今日は珍しく家の片づけを朝から夜までやっていた。
と、いうのも先日親切にもガラスを融通してもらったおかげで三枚ある玄関の施錠もできるようになったので、荷物を入れても盗難の心配がなくなったのだ。ついでにほかの人が住み着く心配もなくなった。
何せ初めての安住地。
実家では自分のものを部屋に置いておくなんてできなかった。なんせ母親が衣食住以外のものは全部勝手に捨ててしまうからである。
まして天結はあちこち旅をしてきたから見目の良い配置や飾り方を各國で見てきたから理想だけはたくさんあった。そのため飾り始めたら止まらない止まらない。
これまで絵を渡していた奥さま方から大きな布をもらい椿と麗に手伝って全部同じ色に染めてもらってカーテンを縫った。カーテンだけだと昼間が困ると話したら狛犬家の奥様方がレース生地を編んでくださってそれもカーテンとしてすべての窓に二枚ずつぶら下げる。
作りつけてもらったクローゼットに当面使わないような服を吊り下げていく。ベッドは枠はできているがまだ寝具の用意ができていないので後回しにして、棚に画材を並べる。置いたものを遠くから眺めて、右と左を入れ替えたり、奥に押したり何かを敷いて高さを調節したり、壁面収納を試みたり。
とにかく使い勝手と見た目の良さを追求して置いては動かし、動かしては引っ込めてとくりかえしてれば陽がとっぷり暮れてしまったのだ。
急ぎ足で歩く通りはランプの明かりが揺らめいてきれいだ。この通りは昼間は閑散としていて人が少ないし余りにぎわってもいない。
天結の住もうとしている建物の両隣と向かい側は無人だが、通りの反対に進むほど夜だけに開けている店が多いのだ。ちなみに昼は閉まっていて住人はおらず純粋な店舗が多いのである。飲食店が多いから通りのたたずまいも自然とおしゃれなのも気にいっている。
昼の顔と夜の顔が違う。そんな二面性もいいなと思っている天結だ。通りの明かりをまっすぐ見れば自然と視線が上がって星の瞬きが見える。
「今日も星が燃えている。」
さすがに夜ともなれば風がひんやりする。こんな夜は足元の温泉が優しい。賑やかな店の軒先を横目に過ぎてふと耳慣れない音楽に足を止める。
「どこから聞こえるんだろう?」
この國では初めて聞いた曲調だ。前に旅の空で聞いたこともあるような……。
「あぁ、そうだあの曲は。今時の詩……鵞鳥の踊り。」
一枚の木戸。建物の向こう通りとつながる細い通路の横にあるちょっと背の低い樫の木の扉からその音が漏れている。戸の横に置かれた小さな木の椅子にイストと書かれた看板。
入ったことのない店の戸を押すのは勇気がいる。入ることも振り切ることもできずにそこに止まって、まるで岩戸を相手にするようにそこに立っていた。
「あれぇ?天結ちゃん?珍しいねこんな時間にここにいるなんてぇ。」
独特の間延びした口調が後ろからかけられて振り向けば見慣れた顔がそこにあった。
「麗?なんで?」
「いい曲だよねぇ!最近流れの演奏家がやってきたみたいでぇ。ここのマスター音楽好きでねぇ?吟遊詩人じゃなくても腕さえあれば店で演奏させてくれるってひそかに人気なんだよぉ。」
「そうなんだ……。」
「大丈夫!天結ちゃんも一緒入ろう!マスターいい人だから!」
「え、ちょっと。」
コロンコロンとドアベルの軽い音が二人を迎えた。
「マスターこんばんわぁ。」
「……邪魔します。」
「いらっしゃい。って麗と天結ちゃんかよく来たね。」
「あれ?翁?」
カウンターの中でグラスを拭いているのは家具製作でお世話になった馬の翁であった。
「夜に会うのは初めてだね。こっちに座るといい。」
店内はさほど広くもない。だが直角に備え付けられたカウンターはベンチシートが一つと二つの三席。それぞれ三人座っても9人しか入らない店構え。だが通路は広くとってあるので室内が狭いと感じない。薄暗い店内がまた良い雰囲気のバーだった。
入ってすぐ横が演奏スペースのようで今夜は牛と兎の獣人がギターとサックスを手にテンポよく奏でている。
奏者たちは二人の入店に会釈を送ったが、天結をみてにやりと笑う。
どうやら天結を覚えていたらしい。天結も案内された一番奥の席に向かいながら笑顔で会釈を返す。
「何飲む?」
「私はハーブモヒートぉ!」
「桃と紅茶のやつで。」
「はいよ。」
カランとグラスに軽いいい音が耳に涼しい。
「天結ちゃん桃が好きなの?前にっクリーム上げた時も桃の香り好きって言ってたよね。」
店内のどこかでガタンと音がした。
「私というか……。まぁ、そうだね。」
最初はそんなに好きでもなかった。ただあの人が好むからそれに合わせていただけだ。その声がよく聞こえるように、その姿がよく見えるように、その気配を逃してしまわないように。だがそれをやっていくうちに気が付けば口にするものは桃が増えて、身の回り物すら桃の香りがするものを手に取るようになった。
なんとなくそちらを見ると見たことのあるウェスタンハット。
(あれ?)
「マスター。バーボン、ロックで。」
「はいよ。……はい、ハーブモヒートと桃とお紅茶のやつね。」
演奏に耳を傾けてるとグラスを手にした麗がそれをぐっと寄せる。
「天結ちゃん、かんぱぁい!」
「え、あ。乾杯。」
慌ててグラスを交わすもののじっとグラスを見る。
「どうしたの?」
「あ、いや。大したことじゃないんだけどね……。」
そういった天結の言葉にマスターの声が重なる。
「はい、バーボンロック。」
「おぅ。」
さらに重なるドアベルの音
「マスターこんばんはー。」
「こんばんは。」
「邪魔をする。」
低い戸をくぐるように入ってきた三人の男、それぞれ大きいから急に狭く感じる。
それは本当に刹那のタイミング。
「家が厳しかったから誰かと乾杯するなんて初めてだから。」
言い終わったと同時に押し寄せる店内の静寂。
「え!?え!?私天結ちゃんの初めてもらっちゃった!?」
ブフォォ!!げほっげほ
誰かとは言わんが盛大に噴き出す声。
「藤!息して!頼むから深呼吸!」
天結としては普通に麗の疑問に答えただけである。だがタイミングが悪かった。そして話した相手も悪かった。
聞いていたすべての男たちは動きどころか時間が止まった。ちょっと想像したやつもいたかもしれない。
「うらら、それだと語弊があるからやめて。」
幸い天結は麗を向いていて入り口側には背を向けていたので誰がどんな反応かは見えていない。
「えぇ~?じゃぁ、今までお酒飲んだことなかったのぉ?それなのに急に飲みだして大丈夫ぅ?」
ほど同じタイミングでコトンと二人の間につまみの乗った小皿が差し出される。
「や、お酒は飲んだことある。ただすっと一人旅だし絡み酒されて並んで飲むことはあったけど、最初から誰かと飲むようなことなかったから乾杯という行為自体が……。」
「え、小柴さん乾杯今夜が初めてですか!?」
「ふぇ……?」
急に呼ばれた苗字に振り返ればいつかの検問で担当に当たった細身の騎士である。なは小犬丸だったと思い出しその後ろに藤右衛門と銅。演奏者の前の席で一人静かに飲んでいた蓮犬も防止の向こうで大きく開いた眼が天結を見ているし、演奏者は次の曲も忘れて天結に釘付けだ。
「はじめてか、そりゃいいね!天結ちゃんちょっと待ってくれ。」
それを打ち破ったのは店主である馬の翁こと店主である。
「ほら、坊主度どもさっさと座んな。どうせエールだろ。」
デカい男三人を雑な扱いで座らせるとジョッキにエールを注いでゴン!とテーブルに置く。さらに三つ用意して一つは手元に、残り二つは蓮犬の横、空白の席に置いて奏者たちに合図を送る。
「んじゃ、改めて!」
「え?え?」
店主の声に店内の者たちは心得たといわんばかりに手にしたグラスを掲げた。促されるままに天結もグラスを持ち上げる。
「天結ちゃんの初めてに乾杯っ!」
『かんぱぁーい!!』
麗のソプラノに重なって男たちの低い声も盛大に乾杯を告げる。藤右衛門と小犬丸、銅は天結をみて慣れたようにグラスを寄せる。奏者たちは天結に向かってジョッキを突き出すと今度は二人でさらに打ち付ける。蓮犬は立て肘をついたままグラスだけを持ち上げてよこした視線が笑っていた。
「ほら、天結ちゃんいっき!いっき!」
「あ、うん。……ありがとうございます!いただきます!」
温かな視線に頬を緩ませて細身のグラスにそっと唇を寄せる。
ゴッゴッゴッ
液体が喉を通る低い音。
「あ、天結ちゃん、煽っといてんだけど無理はしないでね。」
グッグッグ!
「っへぇ。」
「おぉぉ。」
「やるねぇ。」
それは誰が漏らした言葉だったか。グラス片手に天を仰いだ天結には知るよしもない。
「ぷはぁ~!マスターお替りお願いします!」
「はは!いい吞みっぷりだな!」
グラスを受け取るマスターは楽しそうだ。
そうだ。こんな夜も悪くない。飲んで食べて話して笑って。自分はここで生きていくんだなと寄った頭で考える天結であった。