秋風が長安の宮城を吹き抜けていた。梧桐の木々は黄色く色づき始め、その葉が風に舞い、庭園の石畳を覆っていた。寿王は書斎の窓から落ち葉の舞いを眺めながら、玉環との新しい生活に満足していた。あの晩、互いの心を打ち明けて以来、二人の間には真の絆が生まれていた。
寿王には異腹の兄弟がたくさんいるが、同腹の弟と妹もいる。寿王は長子であった。弟の李琦は寿王より二つ歳下で、まだ若いながらも聡明な青年だった。そして最も幼い妹の李瑶は十二歳で、母のそばで常に寵愛を受けていた。
柔らかな陽光が差し込む午後のことだった。寿王は玉環と共に、庭園の小さな橋の上に立ち、水面に映る雲を眺めていた。二人は穏やかな時間を過ごしていた。その静寂が突然破られたのは、急ぎ足の音が廊下に響いた時だった。
「兄上!兄上はどこだ!」
焦りと恐怖に満ちた声が、屋敷中に響き渡った。寿王は眉をひそめ、玉環と顔を見合わせた。それは弟・李琦の声だった。普段は落ち着いた彼がこれほど取り乱すことは珍しい。
「ここだ、琦」寿王は庭から応えた。
李琦は血相を変えて走って来た。彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいる。衣服は旅装のままで、長い道のりを馬で駆けてきたことが見て取れた。彼は息を切らせ、言葉にならない声を上げた後、ようやく口を開いた。
「兄上…母上が…母上が亡くなられました…」
李琦の声は震え、目からは涙があふれていた。
母が死んだ。突然の事だった。
寿王は一瞬、言葉を失った。あまりに突然の知らせに、その意味がすぐには理解できなかった。玉環が彼の腕に手を置き、無言で支えた。
「いつ?どうして?」寿王はようやく問うことができた。
「三日前です。宮中での宴の後、急に具合が悪くなられて…」李琦は言葉を詰まらせた。「医者は心臓が弱まったと言っていました。でも…」
彼は言葉を切り、周囲を警戒するように視線を巡らせた。
「でも何だ?」寿王は弟の不安げな様子に、眉間に深い皺を寄せた。
「噂では…毒ではないかと」李琦は声を落とした。「特に証拠はありませんが、母上に敵が多かったことは…」
寿王は右手を上げて弟の言葉を止めた。屋敷の中には様々な耳が潜んでいる。「中へ入ろう」
三人は寿王の書斎へと移動した。玉環は自ら茶を淹れ、疲れ切った李琦に差し出した。李琦は感謝の眼差しを向け、震える手で茶碗を受け取った。
寿王は窓を閉め、侍女たちを下がらせた。彼は深い溜息をついた後、母の死について詳しく聞いた。宮中での最期の様子、父・玄宗皇帝の反応、そして葬儀の準備について。
聞けば聞くほど、寿王の胸には複雑な感情が渦巻いた。悲しみはもちろんあった。しかし、それ以上に感じたのは解放感だった。寿王は悲しんだが、それ以上にほっとしていた。野心家の母に利用される事はもうないのだ。そのことに気づき、寿王は自分自身に嫌悪感を抱いた。
「母上の遺体は明日、宮中から郊外の皇族霊園へと移されます」李琦は説明した。「葬儀は三日後です。兄上にも早く来ていただきたいと、父上がおっしゃっています」
寿王はゆっくりと頷いた。「明日、出立する。君も今日は休むがいい」
李琦が去った後、玉環は静かに寿王の側に座った。「ご心痛、お察しします」
彼女の言葉に、寿王は苦笑した。「正直に言えば、心痛というより…解放感の方が大きい」
玉環は驚いた様子を見せなかった。彼女は寿王の手を取り、優しく握った。「それも自然なことです。あなたにとって、母上は愛すべき存在であると同時に、恐れるべき存在でもあった」
寿王は彼女の理解に感謝した。玉環は続けた。「しかし、亡くなられた方には敬意を。明日から数日間は、喪に服すことになりますね」
翌朝、寿王は玉環と共に宮中へと向かった。かつては日常だった宮城の門をくぐるのは、久しぶりのことだった。そこで寿王は驚くべき光景に出会った。
母が生きていた頃、寿王の周りには常に多くの取り巻きがいた。皇太子の座を狙う母に取り入り、寿王を通じて己の出世を図ろうとする者たちだ。しかし今、周りにくっついていた太鼓持ちの連中も、潮が引くように見事にいなくなっていた。道路はこんなに広かったのかと、寿王は驚きながら歩いた。それだけ人に囲まれて生活していたのだ。
「まるで違う世界ですね」玉環は小声で言った。彼女の目には同情の色が浮かんでいた。
皇族の葬儀は厳かに、そして盛大に執り行われた。玄宗皇帝は悲しみに暮れているように見えたが、寿王の目には、その悲しみの下に隠された安堵の色が見て取れた。母の力の及ばぬところまで逃げ出していた玄宗だが、今やその必要はなくなったのだ。
葬儀の間、寿王は冷静に振る舞った。涙を見せることはなかったが、それは宮廷の作法として自然なことだった。彼は玉環を側に侍らせ、弟と妹を慰めた。特に妹の李瑶は泣き崩れ、寿王の胸に顔を埋めて嗚咽を続けた。
数日に及ぶ葬儀の儀式が終わり、寿王と玉環は自分たちの屋敷に戻った。二人は母の思い出を語り合った。玉環とはようやく打ち解けていて、葬儀をまとめながら母の思い出を語ったりした。良い思い出も、苦い思い出も、すべてを包み隠さず話した。
「せめて孫の顔を見せてやりたかった」あるとき寿王がぽつりと言った。
その言葉に玉環の顔がほんのり赤く染まった。彼女は優しく寿王の手を握り、柔らかな声で言った。「いつか元気な子を産んで、お墓参りに行きましょう」
その言葉に寿王は心から感謝した。玉環との関係は、かつてのように冷たいものではなくなっていた。二人の間には深い信頼が芽生えていた。
葬儀から戻った後、朝廷では様々な動きがあった。寿王の母は皇太子の座を寿王に確保しようと画策していたが、彼女の死によってその可能性は遠のいた。問題だった皇太子も寿王より年長の皇子に決まり、華やかさはなくなったが、寿王は新しい静かな生活に満足していた。
宮廷の政治からは遠ざかり、文学や音楽に親しむ日々が続いた。玉環は琵琶の名手として寿王に演奏を聴かせ、寿王は詩作に励んだ。時には蒼天を呼び、三人で語り合う夜もあった。その平和な日々は、寿王にとって人生で最も幸せな時間だった。
数カ月が、何事もなく過ぎた。涼しかった秋が過ぎ、冬の厳しさも和らぎ、再び春の訪れを感じる季節となった。梅の花が咲き始め、庭には新しい命の息吹が漂っていた。
そんなある朝、寿王の屋敷に高力士が訪れた。高力士が来た時も、寿王は遅い弔問だとばかり思っていた。母の死から半年が過ぎており、今更の弔問は奇妙だったが、高力士のことだ。何か別の目的があるのだろうと思った。
高力士は変わらぬ姿勢の良さで、しかしどこか緊張した様子で寿王の前に座った。冒頭の挨拶も早々に、彼は本題に入った。
「寿王様、実は今日は陛下のご意向をお伝えに参りました」
寿王は静かに茶を啜り、何も言わずに高力士の話を待った。
「陛下は、楊玉環様を後宮に迎え入れたいとおっしゃっています」
その言葉に、寿王の手が震えた。茶碗から熱い茶が溢れ、彼の手を濡らしたが、その痛みさえ感じないほどの衝撃だった。
「そんな事を、本気で言っているのか、高力士殿」寿王の声は低く、抑制が効いていたが、その中に秘められた怒りは明らかだった。
高力士は一瞬、目を伏せたが、すぐに毅然とした態度を取り戻した。「陛下は本気であるからこそ、私を遣わされた」
寿王は立ち上がり、窓際へと歩いた。外では庭師が梅の木の下で枯れ枝を切り取っていた。平和な光景とは対照的に、彼の心は嵐のように荒れ狂っていた。
「玉環を、父の後宮に入れろとはどういう事だ」寿王は振り返り、声を荒げた。「僕の妻として連れてきたのは、あんたじゃないか」
高力士の表情が僅かに緩んだ。彼は何かを思い出したように目を細め、言った。「陛下は、あなたの御母上を亡くして食事も政務も手に付かぬ。そばにいてくれる女性が、どうしても必要なのだ」
その言葉に含まれた意味を理解し、寿王は冷笑した。父は母の代わりを求めている。そして玉環が母に似ていることを知っているのだ。彼の妻を奪い取ろうとしている。
高力士は深々と頭を下げた。そしてそれ以上何も言おうとしない。その沈黙が、事態の深刻さを物語っていた。
「断る。帰ってくれ」寿王は追い払うように手を払った。
だが高力士は微動だにしなかった。彼はまるで石像のように動かず、その細い目には冷たい光が宿っていた。寿王は不吉な予感を覚えた。
寿王は強引に高力士を押そうとしたが、体をかわされて倒れ込んだ。宦官の身でありながら、高力士は驚くべき身のこなしを見せた。寿王は起き上がり、煮えた鍋が吹きこぼれるように怒った。
「皇帝ともあろう者が、色惚けも甚だしいぞ」寿王は憤怒に震える声で言った。「三千の美女より息子の嫁か」
高力士は、それでも淡々として言った。彼の声には感情が一切なく、まるで仏像が語りかけるかのようだった。「何を言われても、不敬とは取らぬ。ただ承知してくれればよい」
寿王は自分の怒りが無力であることを悟った。しかし、それでも簡単に諦めるわけにはいかなかった。彼は強く、はっきりとした声で言った。「しない。死んでもせんぞ」
高力士はしばらく黙って寿王を見つめていた。その目には何かの計算が働いているようだった。やがて彼は小さく頷くと、「――では、そうお伝えいたす」と言った。
高力士が、少し笑ったように見えた。その笑みは勝利を確信したような、不気味なものだった。そして寿王に背を向けると、ゆっくり帰って行った。まるで木彫りの人形が歩くような、不気味な動きだった。
高力士が去った後、寿王はしばらく立ち尽くしていた。心の中では様々な感情が渦巻いていた。怒り、恐れ、そして何よりも無力感。玉環を守りたい一心だったが、一皇子の力では皇帝に抗うことはできない。
日が傾き始めた頃、寿王は蒼天を呼び寄せた。彼女だけが今の状況を冷静に判断できる人物だと思ったからだ。彼女が部屋に入ると、寿王は高力士との一部始終を話した。
「本当にそう言ったの?」蒼天は驚いた目で寿王を見つめた。
「本当だ。玉環を父が」
「そうじゃない、あなたよ」蒼天は言葉を遮った。「死んでも嫌だって言った?」
寿王は不思議そうな顔をした。「言った。考えてみますなどと言えるか」
蒼天の表情が一瞬で変わった。彼女の目に恐怖の色が浮かび、急いで寿王の側に寄った。「殺されるわよ」
「まさか」寿王は苦笑して見せたが、心の奥底では同じ恐れを感じていた。
蒼天は真剣な眼差しで言った。「恥を承知で、息子の嫁を奪いに来たのよ。それくらいの覚悟はしてる」
寿王は黙り込んだ。蒼天の言葉は真実味を帯びていた。普通の親子の関係ではない。一天万乗の皇帝と、いくらでもいる皇子の一人である。――例えば「皇太子になれなかったのを恨んで皇帝暗殺を計画した」とでも疑いをかけてしまえば、寿王など容易に葬る事ができるだろう。歴代の皇族で、こんな形で粛清が行われた例はいくらでもあった。
寿王はそこまで考えたが、頑なな目で言った。「いや、そんな横暴は許せない。僕は死ぬ事なんか怖くない」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、鋭い音が部屋に響いた。いきなり蒼天が寿王の頬を平手打ちしたのだ。甲高い音が部屋に響き、寿王は驚きのあまり言葉を失った。
「犬死にだわ」蒼天の目には涙が光っていた。「あなたが死んだら、陛下は喜ぶだけよ」
その言葉に、寿王は我に返った。確かに彼女の言う通りだ。自分が死んでも、玉環を守ることにはならない。むしろ逆効果だろう。
「じゃあどうすりゃあいい」寿王は己の頬をさすりながら聞いた。
蒼天は、ため息をひとつ吐いた。彼女の表情は落ち着きを取り戻し、冷静に状況を分析しているようだった。「玉環様に、きちんと話をして。彼女の意見も聞きましょう」
「それは…」寿王は躊躇した。「……心配をかけたくない」
「寿王」蒼天は優しくも強い声で言った。「彼女はあなたより年上なのよ。自分で考えて行動するわ」
寿王はすぐには納得しなかった。自分一人で問題を背負い込みたかった。しかし、蒼天の確固たる視線に、彼は次第に心を動かされた。彼女の言う通り、玉環には真実を知る権利がある。そして二人で共に立ち向かうべきなのだ。
やがて力無く頷くと、寿王は侍女に玉環を呼ぶよう命じた。蒼天もそのまま残った。三人で真実と向き合う時が来たのだ。
玉環が部屋に入ってくると、寿王は彼女を優しく座らせ、高力士とのやりとりを話し始めた。玉環は、始めは寿王が似合わぬ冗談を言っているのかと思って、合わせ笑いをしていた。彼女の美しい顔には困惑の色が広がっていた。
が、寿王の顔色が尋常ではない事と、そばにいる蒼天の深刻な目に気づき、事実だと覚った。玉環の顔から血の気が引いていった。
「どうしてそんな事に…」彼女の声は震えていた。「……陛下は何を考えておいでなのかしら」
「お前を欲しがっている、それだけだ」寿王は痛々しい笑みを浮かべた。「人の世の頂点にいる奴は、もう人間とは感覚が違うんだ」
寿王は、父親を未知の生物のように言った。彼の言葉には、怒りよりも哀しみの方が強く滲んでいた。
玉環は床に座りこんだ。その華奢な体は震え、顔からは血の気が完全に失われていた。頭の中で、何一つ合理的な繋がりが起こらない。それでも考えようとすると、身体に力が入らなくなってしまい、床にへたり込んだ。
蒼天がすぐに駆け寄り、玉環の肩を支えた。彼女は慰めの言葉を囁きながら、玉環を介抱していた。「大丈夫ですよ、玉環様。私たちが守ります」
寿王はそれを任せながら、いろいろな事を想定した。主に逃げる事を。父も、逃がさぬように用意を整えているだろう。弟を頼ろうか。しかし、身内は真っ先に手を回されているかもしれない。
そうだ。蒼天なら、使用人だけが使う裏道を知っている。変装させて、玉環だけでも逃がす事はできないだろうか。二人なら、どこか遠くへ行くことができるかもしれない。寿王は心の中で様々な可能性を検討した。
そう思って振り向いた寿王の前に、蒼天が立っていた。彼女の眼差しには何か決意したような光があった。寿王が口を開こうとした途端、彼女の後ろから、玉環の声が聞こえた。
「決めました」彼女の声は驚くほど冷静だった。「陛下の下へ行きます。私たちが生きるためには、これが一番確実です」
玉環は、これまでにないくらい落ち着いた顔をしていた。彼女の中で何かが変わったようだった。それまでの柔和な表情は消え、代わりに強い決意に満ちた目が、寿王を見つめていた。
寿王は、蒼天を押し退けて玉環に駆け寄った。「何を言う。逃げるんだ。女官に紛れればいい」
彼の提案に、蒼天と玉環は互いに視線を交わした。そして蒼天が冷静に言う。「寿王様、女官は皆顔が割れています。それにお屋敷も、さっきから監視されているみたいです」
玉環も、ゆっくり簪を直しながら言った。彼女の手つきは落ち着いており、もはや恐怖の色は見えなかった。「周到な準備をした上で、あなたに話しに来たんでしょうね。是非を伺うつもりではなく、一応筋を通しただけのような気がします」
その言葉に、寿王は愕然とした。そこまで計算されていたのか。「……まさか、それほどまでとは。僕が甘かった」
気が付かなかった自分を責めようとする寿王の手を、玉環はそっと握った。彼女の手は冷たかったが、その握り方には強い意志が感じられた。
「あなたの落ち度ではありません」玉環は優しく言った。「あなたは命を賭けて私を守ろうとしてくださった。そこまでできる方とは、正直思っていませんでした。今度は私の番です」
彼女の言葉には、もはや迷いはなかった。玉環は静かに続けた。「――李蒼天がさっき言いました。急がないと、勅使が来てしまうと」
「勅使――?」寿王の言葉が終わらないうちに、いきなり扉を叩く音がした。
続いて勢いよく扉が開かれ、ものものしい出で立ちの文官が力強く踏み込んで来た。彼の表情は厳しく、目には容赦のない光があった。文官は、手にした黄色い巻物を広げて声を上げた。
「勅令! 寿王李瑁に、陛下暗殺の意ありとの通告あり。今日より謹慎し、追って沙汰を――」
来てしまった。聞き終えてしまったら、勅令が命を持つ。黙らせねば。寿王は咄嗟に飛び出して、拳を振り上げた。しかし、彼より一瞬早く、蒼天が勅使を張り倒した。
蒼天の動きは驚くほど素早く、しなやかだった。彼女の一撃は正確に勅使の顎をとらえ、勅使は回転しながら吹っ飛んだ。巻物が空中に舞い、静かに床に落ちた。
それを見た玉環が、進み出て蒼天を後ろに庇いながら言った。彼女の姿勢は堂々としており、まるで別人のようだった。「勅令は聞いていません。私はこれから、自らの意志で陛下の下へ行くところでした。案内なさい」
床に倒れた勅使は、狼狽えながら立ち上がろうとした。「いえ、あの……寿王殿下に勅」
「早くなさい!」玉環の声は鋭く、命令するようだった。「蹴り飛ばされたいの?」
その迫力に、慌てた勅使は立ち上がろうとして燭台にしがみつき、倒してしまった。火は勅書に落ち、黄色い絹布は一瞬にして炎に包まれた。勅使は悲鳴を上げた。「勅書が!勅書が!」
勅書の損失は重罪である。勅使の顔には恐怖の色が広がった。
蒼天が落ち着いた動作で火を踏み消し、言った。彼女の声は穏やかだが、含みのある響きを持っていた。「勅書は読み上げる前に、奪われて燃やされた。そう言う事にしましょう。殿下は何もお聞きでない」
その言葉に勅使は冠が外れるほど激しく頷いた。彼の顔は蒼白で、脅えて声も出ない様子だった。
一瞬の間があり、寿王は自分の状況を理解した。勅使の出現により、父・玄宗皇帝の本気が伝わってきた。彼は玉環を奪うためならば、我が子の命さえ奪うつもりなのだ。寿王は玉環に向き直り、最後の問いかけをした。
「玉環、本当に行くのか?」
玉環は、そう聞いた寿王に歩み寄った。彼女の目には、もはや恐れの色はなく、ただ静かな決意だけがあった。「陛下はもうあなたを消す決心をしている。私はこの身を賭して、できる限りの事をやってみます」
寿王は遮ろうと出した手を止めて、胸に渦巻いていた熱い息を吐いた。彼は玉環の決意を尊重すべきだと理解した。彼女を信じることが、今唯一できることなのだ。
「そうか。……済まない、後は任せる」
寿王の声は静かだったが、その中に込められた感情は強く深かった。
玉環は暖かい微笑みで夫に答えた。その笑顔には寿王への愛情と、これから自分が歩む道への覚悟が混じっていた。彼女は髪を整え、衣装を正した。勅使は恐る恐る立ち上がり、衣服を正し、玉環を部屋の外へと促した。
その時、部屋には重い沈黙が流れた。三人とも、これが最後の別れになるかもしれないことを理解していた。しかし、誰も別れの言葉は言わなかった。それは、また会えるという希望を秘かに抱いていたからかもしれない。
ただ最後に、寿王が一言だけ言った。彼の声は感情に震えていた。
「僕たちは、いい夫婦だったね」
その言葉に、玉環の背中が一瞬固まった。彼女は振り返りかけたが、ぐっと我慢して、振り向かず、足早に部屋を出た。玉環の肩が小刻みに震えているのが見えた。涙が溢れて来たのだろうと、寿王には分かっていた。
玉環が去った後、部屋には耐え難い静寂が広がった。蒼天が少しだけ、声を漏らして泣いているのが聞こえた。彼女は普段、感情を表に出しはしなかったが、今は堪えきれないほどの悲しみに包まれていた。
「蒼天…」寿王は彼女に近づこうとしたが、足が思うように動かなかった。彼もまた、深い喪失感に捕らわれていた。
「寿王様…」蒼天は涙で濡れた顔を上げた。「もう少し、何か方法があれば…」
寿王は窓際に歩み寄り、空を見上げた。雲一つない青空が広がっていた。皮肉にも、世界は平穏そのものだった。
「玉環は賢い女だ。彼女なら、何とかしてくれるだろう」
その言葉に、蒼天も頷いた。彼女は涙を拭い、寿王の側に立った。
「きっと、また会えますよ」
二人は窓から、玉環を乗せた輿が宮城へと向かう様子を見送った。小さな輿は徐々に遠ざかり、やがて都の雑踏に紛れて見えなくなった。
「父上が、本当に僕を殺そうとしていたとは…」
寿王は呟いた。その瞳には、深い悲しみが浮かんでいた。
「帝王の心は、私たちには計り知れないもの」蒼天は静かに言った。「でも、玉環様のおかげで、あなたは生き延びました」
寿王は黙って頷いた。確かに玉環は自分の命を救ってくれた。彼女の機転と勇気が、寿王の命を救ったのだ。
「明日から、宮中での様子を探ってみます」蒼天が言った。「玉環様の身の上を、何とか確かめてみましょう」
その夜、寿王は一人で月を眺めながら、玉環への思いを胸に秘めた。彼女が父の後宮に入ったことで、寿王は生き延びることができた。しかし、その代償は大きかった。心の中で玉環の安全を祈りながら、寿王は静かに涙を流した。
翌日から、宮中からは様々な噂が流れてきた。玉環は「楊太真」と名を改め、玄宗皇帝の寵愛を一身に受けているという。彼女の美しさと才能は皇帝の心を完全に虜にし、玄宗は政務さえも疎かにして彼女と共に過ごしているとも言われた。
蒼天が宮中からもたらす情報は、玉環が無事であることを伝えていた。彼女は父・玄宗皇帝の側近として、高い地位を得ているようだった。しかし、玉環自身からの連絡は一切なかった。
「彼女は強い人です」ある日、蒼天は寿王に言った。「あなたが生きていることを喜んでいるでしょう」
寿王はただ黙って頷いた。玉環のおかげで、彼は生き続けることができた。しかし、彼女を失った痛みは、日に日に深まるばかりだった。
数週間後、宮中からの勅令が届いた。寿王はもはや謹慎の身ではなく、自由に行動して良いという内容だった。玉環の取引が成立したのだ。
その日の夕方、寿王は蒼天と共に、庭の小さな池のほとりに座っていた。夕日が水面を赤く染め、風が柳の枝を揺らしていた。
「ありがとう、蒼天」寿王は静かに言った。「お前がいなければ、僕も玉環も無事ではなかった」
蒼天は微笑み、寿王の肩に軽く手を置いた。
「私は何もしていません。玉環様の勇気が、すべてを救ったのです」
二人は静かに夕日を眺めながら、新しい日々の始まりを感じていた。玉環は失われたが、寿王の心に彼女の温もりは永遠に残り続けるだろう。
「これからどうなさるの?」蒼天が聞いた。
寿王は深く息を吐き、空を見上げた。「生きていくさ。玉環のためにも」
蒼天は頷いた。
「私もそばにいます。いつでも」
その言葉に、寿王は初めて心から笑顔を見せた。明日から始まる新しい日々は、決して容易ではないだろう。しかし、蒼天の存在が、彼に生きる勇気を与えてくれた。
夕闇が二人を包み込む中、寿王は静かに誓った。どんなに時が過ぎても、玉環を忘れないこと。そして、彼女の犠牲を無駄にしないよう、強く生きていくことを。