長安の都は早くも夏の装いを始めていた。宮廷の庭園では牡丹の花が散り、藤の花が紫の房を垂れ始めていた。寿王の屋敷にも、その豪奢な季節の訪れが感じられた。寿王は書斎の窓から庭を眺めながら、穏やかな心地で日々を送っていた。蒼天との草原での出会いから一月ほどが過ぎたある日のことである。
寿王に縁談を持ってきたのは、父・玄宗皇帝の重臣、高力士であった。宦官でありながら皇帝の信任厚く、朝廷の実権を握る人物である。彼が寿王の屋敷を訪れたのは、朝露がまだ庭の草に残る早い時間だった。
「おはようございます、寿王様。陛下の重臣、高力士がお見えになっております」
侍従が低い声で告げた。寿王は眉をひそめた。高力士が朝早くから自分を訪ねるとは珍しい。何か重要な事があるのだろうか。
「通せ」
寿王がそう命じると、間もなく高力士が部屋に入ってきた。年齢を感じさせない姿勢の良さと、凛とした雰囲気を持つ男だった。しかし、その細い目には常に何かを企む光が宿っていた。
「寿王様、ご機嫌いかがですか」高力士は恭しく頭を下げた。「本日は、あなた様の将来に関わる重要な話がございまして」
縁談の話だった。高力士は言葉を選びながら、寿王にふさわしい女性が見つかったと告げた。蜀の地から見出した美女で、才芸も優れていると言う。寿王は最初、これが父・玄宗皇帝の意向だと思った。
「父上のご指示ですか?」寿王は、まっすぐに高力士の目を見て尋ねた。
高力士は僅かに表情を変え、目を伏せた。
「陛下には報告しております。ただ、この縁談は、私が寿王様のためを思い進言したものでございます」
父の意志ではなく、高力士の独断で決められた話だった。高力士は宮中において絶大な権限を持っている。その権力を振りかざし、まるで自分が主人であるかのように振る舞う姿に、寿王は内心不快を覚えた。
寿王は立ち上がり、庭に面した廊下を歩きながら考えをまとめた。朝の日差しが彼の顔を柔らかく照らしていた。何か企みがあるのでは、という気持ちも起きたが、それだけでは断る事もできなかった。皇子である以上、政略結婚は避けられないものだった。
「その女性の名は?」寿王は振り返り、静かに尋ねた。
「楊玉環と申します。容姿端麗で、琵琶の名手でもございます」
高力士の口から語られる玉環の素性は、どこか作り物めいて聞こえた。しかし結局、寿王は言われるままに妻を迎えることになった。高力士の提案を断れば、父にも失礼になる。さらに、高力士のような権力者を敵に回すことは、智恵のないことだった。
婚礼の儀は簡素ながらも厳かに執り行われた。寿王の屋敷には朱色の幔幕が張られ、祝いの提灯が軒先に吊るされた。宮中の楽師たちが婚礼の音楽を奏でる中、楊玉環は緋色の婚礼衣装に身を包み、輿に乗って寿王の元へと運ばれてきた。
初めて玉環の顔を見た時、寿王はその美しさに息を呑んだ。伝えられた通り、妻の名は楊玉環といい、稀に見る美女だった。柳の枝のようにしなやかな眉、白玉のような肌、そして鈴を転がしたような澄んだ声。確かに驚くべき美貌の持ち主であった。
新婚の日々が過ぎ、二人は徐々に打ち解けていくかに見えた。しかし、表面的な礼儀正しさの下に、どこか埋められない隔たりがあった。玉環は寿王より一つ年上だった。美しいだけでなく頭も回るし、歌舞にも秀でていた。夫婦の営みも欠かさず行ったが、子宝には恵まれなかった。
二人の距離感は、婚姻から三ヶ月経った今でも、少しも縮まっていなかった。寿王は玉環の内に秘めた何かを感じとっていた。それは恐れか、あるいは野心か、彼には判断できなかった。寿王にとって、玉環は琵琶を奏でる美しい人形のようであり、彼女の心の内は見えなかった。
ある朝、寿王は自室の窓から庭を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが樹々の緑を照らし、小鳥たちが枝から枝へと飛び交っていた。玉環は別の部屋で女官たちと共に刺繍を楽しんでいるはずだった。
部屋の掃除をしている蒼天の姿が目に入った。彼女はいつものように軽やかな足取りで、部屋の塵を払っていた。草原での出会い以来、蒼天は自分の屋敷で働き続けていた。しかし玉環が来てからは、二人で話す機会も減っていた。
「玉環は、母上に似ている。だから僕の嫁にくれたんじゃないかな」
ふと思ったことを口にした。部屋の掃除をしている蒼天に、寿王はそんな感想を言った。結婚した今でも、蒼天はたまに話し相手に来る。もちろん玉環のいない時である。
蒼天は掃除の手を止め、寿王の言葉に聞き入った。彼女の目には、何か決心したような光が宿っていた。
「ごめんなさい、寿王」
蒼天は、突然掃除の手を止めて謝った。箒を脇に立てかけ、真剣な面持ちで寿王の前に進み出た。部屋に一筋の光が差し込み、彼女の横顔を照らしていた。
「何を謝るのか、分からん」寿王は首を傾げた。
蒼天は少し躊躇った後、声を落として言った。
「噂が気になって、調べてしまったの。玉環様があなたの元に来た理由を」
彼女は草原の時以来、敬語を使わない。寿王が堅苦しさを嫌ってやめさせたのだ。今の彼女の言葉には、心配と警戒が混じっていた。
「噂?」寿王は眉を寄せた。「どんな噂だ?」
蒼天は左右を見回し、誰も聞いていないことを確かめてから、さらに声を落として話し始めた。
「玉環様を、蜀の田舎から見いだして来たのは高力士様なのよ」
彼女の声には緊張が滲んでいた。しかし寿王は肩をすくめただけだった。
「知っているさ。縁談も彼が持って来た」
「問題はその前。あなたの嫁にと決まる前に、あなたのお母上が、玉環様を引見なさった」
これには寿王も驚いた。母が玉環に会っていたとは知らなかった。窓の外から爽やかな風が入り、寿王の額の汗を涼やかに乾かした。
「母が? どうしてそんな事を?」寿王の声には困惑が混じっていた。
蒼天はさらに近づき、ほとんど囁くような声で続けた。彼女の息が寿王の頬に触れるほど近い。
「玉環様を見たお母上は、こう言ったそうよ。『皇帝陛下の御目に触れる前に、輿入れしてしまいなさい。できれば私の目の届く所へ』」
その言葉を聞いた瞬間、寿王の背筋に冷たいものが走った。蒼天の瞳のみを見つめ、その言葉の意味を理解しようとした。
「なんだと……?」
寿王は、じっとりと汗をかいた。企みを持っていたのは、自分の母と言うことなのか。母が考えている事なら、これだけで大体見当が付いた。宮廷の陰謀渦巻く世界で、母は常に二手先、三手先を読んで動いている。
寿王は窓際に歩み寄り、遠くに見える宮殿の方向を見つめた。そこには父・玄宗皇帝がいる。そして母も。考えながら、寿王は静かに言葉を紡いだ。
「玉環は母の若い頃に似ている。という事は、父の好みの女性という事でもあるのか」
蒼天は頷いた。彼女の顔には不安と心配が浮かんでいた。
「そう。もし陛下が玉環様をご覧になったら必ず自分のものにする。そうすれば、若さで負けるお母上は、ご寵愛を失ってしまうかもしれない」
寿王は思わず苦笑した。母の計算の冷たさに、あきれるより感心してしまう自分がいた。
「自分の保身のために、玉環を隔離したのか。……無理もない。父の女好きは相当なものだからな」
寿王は部屋を歩き回りながら、思考を整理した。木の床が彼の足音で軋んだ。
玄宗皇帝には六十人近い子がおり、後宮にいる美女の数は三千とも言われる。その中で寵愛を独り占めにしている母は、野心家ではあるが確かに非凡な女性である。寿王はそういう意味で、母を尊敬してはいた。それでも、自分の息子の人生を駒のように動かすその手腕に、複雑な思いが湧き上がった。
「謀略めいた結婚だとは思っていたが……しかし、玉環が母に殺されずに済んだだけでもよかった」
と寿王は蒼天に言った。母の性格は、それほどに激しいのだ。もし玉環が皇帝の目に留まり、母の地位を脅かすようなことになれば、彼女の命さえ危ういかもしれない。
蒼天も慎重な顔で頷いた。暗い淵の中にいるようで、二人ともしばらく言葉は出なかった。窓の外では風が木々の葉を揺らし、まるで彼らの不安を代弁するかのような音を立てていた。
時が過ぎ、日が傾いてきた。部屋の隅には影が伸び、寿王の心にも暗い影が落ちていた。蒼天は掃除を終え、箒を元の場所に戻した。そして寿王に向き直り、思い切ったような表情で口を開いた。
「玉環様とはうまくいってる?」
不意に蒼天が聞いた。その率直な質問に、寿王は少し驚いた。しかし彼女の目に映る心配そうな表情を見て、素直に答えることにした。
寿王は苦笑して、
「いってないな。子供もいないし。でも今の話を聞いて、玉環を守ってやりたくなったよ」
それは本心だった。玉環との間に深い愛情はなくとも、彼女もまた宮廷の陰謀に巻き込まれた犠牲者だと思えたからだ。
蒼天の顔に安心の表情が広がった。彼女は微笑み、陽が差す窓際に歩み寄った。
「そうしてあげて。仲良くなれたら、あたしも話し相手に混ぜてよ」
蒼天は微笑むと、部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、寿王は玉環との関係を見つめ直そうと決意した。
男女の関係とは違い、少し距離をおいた蒼天との交流を、寿王は安らぎとして感じていた。彼女にはいつも率直に自分の思いを語ることができる。そして彼女もまた、宮中の誰よりも正直に自分に向き合ってくれる。
部屋の中に夕日が差し込み、寿王の影を長く伸ばした。明日からは玉環にもっと心を開こう。そして、この複雑な宮廷の渦の中で、互いに支え合える関係を築こう。寿王はそう決意しながら、窓の外の夕焼けを見つめていた。
その夜、寿王は夫婦の間である玉環の部屋を訪れた。彼女は窓際で琵琶を奏でていた。その姿は月光に照らされ、まるで仙女のように美しかった。寿王の足音に気づいた玉環は、すぐに立ち上がり、礼儀正しく夫を迎えた。
「寿王様、今宵はご気分がよろしいようで」玉環は柔らかな声で言った。彼女の仕草のひとつひとつが優雅で、まるで長い間訓練されたかのようだった。
「眠れなくて」寿王は自分の声が少し硬いことに気づいた。「お前の琵琶の音色を聞かせてほしい」
玉環は微かに驚いた様子を見せたが、すぐに従順な微笑みを浮かべた。彼女は再び琵琶を手に取り、指先を弦に這わせ始めた。部屋に流れる音色は、まるで小川のせせらぎのように澄んでいた。
寿王は静かに聴き入りながら、初めて玉環を本当の意味で「見る」ことにした。彼女の表情、仕草、そして目に宿る感情。それらはすべて、彼が知ろうとしなかった玉環の一部だった。
曲が終わると、寿王は拍手した。「素晴らしい。どうして今まで聴かせてくれなかったんだ?」
「お尋ねにならなかったからです」玉環は琵琶を置きながら答えた。その言葉には非難めいたものはなく、ただ事実を述べていただけだった。
寿王は自分の不注意を恥じた。彼らの関係の冷たさは、自分にも責任があったのだ。
「済まない」彼は正直に言った。「お前のことをもっと知りたい。蜀の地でどんな暮らしをしていたのか、どんな夢を持っていたのか…」
玉環の目に、一瞬驚きの色が浮かんだ。彼女は美しい瞳で寿王をじっと見つめ、そこには何かを測るような慎重さがあった。
「よろしいのですか?」彼女は慎重に言った。「私の話など、退屈でしょうに」
「退屈なはずがない。お前は僕の妻だ」
寿王のその言葉に、玉環の表情が少し和らいだ。彼女は窓際の座布団に座り、寿王もその横に腰を下ろした。
その夜、彼らは初めて真の意味での会話を交わした。玉環は蜀の山々に囲まれた小さな村で生まれたこと、幼い頃から音楽の才能を認められていたこと、そして高力士の目に留まるまでの経緯を語った。彼女の言葉には故郷への郷愁が滲み出ていた。
「高力士様が私を連れて来られた時、最初はあなた様にお目にかかると言われました。しかし実際に会ったのは…」彼女は言葉を切った。
「母上だったんだな」寿王が言葉を継いだ。
玉環は静かに頷いた。「はい。驚きました。御母上は本当に美しく、気品に満ちていらっしゃいました。私が長安に来てすぐに、あなた様との縁談が決まったのです」
寿王は蒼天から聞いた話を思い出した。母は自分の地位を守るために玉環を利用したのだ。しかし、玉環自身はそれに気づいていないようだった。
「母上に何か言われたか?」寿王は慎重に尋ねた。
玉環は僅かに躊躇った後、率直に答えた。「ただ、『寿王の良き妻となりなさい』と。そして『皇帝陛下には決して近づかないように』と」
その言葉を聞いて、寿王の胸に怒りが込み上げた。玉環は母の策略の駒にされていたのだ。彼女自身は何も知らず、ただ言われるまま動いていただけだった。
「玉環、今から話すことは誰にも言ってはならない」寿王は彼女の手を取った。「母上は……」
そして寿王は、蒼天から聞いた真実を玉環に打ち明けた。母が玉環を自分の嫁にしたのは、父・玄宗皇帝の目から彼女を遠ざけるためだということを。玉環の顔は徐々に青ざめていったが、彼女は最後まで黙って聞いていた。
「つまり私は……駒だったのですね」玉環の声は震えていた。「あなた様も、私も」
「そうだ」寿王は彼女の手をしっかりと握った。「しかし、これからは違う。僕たちは自分たちの意志で生きよう」
玉環の目に涙が浮かんだ。それは長い間押し殺してきた感情の表れだった。寿王は初めて、彼女が強いられてきた重荷の大きさを理解した。
「ありがとうございます、寿王様」玉環は涙をぬぐいながら言った。「真実を教えてくださって」
彼らは夜更けまで語り合った。互いの胸の内を明かし、これからの日々について話し合った。寿王は玉環を心から大切にすることを誓い、玉環もまた寿王の良き伴侶となることを約束した。
翌朝、寿王が目を覚ますと、玉環は既に起き上がり、彼のために朝食を準備していた。彼女の表情には、昨夜とは違う明るさがあった。
「おはよう」寿王は微笑んだ。
「おはようございます、夫君」玉環は初めて公式な敬称ではなく、親しみを込めた呼び方をした。
その日から二人の関係は少しずつ変わっていった。深い愛情という訳ではなかったが、互いを思いやる気持ちと信頼が芽生え始めた。玉環は寿王に琵琶を教え、寿王は玉環に詩を読んで聞かせた。
数日後、蒼天が寿王の書斎を訪れたとき、彼女は寿王の顔の変化に気づいた。
「随分と晴れやかな顔ね」蒼天は茶を注ぎながら言った。「玉環様と上手くいっているの?」
「ああ」寿王は頷いた。「彼女と話し合った。すべてを打ち明けたんだ」
蒼天の目が丸くなった。「全部? あなたのお母様のことも?」
「すべてだ。もう隠し事はしない」
蒼天は一瞬考え込むような表情を見せた後、微笑んだ。「それはよかった。実は私、玉環様が心配だったの。彼女、いつも笑顔の奥に寂しさを隠していたから」
「気づいていたのか」
「女同士だから、分かるのよ」蒼天はそう言って肩をすくめた。「でも今度は本当の家族になれるといいね」
寿王は黙って頷いた。蒼天の言葉は、自分の決断が正しかったことを確信させてくれた。
それからひと月が過ぎ、寿王と玉環、そして時には蒼天も加わった三人の時間が増えていった。玉環は蒼天の率直さに初めは戸惑ったが、次第に彼女の誠実さに心を開くようになった。
ある晩、三人で庭の月見台に集まり、酒を酌み交わしていた時だった。玉環が突然、寿王に問いかけた。
「寿王様、もし私があなた様の元に来なかったら、蒼天を妻にしていたでしょうね」
その言葉に、寿王と蒼天は顔を見合わせた。二人の間には草原での出会い以来、特別な感情が流れていたことを、玉環は女性の勘で感じ取っていたのだ。
「それは…」寿王は言葉に詰まった。
蒼天が軽く咳払いをした。「それは無理よ。私たち、同じ李の姓だから」
「ああ、そうでしたね」玉環は納得したように頷いた。「では私がここにいることは、運命だったのかもしれませんね」
三人は静かに笑い合った。月の光が彼らを優しく照らし、風が竹林を揺らす音が心地よく響いていた。寿王は酒杯を掲げ、二人に向かって言った。
「これからもよろしく頼むよ」
玉環と蒼天も杯を掲げ、三人の杯が月明かりの下で静かに触れ合った。寿王は初めて心から満たされた気持ちを味わっていた。