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第42話本能と主家

 和氣家銅視点


 それは小さな小さな違和感だったっす。


 ある日自分が仕えている狛犬家の藤の坊ちゃんがそわそわと落ち着きがなくなったっす。もともと本能むき出しのお方っすからこれは番が近くに来た兆候だと周りも浮足立ったっす。


 それもそのはず、イヌ科族は番を失ったり35までに番が見つからないと狂うと言われてるっす。今まで身近にそんな奴はいなかったすけど、藤右衛門さまはそのタイムリミットが目前に迫ってたっす。


 だからこそ周囲の心配は尽きなかったっすし、最近は本人もあきらめの境地だったように思うっす。


 狂人を回避するためには薬を服用して誰か別の相手と番うことっすが、そうなると相手の本当の番が現れた時にやっぱりくるってしまうリスクがあるっす。


 武芸の達人としてイサハヤ様にすら大事にされている藤右衛門さまの番問題は本人が思っているよりも深刻っす。


 そんな折、番と思われる少女の出現に殺魔が沸いたのは仕方のない事だったっす。


 家人を始め騎士団関係者や氏族のものまでお祝いムードの中で気づいてしまった小さな違和感。


 藤右衛門さまの周囲から甘くていい匂いがしたっす。初めて嗅ぐようなそれでいて懐かしいようなそれは本能に訴えかけるような求めてやまないもの。


 俺は藤右衛門様とは違ってすぐわかったすからね。


 まぁ、だからこその葛藤とかはあるんすけど。


 和氣家が狛犬家の影として代々仕え始めたのは大昔のことっす。親父もじいさまもひぃじいさんもそのまたじいさんもって、そこまで行くと会ったことはないっすからどんな人かは知らないっすけど……。そうやって何百年と続いてきた家系っす。もちろん俺も子供の時から訓練を受けてそうなるのが当たり前として今日まで過ごしてきていたっす。


 そんななかで現れた番の存在はどれほど尊く喜ばしいのもか。


 そこで気づいていましった一雫の墨のような心。


 ぽたりと音を立てて清水に波紋を広げる。


 気づいてしまった。


 なかったことにできない。


 それは確かにそこにあって手を伸ばさずにはいられない。


 狡い。羨ましい。取らないで。諦めたくない。そんな思いが弱い心を締め付ける。


 想っている相手は調べるまでもなくすぐに見つかったっす。


 長年仕えている屋敷の周りをまるで【自分はここにいるよ】と言わんばかりに、あちこちとその痕跡を残していく。ただ自分は駄犬のようにその匂いを辿って彼女の存在を追い求め焦がれ続けた。


 仕事の合間、つかの間でも見ていられるだけで満足だった。ただそっと彼女を見守り、困っていることはないか手助けできることはないかと気を揉み続けた。主家との関係を思えば手を差し伸べることも許されないことだった。


 その思いに蓋をして彼女にも悟られないように、誰にも気づかれないようにしていた。


 ただ1人、葛藤とジレンマを抱える日々。


 会いたい。会いたい。会いたい。


 もう匂いなんかじゃ足りない。後ろ姿だけじゃ寂しい。


 振り返って、こっちを見て、笑いかけて、話しかけて。


 ふとした時、気づいてしまった。藤右衛門さまが彼女を番として求めるわりに、彼女自身は藤右衛門様のことを番として求めていないことに。


 ならばそれは藤右衛門様の勘違い?一人でいる時間が長すぎて、もしくは迫られた時間の恐怖で錯覚しているだけ?本当は自分が正しい番なのでは?


 自信も確信もない。でも、それでも自分にだってチャンスがあるのなら縋りたい。


 そしてある朝とうとう耐えきれなくなって、よくないことだとは分かっていたのに我慢ができなかった。


  これは主家を裏切る行動である。それでも焦がれてやまない気持ちは止めることができず、どうして自分が一番に彼女を見つけられなかったのが悔しくて悔しくて、どうしていいかわからないきもちだけがただただ溢れてしまった。


  早朝のまだ誰もいない花畑。


 朝湯気が立ち込め、上り始めた陽の光が幻想的で。水中花の中を頬を上気させて歩く彼女は美しかった。自然とゆがんだ視界にこれほど自分が彼女を思っているのだと自覚させられた。


 だというのにそんな男のロマンを固めたような景色だというのにあの人は何の躊躇もなく嬉々として花だけでなく根っこから丁寧に採取し始めたっす。


 もう笑うしかないっす。それなのに可愛くて愛おしいのだから我ながら重症っす。 


 そんな彼女のそばに音も気配もなく近づいた。


 どんな反応をするのか確かめたくて。もしかしたら自分を番と認めてくれてこの腕に飛び込んできてくれるんじゃないかってちょっとの期待を込めて。


 だけど、神様は意地悪っす。どんなに視線を合わせても彼女は自分を求めてはくれない。手を触れられるチャンスがあったのに彼女はそれを避けた。それがまるでお前は番ではないと言われているようで苦しかった。


 狛犬家方々が言っていたっす。藤右衛門様が番という割には彼女が反応しないと。一家の誰もが不思議に思っていた。そして、それは自分も例外ではなく……。


 今、初めて藤右衛門様の気持ちが分かる。どれほど自分が憧れ求めていても、彼女は自分を求めてはくれない。


 だからと言って、求めるものを辞めることはでき無い愚かな自分に反吐が出るっす。


 ただひたすら見つめるにとどめるのが精一杯だった。


 彼女に近づけば近づくほど藤右衛門様は番を求める行動の衝動も抑えることができないようで、もちろんそれは自分だって同じこと。


 藤右衛門様が彼女の香りを纏って帰る日が増える。かすかな残り香に縋り付きたい衝動と彼女のそばにいられる羨望。周囲に隠す必要もない環境すら羨ましくて……。


 あぁ。番を失って狂っていく者の気持ちがわかりそうな自分が怖いっす。


 誰がどう見ても藤右衛門様の反応は番を求めているのにもかかわらず、あまりにも不自然なその2人の関係に周囲は戸惑うばかりである。しかし、長年待っていた番をみすみす見逃すことはできず、陰ながら彼女を守ろうという結論に至った。


 千載一遇のチャンス。主家への背徳はあったが番のそばにいられる喜びには変えられなかったっす……。



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