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第2話 草原の二人

 馬に乗るのは好きだった。粟色の栗毛馬の背に跨り、広大な草原を駆け抜ける感覚は、何物にも代えがたい喜びだった。柔らかな春風が頬を撫で、草の香りが鼻腔を満たす。護衛の家臣を撒いてたった一騎で草原を駆けていると、鬱陶しい日常を忘れてしまう。宮中の厳しい作法や、周囲の視線から解放される唯一の時間だった。


 雲ひとつない碧空の下、寿王の馬は軽やかに草原を駆け抜けていた。遠くに見える山々は淡い紫色に霞み、草原には春の野花が色とりどりに咲き誇っていた。馬の蹄が大地を打つ音と、風を切る音だけが耳に届く。


「もう戻らねば…」寿王は空を見上げ、太陽の位置を確認した。「日が傾き始めている」


 もう屋敷に戻らねばならない時刻だが、寿王は構わず駆け続けていた。鳥が草原の上を自由に飛ぶように、彼もこの瞬間だけは皇子の枷から解放されていた。


 遠くの丘に目をやると、ちょうど太陽が丘の向こうに沈みかけ、黄金色の光が草原全体を染めていた。寿王は馬を緩め、その美しい光景に見とれていた。


 突然丘の向こうから一騎が現れ、シルエットとして浮かび上がった。馬上の人影は逆光に照らされ、まるで幻のように見えた。その騎手は寿王に向かって真っ直ぐに駆けてきた。寿王は眉をひそめ、不審な騎手に警戒しながら手綱を引いた。


 しかし騎手が近づくにつれ、その姿が明らかになっていく。すらりとした体つき、風になびく長い髪。寿王に並んで走った騎手を見て、寿王は驚きの声を上げた。


「蒼天」


 彼女は小さく微笑み、馬を寿王と並行させて走らせた。夕日に照らされた横顔は、普段の女官の姿とは違い、野性的な美しさを放っていた。


「私も馬は得意ですよ」蒼天は髪をかき上げながら言った。彼女の目は挑戦的に輝いていた。「競走します?」


 寿王は一瞬言葉に詰まったが、すぐに思い出したように話しかけた。


「あれから菓子を食べに来ないな」


 草原の風が二人の間を吹き抜けた。蒼天は馬の手綱を握り直し、軽やかに答えた。


「相変わらず甘いものばかりじゃないですか」彼女の声には笑みが混じっていた。「私の好みを覚えていないのですね」


 来てはいるんだな、と寿王は知った。彼女は菓子を盗み食いする遊びをやめてはいなかったのだ。ただ、寿王が気づかないように、より巧みになっていたのだろう。


「僕がよく遠駆けするのを知っていたか」寿王は彼女の顔をじっと見つめながら尋ねた。風が二人の間を吹き抜け、草の香りを運んできた。


 蒼天は手綱を緩め、馬をゆっくりと歩かせながら答えた。


「寿王様の事は、皆がよく知っていますよ」彼女は遠くを見るように目を細めた。「何をすれば喜び、また怒るのか。何時に起き、何時に寝るのか。お好きな食べ物は何か、嫌いな人物は誰か」蒼天は一息ついて、寿王を見た。「ご機嫌を取るためにですけど」


 彼女の言葉は真実を突いていた。宮中の誰もが寿王の一挙手一投足に注目し、自分の利益につなげようとしているのだ。寿王の喉から苦い笑いがこぼれた。


「じゃあ、お前は違うな」寿王は苦笑いして言った。「せっかくの僕の自由時間を、邪魔しているんだから」


 蒼天の馬が小さく鼻を鳴らし、彼女はその首筋を優しく撫でた。


「たまには面白いでしょう、邪魔をされるというのも」蒼天は悪戯っぽく笑った。夕日に照らされた彼女の表情は、まるで少女のように明るく、無邪気だった。


 馬上では誰もが同じ目線になる。王侯貴族も、使用人も、同じ高さで言葉を交わす。その自然さが、寿王には心地よかった。取り巻きどもが下から見上げて来る媚びた目線は、いつも気味悪く感じている。


「確かに」寿王は頷いた。「たまには予定が狂うのも悪くない」


 二人の馬は並んで歩き、長い影を草原に落としていた。遠くからは、二人の影が一つに見えるほど近く並んでいた。


 しばらく二人で駆けた。丘を越え、小川を渡り、風に吹かれながら草原を自由に走り回った。やがて太陽が地平線に沈みかけ、空が紅く染まり始めると、二人は速度を落とし、互いの事を語り合った。


 蒼天の馬が小さな石につまずき、彼女が手綱を引き締める様子を見ながら、寿王は思った。彼女の馬術は見事だった。生まれながらに馬と共に育ったかのような自然な動きをしている。


「見事な馬術だ」寿王は率直に褒めた。「どこで覚えた?」


「子供の頃から」蒼天は懐かしむように遠くを見た。「父が私に教えてくれました。父は、私が男の子だったらと常々言っていましたから」


 話しているうちに、寿王は蒼天についてさまざまな事実を知った。蒼天は寿王と同じ歳だった。親は一応貴族の出身で、娘の将来を思い、寿王の屋敷に勤めさせたという。


「礼儀作法を身に付けて、早く嫁に行けと父に言われました」蒼天は草を摘みながら話した。「妹がすでに嫁いでいましたから。私だけが残っていて、父の目の上のたんこぶだったんです」


「身に付いたか?」寿王は興味深そうに尋ねた。彼女の素性を知れば知るほど、この奇妙な女官に対する好奇心が膨らんでいく。


 寿王が聞くと、蒼天は頭を後ろに反らせ、高い声で笑った。その笑い声は草原に響き渡り、近くの小鳥たちが驚いて飛び立った。


「全然」彼女は両手を広げ、夕日に向かって叫ぶように言った。「その気もありません。見てくださいよ、この有様」彼女は自分の乱れた髪と、男性のように馬に跨る姿勢を示した。「身に付けなければ、嫁に行かずに済むんですから」


 そう聞いて寿王も大いに笑った。この奔放な娘には、お高い貴族の生活など窮屈なだけだろう。彼女の率直さと明るさは、宮中の偽りと暗さの中で育った寿王にとって、まるで新鮮な空気のようだった。


「うらやましいな」寿王はため息混じりに言った。彼の声には羨望と切なさが混じっていた。「僕は男とはいえ、お前のように自分を解放して生きる事はできない」


 夕焼けが二人の顔を赤く染めていた。蒼天は寿王の表情を真剣な眼差しで見つめた。


「皇帝の子という立場であれば、誰でもそうなるでしょう」彼女の声は優しく、理解を示していた。「お察しします」


 沈黙が訪れた。二人は言葉を交わさずとも、何かが通じ合っているような感覚があった。やがて寿王が静かに口を開いた。


「皇子は僕だけじゃないのにな」彼の声は風に溶けるように小さかった。


 蒼天は少し躊躇った後、慎重に言葉を選ぶように話した。


「お母上が、いろいろ動いているという噂を聞きます」彼女の目は寿王の反応を窺っていた。


 これを聞いた寿王は、蒼天から目を逸らし、虚しく頷いた。夕日の赤い光が彼の横顔を照らし、影を長く伸ばしていた。


 寿王の母は、現在のところ皇帝に最も寵愛されている婦人だった。宮中ではその美貌と知略で皇帝の心を掴んでいる。彼女は野心も強く、いずれ寿王を跡取りにさせようと考えているのを、寿王も感づいていた。母の野望のために利用されることへの苦悩が、寿王の心を常に重くしていた。ただ、目の前でそれをはっきりと教えてくれたのは、蒼天が初めてだった。


 草原には沈黙が流れた。ただ風の音と、草をついばむ馬の音だけが聞こえる。寿王はしばらく考え込んだ後、決意したように蒼天を見た。


 寿王が言った。


「僕の名前は、李瑁だ。寿王というのは爵号だ」


 彼の声には、何か特別な意味が込められていた。自分の本当の名を明かすことは、彼にとって大きな一歩だった。


「知っていますよ」蒼天は静かに答えた。彼女の目には優しさが浮かんでいた。


「お前も、姓は李だな」寿王はさらに言葉を続けた。彼の声には、ある種の期待と諦めが混じっていた。


「……ええ」


 李蒼天は、そう答えて俯いた。夕陽が彼女の髪を赤く染め、長い影を草原に落としていた。この短いやりとりには、深い意味が込められていた。


 同姓の結婚はしないのが、この国の古くからの習慣であった。同姓は同族と見るからである。寿王は、「お前を迎えたいが、それは無理だ」と言ったのだ。蒼天も、その気持ちを理解したようだった。


 ほんの一瞬だけ燃え、すぐに消えた想いだった。草原に吹く風のように、来ては去る感情。しかし二人の心には、それぞれ何かが残った。


 沈黙が続き、夕闇が少しずつ草原を包み始めた。最後の夕日が山の向こうに沈もうとしていた。


 少しして、蒼天が急に頭を上げた。明るい目をしていた。まるで何かを振り払うように、彼女は髪を揺らした。


「あ、やっぱり李の姓で良かった」彼女は突然明るい声で言った。「寿王様の身内になったら、宮中のどんな陰謀に巻き込まれる事か!」


 その言葉は草原に響き、緊張した空気を一気に和らげた。蒼天の率直さが、再び二人の間に自然な空気を取り戻させた。


「お前、はっきり言い過ぎだぞ」


 寿王は苦笑しながら、蒼天の横顔を見た。最後の夕日が彼女の輪郭を金色に縁取り、美しく浮かび上がらせていた。蒼天はまっすぐ前を向き、その瞳には一点の曇りもなかった。彼女の目は遠くを見つめ、何かを決意したかのように輝いていた。


 蒼天が何も言わずに、馬に鞭を入れた。彼女の馬は急に速度を上げ、風のように去って行った。夕闇の中に、彼女のシルエットが徐々に小さくなっていく。


 その蹄が蹴り起こした草と土の香りを感じながら、寿王は静かに蒼天を見送った。暗くなり始めた草原に一人残された寿王は、長い間彼女の姿が消えた方向を見つめていた。


 空には最初の星が輝き始め、月が薄く浮かび上がっていた。寿王は深いため息をつくと、ゆっくりと宮殿への帰路についた。

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