼すれば、想像に反してしょっぱさや辛味はなく……。
「甘い。」
「うちは子連れもよく来るからな。子供も食べやすいように甘くしてんだ。」
驚いた天結がカウンター越しに見上げれば、にかっと笑う男は厳つい見てくれと違って子供好きの気遣いのできる人のようだ。
「おいしい。」
「そらぁどぉも。先にからあげと餃子に焼き飯な。小皿がいるか?」
「天結、よかったら少し食べないか?ここはラーメン以外もおすすめだ。」
せっかく差し出されたものを断るのも良くない気がするので餃子とからあげを1個ずつもらった。流石に焼き飯までもらうとラーメンを残していまいそうなので丁重にお断りした。
唐揚げというが表面はしっとりしていて、箸で持った感じもずっしりとしているが柔らかく衣が薄い。店主いわく、かりっとしたやつもいいがそとがパリパリで衣が厚いと小さな子供は噛みにくいし口の中を切ってしまうので敢えてこの柔らかさなのだという。
歯を当てればそのまま柔らかな身に食い込み、じゅわりと肉汁が滲み出てくる。
「おいしい。最初は見た目にちょっとびっくりしたんですけどガツンとくるにんにくに甘めの醤油がマッチして肉汁の脂と絡んで最高です。」
「だろ?醤油系の唐揚げは初めて見ると色が濃くてコゲてると勘違いされやすいけどこげくささとかもないし濃いめの味付けだから米が進むんだ。」
「たしかにこれは白米が欲しくなっちゃいますね。」
「おほめのことばをどぉ〜もぉ。はい、ラーメンお待ち。熱いから気をつけてな。」
ホカホカの湯気に胃をくすぐる香りが鼻孔を通り抜ける。
乗ってる具材は半熟卵に白髪ねぎ、メンマときくらげチャーシュー。澄んだ茶色のスープに下には黄色の卵麺が踊っている。
「おいしそう!いただきます。」
まずはレンゲでスープを一口飲むと鶏出汁醤油の向こうからほんのりごまの香りがのどを駆け抜ける。
早速麺をすすりたいところではあるが、食べる時は食感重視を信条としてる天結はまず固め食感のメンマときくらげを口に放り込みこりこりと下歯ごたえを楽しむと半分に割られた卵の片割れをスープと一緒にレンゲに載せると乙女とはなんぞ?と言いたくなるような大きな口でぱくっと食む。
「ん〜〜〜〜!とろっとした黄身がスープに溶けてもなお濃厚で美味しい。ぷるんとした鶏チャーシューも最高だぁ〜毎日食べたい。」
「はは!そらぁあんがとよ。」
箸で掴んだ麺を数回上下させてふぅ〜ふぅ〜と多めに息を吹きかければ、いざ本番の麺をすする。麺の切れ目になるまで止めることなく一気に吸い上げ最後の1本がちゅるんと口に収まれば麺の小麦と卵の甘みをしっかりと噛みしめる。