同時刻、ラピッドシティの中心部にある廃屋。
蜘蛛やネズミに侵食された屋根裏部屋の暗部に、二つの影があった。窓は家具でほぼ塞がれていたが、壁面に背を預けて座る大小二つの影が、互いを認識できるほどには明るかった。
彼らの息は荒く、ここに着いたばかりであることを示唆していた。
「すまない、シャルロット」
乱れた息の合間をついて謝罪したのは、SMIに追われている老人だった。
「いつまでも若い君から衰える自分を隠したかったし、もう歳だろうと一族のもとを離れたが、人間も長生きするものだな。想いも癒えなかった」
老人の隣にいた小ぶりな影は、シャルロットだった。彼女の心配そうな瞳に映された彼は、慌てて繕う。
「いや、ロッテのせいというわけじゃない。浮浪者になったのは、単純に仕事の失敗と変人の自分に向けられる好奇の視線に耐えられなかったからだ。むしろ君と過ごせた時間は、人生に後悔がないと確認させてくれる励みだったよ。だが忘れたことはなかったし、ロッテたちとわしの関係を把握している人間がいるとは想定外だった。だからあの二人に質問されて、てっきり一族の関係者かと考えて不用意な発言をしてしまったんだ」
「気にしなくていいわコリン」シャルロットは大人びた口調だった。「それよりこれからどうするかよ。とりあえず、次に動くのは日が沈んでからね」
「君たちは陽光が苦手だったね。懐かしい。……にしても、何が起きてるんだ?」
老人――コリンに質問されたシャルロットは途端に深刻な表情となって、ごく短い静寂を挟んでから語りだした。
「一週間ほど前だったわ――」
シャルロットたちの一族、カインの失われた支族が人を殺さないのは真実だった。理由はだいたいモーゼスの知識通り、科学の発展によって力を得た人の社会で生き抜くためだ。
彼らは動物の血を主食とし、それでもたまに湧き上がる耐え難いほどの人の血液への欲求は、彼らと友情や愛情を育むことを望む人間から僅かに分けてもらうことで解消している。
そういう人々を、シャルロットたちは〝パートナー〟と呼んでいた。本来人間を襲う吸血鬼と共生することを望むパートナーたちは、自然とコリンのような変わり者で占められるようになったし、シャルロットたちはそんな彼らをよく理解できた。人に席巻された世では彼女たちも少数派で、人心を残したままかつては生きるために人を襲わざるをえずに苦悩し、恐れられ狩られてきた者たちとして。
故にカインの失われた支族は受け入れてもらえるような人間社会が到来する日を夢見て、パートナー以外には正体を隠し各地を流転しながら細々と生きているのだった。
だがパートナーは人であり、別な食料を必要とする。たいていは高い運動力を有する吸血鬼が収穫した動植物で補えたが、たまに足りなくなることもある。事件は、そんなときに自分たちの食べ物を仕入れに一族のもとを離れたパートナーの二人に起きた。
黒服の、自然法則を超越した能力を操る二人組に襲撃されたのである。
連中はシャルロットの居所を問いただしながらパートナーたちを暴行し、一人が殺され一人は瀕死の重傷を負った。最後まで口を噤んでいたためだった。シャルロットたちは、どうにか生き延びたそのパートナーから話を聞いたのだ。
そして、影社会に属し半永久的に生きるがために博識な吸血鬼たちは、襲撃者の容貌や行動パターンが一般的なSMIの人員に似ていると突き止めたのである。
「――わたしは人を殺さない新世代の始祖。だからこれをきっかけに、カインの失われた支族も警戒に動きだしたのよ。中でも、あなたはかつてのわたしのパートナーで唯一存命だから心配したわ。そんなときに偵察に出た仲間が、あなたがいるこの街に向かうSMIを目撃してね。一族が作戦を練る前に一人飛び出してしまったの」
「……わしのためにか。すまない」
暗い表情のシャルロットに謝りつつも、コリンは次いで疑問を差し挟まずにはいられなかった。
「とはいえ、一族や君は人との共存に反対する同族からも身を護るために特に伏せられていたはずじゃなかったか?」
そこで、コリンは不意に浮かんだ嫌な予感を口にした。
「まさか、わしのような引退したパートナーが……」
致死量を採らなくとも、血を吸われることはそれなりに負担となる。パートナーたちは耐えられなくなるほどに老いたり健康を害したりすれば、コリンのように離れさせられる決まりだった。群れにいるうちに気変わりを起こして脱退する者も稀にだがいた。そうした人が一般社会に吸血鬼の存在を暴露したこともある。もはや科学が支配する日向では、オカルトめいた主張は信用がなくなってきてはいるが。
影社会では事情が異なるも、日向でさえ政府や権力の裏側やマフィアやギャングの内情などといった実態がうまく隠せているように、カインの失われた支族も影でさえ知られていないはずなのでまともには受け取られないはずだった。
絶対に誰にも、とも言い切れないので可能性を考えるならパートナーからの露呈はありそうな線だが。
「どうかしら」
シャルロットは自信なさげだ。
「吸血鬼の実在を暴露したパートナーはいるけど、奇妙な体験談という程度でわたしたちへの憎しみからそういう発言をした例はないわ。しそうな引退者にも心当たりがない。一族はSMIがいるような社会とも係わりを断っているから、彼らのこと自体あなたたちは知らないはずでしょう?」
コリンが弱々しく頷くと、彼女は続けた。
「わたしたちでさえ調べ始めるまでSMIの詳細はわからなかったもの。彼らにしても妙なのよ。パートナーのような普通の人間に手出しはしないそうだし、子供を狙った前例もないらしいわ」
「しかし」と、コリンは異議を唱えた。「パートナーが被害にあったんだろう? わしも暴行された。吸血鬼と係わった時点で一般人でないという解釈かもしれん。君も肉体こそ子供だが、厳密には二世紀ほど生きているしな」
「だけど、長命の経験が怪しいものを予感させるのよ」
難しそうな顔をしたシャルロットは、長生きした吸血鬼としてはめったにしなくなる人間のときの癖を表した。唇に添えた人差し指をちょっとくわえ、虚空を見つめたのだ。
コリンは、その仕草に枯れてきたものが戻ってくるのを感じた。
「ロッテ」老人は声を上擦らせた。「久しぶりに、わしの血を飲んでみないか?」
生物学的には死んだ頬を、シャルロットはちょっと赤くしたようだった。
「だめよ。もう歳だし、怪我をしてるわ」
「本来はただの食事だ。怪我もかすり傷と打撲くらいだし、まだ若いぞ。失血死なぞするものか」
元気そうに座ったまま小躍りしたコリンに、シャルロットは無邪気に笑った。やがて二人は静かになり、身を寄せて抱き合うと、少女は老人の首筋を甘く噛んだ。
彼女たちは魅了の魔力で血を奪う際に獲物が痛みを感じないようにでき、その上での吸血は双方に快感さえもたらす。特にシャルロットの魅了は一族最上級で、コリンはでなくとも吸血愛好家だ。
たちまち、老人の意識はとろけた。