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νοσοφορος

「ま、待って!」

 突如として、悲痛な訴えでデイビッドのスーツの背中が引っ張られた。彼が振り向くと、そこにはアリスがいた。

 少女は何かを堪えるような顔をしていたが、それはすぐに和らいだ。

「どうした? アリ――」


「なんてことだ!」

 デイビッドの声は、ヘルシングの叫びに打ち消された。

 SMIはもちろんヴァンパイアの視線までもが彼に集まると、ダンピールは小刻みに震えながら布告したのだった。

「群れがいる、吸血鬼の」


 思わず、そこにいた全員が周りを見回す。


「人違い、いや吸血鬼違いじゃないよな?」

「間違いないね」

 デイビッドの疑問に、ヘルシングは額に汗しながら断言する。

「なぜ探知できなかったのかわからないけど、グールが六体、エンプーサ三体、僵屍ジャンシー五体、ヴァンパイアが一体。ラルヴァは無数にいる。……ほとんどが遠くでしか感知したことのない連中だよ。それにヴァンパイア以外は現在の吸血鬼の定義からは逸脱してて、よく感じられない」

「勘違いであって欲しかったよ」

 指折り数えて言ったデイビッドを含め、ヘルシング以外のみなが、それらを見出せずに戸惑っていた。

「ラルヴァは一番近くにいる」ヘルシングが配慮して説明する。「こいつらは完全な霊体だから、普通は視認できないんだ」


「見たくもねーが捉えたぜ!」

 デイビッドが叫んだ。コヨーテ・トリックスターの異能で、視覚を霊視に変換したのだ。

 ラルヴァは不定形な白い霧のようで、あちこちに人の顔や四肢がいくつも形成されたり喪失したりを繰り返す、個々の区別のつきにくい集合体だった。SMIとヴァンパイアを円陣で囲っている。


「シャルロット、吸血鬼の眼でも視認可能だ」

 カインの助言を受けて吸血鬼としての視覚にラルヴァを映し、シャルロットも言及した。

「どうやら、わたしたちの視力も封じられていたみたいね」


「こんな脳みそもなさそうな奴らに、はめられたってのか?」

「ないな」

 デイビッドの推理はモーゼスに否定された。

「ラルヴァはローマにおける悪霊だが、無駄に流された体液から生じる最下級霊ともされる。血でなく精気を吸うが、知性のある輩ではない。むしろ操られている可能性のほうがある」

 対吸血鬼用に読書などで光輝の書に貯めた知識を老人が披露すると、ヘルシングは次の連中の潜伏先を教えた。

「エンプーサとグールは空だ。どっちも精霊みたいなものだけど、今は後者が可視化してる。鳥に化けてるよ」


 一行が夜空を仰視すると、雲が映えるほどに晴れた天上にそのようなものを観察できた。

 羽ばたきながら停滞する六羽の怪鳥が、頭上で輪を描いている。四羽はよく判別できない形状だが、二羽はフクロウに似ていた。

 モーゼスが解説を重ねる。

「フクロウはともかく、夜盲症の鳥は夜間飛べんはずだ。グールは動物や人に変身するとされる、アラブの精霊ジンの一種だしな。主に死体を喰らうが、稀に息のある人間も餌食とされる」


 グールはぐにゃりと肉体を変形させながら降下し、人に姿を変え、SMIとヴァンパイアを挟むように着地した。

 男女三人ずつ。女はムラートのようで、臍や肌を大胆に露出したブラトップにアラジンパンツをはいた艶めかしい美女たち。男はアラジンパンツだけで上半身裸の、体の一部に奇形めいた特徴のある毛深い黒人たちだった。

「アッサラーム・アライクン」

 グールたちへとモーゼスが言ったが、何の反応もなかった。

「アラビア語講座かい」

 デイビッドが吸血鬼たちを見据えながら疑問を投げると、モーゼスは口答した。

「アラビアの挨拶さ。ジンは元来性悪でなく、グールはジンの一種だ。遭遇したときにこの言葉を掛ければ、アッラーへの信仰だけを説いて見逃してくれることもある。変化がないとなると、彼らも普通でないのかもしれん」

「女の方は人なら上玉だが、やっぱ操られてるってか。でも誰が、それにエンプーサってのは?」

 後者には、空を仰いだままのヘルシングが回答した。

「だんだん目視できるようになるよ」


 人とヴァンパイアが上空を改めると、未だそこには異様なものが三つ浮遊している。

 始めは陽炎のような影が半分風景に溶けていたが、やがて明確な形を作り、色彩を濃くすると実像を露わにした。

 コウモリのような翼のある妖艶な美女だ。貫頭衣キトンを着用していて両手の爪は鋭い。彼女たちは降りることなく、空を旋回しながら陸上の獲物を狙っていた。

 モーゼスは言う。

「エンプーサはギリシャのヘカテ女神の命で男を喰らい、悪夢を与えながら血を吸う夢魔の一種でもある。これも、わざわざ女神が差し向けたとは考えがたいな」

「ってことは」

 しゃべりながら注がれたデイビッドの眼差しを受けて、ヘルシングは街の方を顧みた。

「ジャンシーとヴァンパイアは、あっちの建物の上だね」


 かなり離れたところにある、疎らな照明を纏った四角い建築物だった。人の視力ではほとんど窺えないほど遠かったが、ヴァンパイアの二人は人影を捕捉していた。

「……あいつか」

「再会したくなかったわね」

 カインとシャルロットの驚愕の囁きは、SMIには聞き取れない程度だった。呼応するように、その屋上から六体の影が飛び立ったが、これは人間たちでも辛うじて捉えることができた。

 驚異的な跳躍力で空中に放物線を描いて一挙に急接近し、SMIとヴァンパイアの面前に降りたのは、まず五体のジャンシーだった。

 中華民国の軍服の男が一人。中国服の男とチャイナドレスの女が一人ずつに、清朝の正装である満州族の帽子と服に弁髪という出で立ちの男が一人。明朝、漢民族の儒者の服装の男が一人だった。うち、軍服、中国服、チャイナドレスのジャンシーは両腕を真っ直ぐ前に伸ばし、額には霊符が貼られている。


「ジャンシーは中華民国の死霊だ」モーゼスが恒例の解説をした。「もとは吸血鬼から縁遠いが、ヴァンパイアに血を与えられて似た性質を有する新種が生じたという。故に吸血し、吸われた者もジャンシーになるなど特性も継いだが、死体の特徴も濃い。ジャンシーになりたての頃は身体が固まっていて腕を前方に伸ばし、足首だけで跳ねるように移動し、額に札が貼られている者は道士が操れるそうだ」

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