玉環をめぐる話は、かなり脚色されて世間に流された。後の世に人々が語り継ぐ物語とは、往々にして事実よりも人々の心を捉える美しさを備えているものだ。真実は時に複雑で、簡単に言葉にできるものではない。
寿王妃であった彼女は、遙か以前に亡くなった皇太后の供養をしたいと願い出て夫の元を去り、出家して女道士として祈りを続けた。その姿は神々しく、清らかな精神性を感じさせるものだったという。そんな噂が宮中に届き、殊勝であると思った玄宗皇帝が彼女を召し、そばに置くようになった。皇帝の耳に届く話は必ずしも偶然ではなく、周到に仕組まれたものであることが多い。――皇帝ともあろう者が、自分の息子の嫁を奪ったという悪評を、できるだけ漂白するための茶番である。政治の舞台では、真実よりも外聞が重んじられる。民が敬う君主の行いは、どこまでも清廉潔白でなければならないのだ。
上の説により、寿王は命を失わずに済んだ。風雨を凌いだ後の穏やかな日差しのように、安堵の日々が訪れた。弟の李琦が話を信じて励ましに来たりしたので、寿王は苦笑したものである。自分の身に起こった出来事を誰よりも知っている者として、世間に流布する話の作り物じみた部分を見抜かないはずがない。しかし、それを否定してしまっては、自分の命が危うくなる。皮肉な状況に、寿王は沈黙を守るしかなかった。
蒼天は玉環の引っ越し要員に駆り出され、しばらく寿王は一人きりだった。広大な宮殿の中で、孤独との対話を強いられる日々。窓から見える景色は変わらずとも、世界の様相は一変していた。年月を越え、ようやく戻ってきた蒼天は、あれからの事情を説明してくれた。その顔には疲労の色が見え、しかし安堵の表情もあった。
「玉環様は、陛下のお妃になる事を条件に、今後あなたには手出ししないよう約束させたわ。陛下も後ろめたいところがおありだから、承知なさったみたい」
蒼天の言葉には、多くの省略された物語が込められていた。どれほどの交渉があり、どれほどの涙が流されたことか。寿王にはそれを想像する力があった。
寿王は何も言わず、ただ頷いた。言葉では表現しきれない複雑な心境。謀反の疑いが消え、白々しい美談が広められたのは、父なりの謝罪のつもりなのかもしれない。肉親の情に訴えかけるような、そんな想いが垣間見える。玉環の尽力は嬉しかったが、かと言って命が助かって良かったと脳天気に喜べるわけもなかった。失ったものの大きさを思えば、生きていることさえ皮肉に感じられた。
「あの時、玉環様を介抱しながら言ったの。『切り札は、あなたが持っています。私も寿王様も、あなたに命を預けます』」
蒼天の言葉が、記憶の扉を開く。あの日の混乱と恐怖、そして決断の瞬間が蘇る。
「ああ。確かにそうだった」
寿王は、もう遠い昔を思い出すように言った。たった数ヶ月前のことなのに、別の人生のように感じられる。変わり果てた現実の中で、過去の記憶は夢のようにぼやけていく。
「ちゃんと聞いて、寿王。玉環様は、最後にあなたと心が通じて、本当に嬉しかったと言っていた。それだけはどうしても伝えて欲しいと」
蒼天の声には、使命を果たす者の誠実さが宿っていた。玉環の言葉を、一言も漏らさず伝えようとする強い意志。
「そうか」
寿王は玉環の姿を思い描いた。あの艶やかな微笑み、凛とした眼差し、そして最後に見せた涙ぐんだ表情。もっと早くに心が通じていれば、どうなっただろうか。そんな事をふと思った。運命の糸は、たった一つの結び目から、全く異なる模様を描くこともある。しかし今となっては、その可能性は永遠に閉ざされていた。
「……もう、手紙も渡せないのかな」
寿王の声には、諦めと希望が入り混じっていた。最後のつながりを求める気持ち。
「許されないでしょうね」
蒼天の返答は現実的で、しかし優しさに満ちていた。真実を包み隠さず伝えることが、時に最大の思いやりとなる。
「分かった。あきらめよう。……そうだ、お前にも礼を言っておきたい。よく僕を止め、玉環を動かしてくれた」
寿王の言葉には、心からの感謝が込められていた。危機の瞬間に、正しい判断を下した蒼天の勇気を称える気持ち。
「あなたが勅使を殴れば、相手の思う壷だもの。咄嗟に身体が動いたわ。でも、私が殴ったらあいつが動転したでしょ。そこを玉環様が締めた」
蒼天は少し照れくさそうに言った。自分の役割を小さく見せようとする謙虚さ。
「そんじょそこらの団結では、できない事だったな」
寿王はそう言って笑った。玉環がいなくなってから、やっと出せた笑顔だった。苦しみの後にようやく訪れた、小さな光のような笑顔。蒼天もそれを見て、笑顔を見せた。二人の間に流れる空気が、少しだけ軽くなったように感じられた。
玉環は出家して女道士となった後、楊太真と名を変え、玄宗に嫁いだ。新しい名前、新しい身分、新しい人生。しかし、その魂は同じままなのだろうか。彼女を迎えた玄宗はその美貌の虜になり、それこそ朝から晩まで側に置いた。宮中の人々は、皇帝の熱狂ぶりに驚きと不安を覚えたという。やがて玄宗は彼女に貴妃の位を賜り、こうしてかの有名な楊貴妃が誕生したのである。歴史の中に刻まれる一場面が、こうして始まった。
当人からの連絡は全くなくなったが、楊貴妃の評判は窓を開ければ風が入るように流れて来た。耳を塞ごうとしても、その噂は隙間から忍び込んでくる。寿王の心を苦しめるように。
玄宗は政務を放っぽり出して毎日のように宴を繰り返し、楊貴妃自身もどんどん贅沢になって行った。絹織物、香料、宝石、珍味。あらゆる贅を尽くした生活が、宮中を覆い尽くす。彼女の親類たちは貴族となって都を我が者顔で歩き、奢侈と享楽に耽っている。一族郎党が栄達を極め、その勢力は日に日に増していった。
国そのものが狂乱している。寿王にはそんなふうに見えた。かつての栄華を誇った大唐帝国の威厳が、日に日に失われていく。父が堕落して来たのは見えていたが、楊貴妃となった玉環がそれを助長している事が、寿王の心には痛かった。彼女に対する複雑な感情が、日々の心の重しとなっていた。
またある日、蒼天はある事を伝えるために寿王の部屋を訪れた。久しぶりの来訪に、寿王の心は少し明るくなった。しかし自分が話し出す前に、寿王が話を始めた。心に溜まった思いが、堰を切ったように溢れ出す。
「玉環なら、父を叩き直せるかもしれない。彼女が行った後で、僕はそう期待した。彼女の賢さと気品が、父を正しい方向に導くのではないかと。しかし現実はひどいもんだ。彼女がもたらしたのは、この唐王朝始まって以来の莫大な浪費だよ」
寿王は吐き捨てるように言った。それは事実である。国庫は空になり、民の疲弊は極限に達していた。期待と現実のあまりの落差に、寿王の声は苦々しさを帯びていた。
悲しさがこみ上げて来た蒼天は、懐から一通の手紙を出して寿王に渡した。小さな紙片に、大きな秘密が記されている。
「玉環様が、あなた宛にくれた手紙よ。楊玉環という方の、最後の言葉がそこにあるわ。……見せるのが辛くて、今日まで渡せなかったけれど」
蒼天の声は震えていた。この手紙を渡すことが、何かの終わりを意味するように。
寿王は受け取って目を通した。その中には、皇帝という最高権力者を取り巻く、分厚くて不気味な力の場に飲まれる彼女の意識が綴られていた。権力の中心にいることで、人の心がどのように変容していくか。――過去の記憶が日毎に薄められ、始めから宮中で生活していたような感覚が植え付けられてくる。その新しい自分が、古い自分を徐々に意識の隅に追いやって行く。過去の自分が、夢のように消えていく感覚。ごめんなさいあなた、玉環は死にました。楊貴妃は、私の姿をして、しかし私ではないのです――
寿王は、手紙を破り捨てた。過去への執着を断ち切るような鮮やかな動作。蒼天は心配な目で見たが、しかし彼の表情は落ち着いていた。決意と諦念が入り混じったような表情。
「僕もかつては、皇帝になり得る人間だった。あの場に行けば、僕だって自分を見失ってしまうかもしれない。玉環を責める事は、誰にもできないな」
毅然とした寿王を見て、蒼天は安心して微笑んだ。混乱と痛みを乗り越え、寿王は一歩前に進もうとしていた。これでやっと、今日の本題を口にする事ができる。蒼天は深呼吸して、言葉を紡いだ。
「寿王、私も今日でお別れするわ。……私、結婚する事になったの」
寿王は、その場で停止した。血の気が引き、時間が止まったような感覚。目だけが蒼天を見ていた。驚きと混乱、そして言葉にならない感情が、その瞳に浮かんでいた。そのままずいぶん長い時間が過ぎたように、蒼天は感じた。沈黙の重みが、部屋全体を支配する。
「……そうか。幸せにな」
寿王は優しく微笑んでいた。女ではなく、人を見ている目だ、と蒼天は分かった。相手を尊重し、その未来を祝福する純粋な気持ち。寿王の中に、小さな成長が芽生えていた。
「親が決めた縁談よ。どんな相手か、顔も知らない」
蒼天は少し寂しそうに言った。運命に身を委ねる覚悟と不安が入り混じった声。
「遠くへ、行くのか?」
寿王の問いには、別れの寂しさが滲んでいた。
「洛陽へ。ちょっと東ね」
蒼天は地図を示すように手を動かした。
「そうか。自由な身なら、遊びにも行けるが」
実際のところ、寿王はまだ要注意人物として見られていた。密かな監視の目が、常に彼を追っている。勝手に都を出る事は許されていない。寿王の笑顔が寂しくなったのを見て、蒼天は逆に笑って見せた。最後の別れを、明るい表情で飾ろうとする優しさ。
「……じゃあ、さよなら」
笑っては見せたが、言葉は出なかった。胸に詰まる感情が、声を押し殺す。蒼天は黙って包みを一つ卓に置くと、静かに部屋を出た。振り返らずに、迷いなく歩む後ろ姿。寿王も無言で、彼女を見送っていた。かつての侍女と主の関係を超えた、二人だけの絆を感じさせる静かな別れ。
寿王が扉を閉め、置かれた包みを開けてみると、それは作りたての蜜団子菓子だった。温かさを残す団子から、かすかな甘い香りが立ち上る。寿王はそれを一つ手に取り、口に含んだ。懐かしい味が、記憶の扉を開く。過去も未来も、この一瞬に溶け込んでいった。