それは突然の出来事だった。
街道の真ん中で突如馬車を急停車させた行商人が蓮斗達の方へと振り返ると、声をひそめるように話しかけて来た。
「カタストロフの皆さん、魔物の群れです……どうか、よろしくお願いします」
聞けば馬車の進む前方に魔物が群れているという。
馬車から降りて周囲を見渡せば、広大に広がる森の近くを通っていたことに気がつく。
緊張に表情を固くする蓮斗と柚月を置いて真っ先に動いたのはやはりベルだ。
素早く魔法を展開したベルは馬車を中心に《光の結界》で保護。
前方に見える魔物の観察を行う。
「ゴブリンが五匹、体格的にまだ若い種です……繁殖しすぎた群れから追い出された、と言うところでしょうか」
冷静に情報を分析し終えたベルは、フッと緊張の糸を緩めると蓮斗と柚月に笑顔を向けながら指示を出した。
「レント、ユズキ! お誂え向きの初陣ですよっ! わたくしは、ここで馬車を守りながら周囲の警戒にあたります。二人はゴブリン五匹の殲滅をお願いしますねっ! 冒険者に至るための通過儀礼だと思って頑張ってください‼︎ 二人の実力なら苦戦することはありませんので!」
ベルの判断に蓮斗と柚月の緊張は更に高まっていく。
ここまでの道中で魔物と遭遇した時の手筈は決めていた。
敵の強さが蓮斗と柚月で対処可能なレベルを超えていた場合ベルが前線に立って二人が馬車を護衛する——逆の場合、今まさにベルが指示を出したように蓮斗と柚月、クロマルで対処する手筈になっていた。
「ぅうう〜っ、来ちゃった、遂に来ちゃったよこの瞬間……異世界で初回エンカウントの定番、ゴブリン。怖い、めっちゃ怖い、けど、ここで変わらなきゃ、この世界で生きていけないっ」
及び腰ながらも、指輪から取り出した黒と金のハルバードをギュッと握りしめ、百メートル程先に見えるゴブリンのもとへ一歩、柚月がその足を踏み出した。
「……」
蓮斗は自分よりも先に一歩を踏み出した柚月の姿に目を見張る。
視線の先にあるもの、ソレは明らかな〝異形〟だ。
濃い緑色の表皮、毛のない頭部から生えた小さなツノ。
背丈は柚月よりも僅かに低いが、醜悪を絵に描いたような顔は無意識に嫌悪感を呼び起こさせる。
もとの世界では小鬼という表現をされることもあったが、まさしくそのような様相。
蓮斗のいた世界には当然存在しないのだが、にもかかわらず文献などに存在が出てくるのは何かしらの関係があるからなのだろうか。
そんな事を考えながらも蓮斗は柚月に遅れまいと足を進めた。
「……変わる、か」
拳に装着したナックルグローブの感覚を確かめながら、蓮斗は意識を集中させていく。
柚月の言う通り、もとの世界での価値観を引きずっていてはこの世界で生きていくことは到底不可能だろう。しかし、やはり躊躇いはある。
もとの世界、しかも日本で、一般の学生相手に〝動物を殺したことがあるか〟と質問して、はいと答える人物は恐らく殆どいない。
逆に、そこではいと答えようものなら、余程の事情がない限り周囲から非難を受けることはまず間違いない。
それが蓮斗の住んでいた世界の〝当たり前〟で、いかに蓮斗が喧嘩三昧の多少バイオレンスな環境に身を置いていたとしても、その手で動物を殺したことがあるか、と問われれば、答えはやはりノーだ。
まして、今から相対するのは動物ですらない〝怪物〟である。
体験したことのない恐怖、困惑、忌避感……様々な感情が全身に巡り、額には嫌な汗が滲んだ。
緊張に身を硬くしながらも、意地で柚月の隣に立った蓮斗はゴブリンとの距離を残すところ数メートルへと縮めていた。
瞬間、蓮斗と柚月の存在に気がついた五匹の内の一匹が、ザラついた耳障りな叫び声を上げ、見れば手にしていた腰ほどまでの棍棒を振りかざし、蓮斗と柚月に向かって走り出した。
——咄嗟に柚月を庇うように前へと出た蓮斗、だが、体が思うように動かない。
「ワンっワン‼︎」
飛び上がったゴブリンが蓮斗の頭部目掛けて棍棒を振り下ろす、そこへ真っ先に攻撃を仕掛けたのは小さな黒い影。
「——っはぁ、はぁ! クロマル!」
蓮斗が呼ぶよりも早く、ゴブリンに飛びかかったクロマルはその牙を容赦無くゴブリンの首筋へと突き立て、周囲の肉ごと首の一部を食いちぎった。
茫然とその様子を眺める事しか出来なかった蓮斗の顔に、至近距離で首を抉られたゴブリンの鮮血が、バシャっ、と音を立てて飛び散った。
予想外に真っ赤だったゴブリンの血は、蓮斗が知るそれよりも酷く臭う。
「レンくん大丈夫っ⁉︎ ぼ、ボクもクロマルに負けてられないっ‼︎」
目の前で起こった現実を蓮斗が呑み込む前に、動いた柚月。
気がつけばクロマルの一撃で息絶えたゴブリン以外の四体が蓮斗たちを取り囲み、そのうちの一体へと柚月は真っ直ぐに向かっていく。
蓮斗は柚月がゴブリンを狩る姿など到底想像できず、思わず手を伸ばしその背中を止めようとしてしまう。
「ボクは、この世界でっ、変わるんだ!」
ぼてぼてとした鈍臭い走り方をした柚月——の姿はそこになく、自分の間合いへと入り込んだゴブリンの胴を遠心力が十分に乗ったハルバードの横なぎで見事に分断して見せた。
言葉が出てこない。
あんなにも臆病な様子を見せていた柚月がゴブリンを切断し、更には嬉々としてはしゃいでいる。
生物の死を前にして、喜んでいるのだ。
蓮斗は確かに、退屈な日々に嫌気がさしていた。
力がモノを言うこの世界の在り方を歓喜した。だが、実際どうだろうか。
蓮斗の拳は、小さく、震えている。
そんな状況が、不甲斐なさが、弱い自分を見せつけられているようで、途端に言いようのない歯痒さがこみ上げてくる。
「っ! 上等ダァあああぁああ‼︎」
蓮斗の背後に回り込んでいた一体が棍棒を振り回しながら襲いかかる。
気配で察知していた蓮斗は振り向きざまに、固く握った拳をゴブリンの顔面に叩き込もうとして、本能的に悟った。
魔力とスキルによって強化された拳が、ゴブリンの顔面を撃ち抜いた後に
「————っち!」
思わず緩んでしまった拳、その勢いは軽くゴブリンを吹き飛ばしたものの致命傷を与えることはなく。
「レンくん! 危ないっ‼︎」
散漫になってしまっていた蓮斗の意識、その隙間を縫うように身を潜ませていた残りの一体が蓮斗に組みつき、小柄な体躯からは予想もできない力強さで、蓮斗を押し倒した。
「クソ野郎が——っ!」
押さえつけられた蓮斗が下から拳を振るうも、有効な打撃は与えられず、真下から見上げた視界の端に先ほど吹き飛ばしたゴブリンがすぐに駆けつけ、大きく掲げた棍棒を蓮斗の頭目掛けて振り下ろそうとしていた。
「レンくんを離せっ! 《|束縛する樹々《ツリーバインド》》」
「グルゥッ! ワォオオン‼︎」
死の感覚が頭を過ぎる。
そんな蓮斗の目を覚ますように周囲から突如、葡萄の樹に似た、細い幹の束が立ち上り蓮斗を抑えていたゴブリンと棍棒を掲げたゴブリン二体を絡めとるように蓮斗から引き剥がし、その体を拘束した。
「クロマルっ! 片方お願い! 魔力充填っ、喰らえぇえええ!!」
蓮斗を守るように飛び出した柚月は天高くハルバードを掲げ、すると瞬間的に〝斧〟の部分が巨大化し、重力に従って真っ直ぐに振り下ろされる。
「————っ」
柚月の振り下ろしたハルバードの一撃はゴブリンを頭から真っ二つに切断しただけに止まらず、大地に浅くない亀裂を生み出した。
「あちゃぁ〜、ちょっと、やり過ぎちゃった」
想像以上の破壊をもたらした柚月は、ペロっと舌を出して「失敗、失敗」と、皿でも割ってしまった子供のように頭を掻くが、割ったのは間違いなく大地だ。
「ゥオンっ! ォオオンっ!」
その隣でクロマルは、魔法によって生み出した火球でゴブリンを焼き焦がし、勝利の遠吠えを上げていた。
「……、……、————ッ!! くそ……」
クロマルと協力しながらも五体のゴブリンを倒し切った柚月の表情は、どこかやり切った満足感に満たされているようで、蓮斗は先ほどまでの自分の姿を茫然と思い返し、吹き出した猛烈な怒りと悔しさに、ギリっと奥歯を噛み締めた。
不甲斐なさすぎる、あまりにも……それは、蓮斗が初めて味わった〝敗北感〟だった。
初めて〝マリィベル〟という圧倒的格上に相対した時ともまた違う、本来であれば庇護する対象でしかなかった柚月に、守られた。
城で柚月やベルに対してアレだけの大言を吐いておきながら、この体たらく。
「ユズキ! クロちゃん‼︎ やりましたねっ! 初陣とは思えない見事な立ち回りでした」
安全が確保できたと判断したベルが、結界を解除し行商人と馬車を伴って近寄ってきた。
ベルは柚月とクロマルに惜しみない賞賛を送り、自分のことのようにその戦果を喜ぶ。
フッと、柔らかな視線をベルが蓮斗へと向けた。
落胆されるだろう、それとも同情し慰められるのだろうか。
どちらにせよ蓮斗にとっては屈辱でしかない。
いっその事、悪態の一つでもついてこの場から逃げ出してしまいたいとすら考えた。
だが、これ以上恥の上塗りをする程蓮斗も幼くはない。
ベルは静かに蓮斗の前に立ち、穏やかな視線を向けている。
柚月はどこか心配そうな、気まずそうな雰囲気で様子を伺っていた。
「——っ、悪かった————」
恥も不甲斐ない自分への憤りも強引に呑み込みベルへと向き合った蓮斗の口から出たのは、命をかけて呼び出した存在である蓮斗達が期待以上の結果を生み出さなければ到底割りに合わないはずのベルに対する謝罪の意思。
しかし、ベルはそれを遮って、ニンマリと口の端を吊り上げながら蓮斗に言った。
「レントっ、カッコわるぅ〜、プププ」
「はっ!? な、なんだとっ、コラッ!?」
予想外の一撃。完全に想定外だったベルの口撃に蓮斗は目を見開いて動揺する。
「でも——」
「んなっ!」
そんな隙をつくようにベルは蓮斗に抱きつき、優しく両手で顔を覆うと、慈しみを感じさせる微笑みを湛えながら柔らかく言葉を紡いだ。
「わたくしは、知っていましたよ? 野蛮に見えても、本当はとても心優しい人だと」
「……んだよ、それ、同情してんじゃねぇよ」
「ふふ? 同情、してほしいんです? ……レントの持つ〝感覚〟は決して間違っているとわたくしは思いません。誰でも〝生き物〟に刃を向けるのは恐ろしい事です。
ただ、そうしなければ〝生きていけない、仕方がない〟そんな環境にわたくし達の心は段々と麻痺しているのでしょう……わたくしは、レントの感情に落胆も同情もありません。
ただひたすらに、好ましい——そう、思っています」
どこか熱を帯びたベルの視線から、ふいと目を逸らし、だが何も言えずにいた蓮斗からそっと体を離したベルは、にっこりと爽やかな笑みを浮かべなおした。
「ですが……一番活躍できなかったのも事実! ということで、はい!! コレはレントのお仕事で〜す」
非常にいい笑顔で傷を抉られた蓮斗は「グフっ」と痛みを噛み殺し、そこにスッと差し出されたのは竜の意匠が柄に掘られた短剣。
「なんだよ、こりゃ……オレは光モノ使わねぇって——」
「ゴブリンの
話を聞くだけで「ウッ」と何かがこみ上げてきた蓮斗の手に問答無用で握らされる短剣。
実のところ蓮斗は、スプラッターが大嫌いである。
「魔物との戦闘で一番活躍が少なかった人が〝解体担当〟というのがカタストロフのルールで〜すっ! さぁ、ユズキっ、わたくしたちは作業が終わるまでティータイムにしましょう?」
解体作業で魔物の死に少しでも慣れてくださいっ、と片目を閉じて柚月とクロマルを伴い、その場から離れたベル。
優雅な香りを漂わせ始めた彼女達を横目に血生臭いニオイに何度かひっそりと虹の橋を口元から描いた蓮斗であった。