それから十年の歳月が流れた。春の訪れと共に花が咲き、夏の暑さが人々を苦しめ、秋の風が葉を散らし、冬の寒さが骨身に染みる。そうした季節の移ろいを、寿王は十度繰り返して見てきた。十年という時の流れは、人の心を変え、国の形をも変えていく。
寿王は平和に、そして退屈に過ごしていた。宮殿の一角に与えられた居所は、決して不便ではなかったが、かといって自由があるわけでもなかった。日々は単調に過ぎていき、時折思い出すように訪れる使者が、世間の出来事を伝えるのみであった。蒼天からは一度手紙が来て、子供が生まれて楽しく暮らしていると知らせてきた。その文面からは幸せな日々が伝わってきて、寿王の心を少しだけ和ませた。
寿王も生活に監視はつかなくなったが、蒼天に会いに行こうとは思わなかった。特に話したい事もない。過去の思い出も、今となっては遠い夢のようなものだった。口を開けば、国の荒れようを愚痴るだけになりそうだった。そんな後ろ向きな言葉で、蒼天の幸せな生活に水を差したくはなかった。
楊貴妃一族の専横は、留まるところを知らなかった。父親の楊玄琰は陰謀によって殺されたが、一族の勢いは衰えることなく、むしろ増していった。楊国忠という男が宰相にまで上り、政治をいいように仕切っている。彼の傲慢さは皇族たちさえも畏怖させ、朝廷での発言権は日に日に強くなっていった。玄宗は楊貴妃と共に遊び耽り、浪費を続けている。華やかな宴の数々、豪奢な宮殿の造営、高価な贈り物の交換。こうした贅沢が国庫を空にしていくことなど、玄宗の頭には浮かびもしなかった。
一方で、民衆は重税に耐えきれず、家や畑を捨てる者が相次いだ。街では痩せこけた子供たちが物乞いをし、田畑は荒れるに任せられていた。飢えと貧困が国土を覆い、人々の怨嗟の声は日に日に大きくなっていった。しかし、その声が宮殿の厚い壁を越えて為政者の耳に届くことはなかった。
「ひと刺しで簡単に破裂しそうな天下になったな。……おそらくは、東北から」
寿王はそう呟いて、馬を軽く走らせた。都の近郊に広がる丘を登り、遠く東北の方角を眺める。そこからは見えないが、かの地には大きな力が蓄えられつつあることを、寿王は肌で感じていた。たまに遠駆けをしては、自分なりに国の行く末を考えるのが習慣になっていた。秋風に吹かれながら、過去の栄光と現在の堕落を比較し、未来への不安を抱く。これからどうなるのか、寿王にはよく分かっていた。いや、寿王だけでなく多くの人々が、東北にある勢力に恐れを抱いていたのである。
程なくして、都の遠く東北、范陽の地で、安禄山という人物が突如挙兵した。彼の掲げる旗印は「朝廷の腐敗を正す」というものだった。十五万の兵で南下し、諸州を瞬く間に陥落させた。正義の名の下に集められた軍勢は、日を追うごとに膨れ上がっていった。安禄山軍は唐軍の防御など物ともせず、鎧袖一触の勢いで唐の風雅な国土を踏み荒らした。かつて詩人たちが詠んだ美しい風景は、戦火によって焦土と化していった。
安禄山に勢力を持たせたのは、結局のところ玄宗と楊貴妃だった。人に取り入るのがうまい安禄山は二人を煽て続け、節度使(地方を守る軍政司令官)の職を三つも兼任した。玄宗は安禄山を「義子」とまで呼び、寵愛を惜しまなかった。安禄山の支配地域はそれだけ広大になり、多くの兵力を手中にした。彼の麾下には胡人(異民族)の精鋭騎兵が揃い、その戦闘力は唐軍を遥かに凌駕していた。
宰相の楊国忠は安禄山と対立し、彼を謀叛に追いやって誅殺する事を目論んでいた。二人は権力を巡って争い、互いに相手の失脚を画策していた。しかし謀叛まではうまく行ったのだが、安禄山の軍は桁違いに強かったのだ。予想を超える勢いで、安禄山軍は首都へと迫っていった。
結果はこの様である。天宝十四載(西暦七五五。載は年の意)十一月。世に言う安史の乱の始まりであった。唐王朝の命運を決する大事件が、ここに幕を開けたのである。
「馬鹿な。父は都を捨てるというのか」
報らせを聞いて、寿王は飛び上がった。安禄山軍の侵攻はすさまじく、ついに都・長安まで迫りつつあった。昨日までは「安禄山などすぐに鎮圧できる」と豪語していた朝廷の高官たちが、今日は荷物をまとめ始めているという。これを恐れた玄宗は、皇族や近臣だけを連れて長安を出、西の蜀へ逃げるという。権力者たちだけが生き延びようとする卑怯な逃亡。それも、民衆には内緒で行くというのだ。
東の洛陽は、すでに安禄山軍の手に陥ちていた。蒼天がどうなったのか気がかりで、寿王はそれを調べるためにも長安に留まるつもりだった。友を守ることも、民を守ることもできない君主に、何の意味があるのか。寿王の心には怒りが燃え上がっていた。
「これでは夜逃げではないか」
そう言って怒る寿王を、従者たちが押しやるようにして部屋から出した。玄宗の命令とあれば、誰も逆らうことはできない。既に脱出の準備がされていて、寿王は無理矢理集合場所に連れて行かれた。彼が逃げたくなくとも、従者は逃げたかったのである。人は自分の命が危うくなれば、どんな大義も忘れてしまうものだ。
夜明け前に、皇帝一行は長安宮城を脱出した。寒気の残る暗闇の中、宮城の裏門から身を忍ばせて出て行く様は、まさに敗走と言うべきものだった。寿王は玄宗に文句を言おうと近づいたが、警護の兵に阻まれてできなかった。そのうち機会を見つけて玄宗を殴ろうと思いながら、寿王は旅に従っていた。内心では激しい怒りが渦巻いていたが、表面上は従順な皇子を演じることにした。
西への道は険しく、一行は疲労の色を濃くしていった。玄宗は楊貴妃を常に側に置き、彼女を気遣う様子が周囲の反感を買っていた。一国の君主が国を捨てて逃げ出し、それでも女色に溺れている姿は、哀れを通り越して憎しみさえ感じさせるものだった。
そんなある日、異変が起きた。
何の用意もなく脱出した一行は、食事も宿も現地で調達しているという状態であった。皇族や貴族の威厳は地に落ち、泥にまみれた旅装束で山道を行く姿は、もはや支配者の面影すら感じさせなかった。しかし、皇族や楊一族は逃げるのに必死だが、護衛の兵士たちから見れば、だんだん腹が立って仕方なくなってきた。余りにも無責任な連中ではないかと。自分たちは命がけで皇族を守っているのに、彼らは特別扱いを要求し、文句ばかり言う。そんな不満が兵士たちの間で鬱積していた。
「楊宰相が、吐蕃人と密談をしている! 奴は陛下を売り渡す気だぞ!」
突然、兵士がそう叫んで走って行くのを寿王は目撃した。何か大変な事になりそうだ。寿王は急いで、兵士の走った方へ向かった。人々の怒声が聞こえ、何かが起きているのが分かる。人垣をかき分けて進んでいくと、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
宰相楊国忠は、兵士たちに滅多刺しにされて死んでいた。その体は剣で何度も突かれ、もはや人の形を留めていなかった。寿王は夥しい血を見て、さすがに目を逸らした。実際には、楊国忠は吐蕃(チベット)から来た使節団と話していただけだったのだが、その誤解を解く間もなく彼は殺された。楊国忠はそれほどまで周囲に憎まれていたのである。彼のもたらした政治の混乱と、楊一族の専横への恨みが、一気に爆発したのだ。
誰かの声がした。
「仕方のうございます。安禄山の反乱は、楊宰相が奴を追い込んだ事と、陛下のご怠慢が産んだもの。楊宰相も、自業自得という他ありませぬ。今はとにかく、怒れる兵を宥めて蜀へ逃げるしかございません」
高力士の声だった。玄宗の側近として長年仕えてきた宦官の声には、諦めと疲労が混じっていた。寿王が奥を見ると、玄宗が隠れるようにして立っていた。その姿は、かつての威厳ある皇帝の面影はなく、ただの老人のように見えた。寿王の身体は、一瞬にして熱くたぎった。十年来の怒りが、胸の内で火山のように噴出しようとしていた。
お前たちが全て悪い。
そう叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。その代わりに拳を振り上げ、まず高力士を殴り飛ばした。痩せた宦官は、棒が倒れるような音を立てて転がった。高力士は皇帝を守ろうとして前に出たが、寿王の怒りの一撃を受け止めることはできなかった。
玄宗の側に、もう一人寄り添う影があった。良く知っていたが、もう知らない顔だった。十年の時が流れ、かつての美しい玉環の面影はどこにもなかった。贅沢な暮らしのせいか、彼女の体は丸みを帯び、顔には脂肪がついていた。しかし、それでも彼女の目には、かつての輝きの名残が感じられた。その女が悲鳴を上げて言った。
「寿王どの、玉環をお忘れか。かつての夫婦の誼、どうか乱暴はおやめください」
その声には懇願の色が強かった。かつての夫であった男に対する、最後の頼みの綱としての呼びかけ。寿王は一瞬ためらったが、すぐに鋭い目に戻った。過去の感情など、現実の前では無力だ。
「玉環の名を騙るな。あれはもっと雄々しい女だった」
そう言って寿王は容赦なく、楊貴妃を平手打った。その音は周囲に響き渡り, 時が止まったかのような静寂が訪れた。肥った女体が地面に崩れる。かつて絶世の美女として称えられた楊貴妃が、今や泥にまみれて転がっている。それを見た玄宗皇帝が、怒りに震えて声を上げた。
「何をするか、李瑁!」
玄宗の声には、父親としての怒りと、君主としての威厳が混じっていた。しかし寿王の目には、それが滑稽に映った。もはや何の権威も持たない老人の虚勢に過ぎないのだから。
「馬鹿を殴る。それだけだ」
寿王は力いっぱい玄宗の頬桁を殴りつけた。長年の恨みと、国を滅ぼした責任への怒りを込めた一撃。玄宗は回転しながらよろけ、木に頭をぶつけて失神した。その姿は哀れでさえあった。かつての偉大な皇帝も、今や一撃で倒れる老人に過ぎない。その時、寿王の背後から声がした。
「陛下に何をする、狼藉者!」
忠誠を失っていない兵士の一人が、暴漢に気付いて飛んできたのだ。混乱の中でも、まだ君主への忠義を捨てられない者がいた。寿王が振り返った時には、兵士の剣が眼前に迫っていた。その刃先には、殺意が宿っていた。
寿王は転倒しながらよけた。しかし兵士は寿王に馬乗りになり、寿王の胸に剣を突き下ろしてくる。寿王は剣の柄をつかみ、必死に押し返した。生死を分ける瞬間、人は思いもよらぬ力を発揮するものだ。何とか剣を振り払ったが、兵士は拳を振り上げて寿王を滅多打ちに殴った。一発がこめかみに当たり、寿王は気が遠くなりかけた。視界が徐々に暗くなり、意識が遠のいていく。これが自分の最期かと思った瞬間、状況は一変した。
次の瞬間、その兵士は何かに打たれて吹っ飛ばされた。寿王は頭を仰け反らせて後ろを見ると、馬に乗った別の兵士が棒を持っているのが見えた。その姿は背後から差し込む陽の光で輪郭が浮かび上がり、まるで伝説の武人のように見えた。
寿王が身体を起こす。先程まで乗っかっていた兵士は、横に倒れていた。額から血を流し、もはや動く気配はなかった。
「寿王、怪我はない?」
棒の兵士が言った。その声は意外なほど柔らかく、どこか懐かしい響きがあった。その声を聞いて、寿王は驚いて聞いた。
「お前、蒼天か?」
兵士は深く被っていた兜を取った。十年の歳月は経ているが、確かに李蒼天の顔がそこにあった。髪は短く切られ、頬には小さな傷跡があったが、その目に宿る強さと優しさは変わっていなかった。時の流れは人の外見を変えても、魂の本質は変えられないものだ。
「寿王、とんでもない事したみたいね。そこに倒れてるのは、陛下じゃないの?」
蒼天の口調は冷静だったが、その目には心配の色が浮かんでいた。自分の主人が国家反逆罪を犯したことへの驚きと、それでも彼を助けようとする決意が、その表情に表れていた。
「蒼天、無事だったのか。どうしてこんな所に? 家族は?」
寿王は質問にも答えず聞いた。今はただ、目の前の友の無事を確かめることだけが重要だった。蒼天は馬を降りなが言った。その動作は以前と変わらず優雅で、まるで男装した貴婦人のようだった。
「洛陽が攻められて、夫も子供も殺されたわ。私は一人で、長安まで逃げてきたのよ。そしたら、宮城が空っぽになってるじゃない。残っていた人から、皇帝一行が西へ逃げたという話を聞いて、兵士の振りをしてあなたを探しに来たのよ」
蒼天の声は淡々としていたが、その奥には言葉にできない悲しみが潜んでいた。最愛の家族を失った痛みは、その静かな瞳の奥に閉じ込められていた。
「そうか。逃げるつもりはなかったが、周りに追い立てられてな」
寿王は自分の事情を簡単に説明した。もはや言い訳をする気力もなかった。
「陛下を殴ったのね。……それに、楊貴妃様まで。大丈夫なの、こんな事をして」
蒼天が、楊貴妃を哀れんだように見ながら聞いた。かつての女主人への同情の念が、その言葉に滲んでいた。寿王は、虚しい笑いを浮かべて言った。
「もう玉環ではない。自分で言っていた事だ。――今日になって、兵士が反乱を始めたんだ。こんな状況に至っては、もう父に付き合うのも御免だ。僕は、ここを出るとするよ」
寿王の声には決意が宿っていた。これまでの人生の束縛から解き放たれ、新たな道を歩む覚悟が感じられた。
「ここって?」
蒼天は怪訝な顔をした。その問いには、多くの意味が込められていた。単に物理的な場所を離れるのか、それとも国そのものから去るのか。寿王は蒼天を待たせ、そこらを彷徨いていた馬を牽いて来ると、軽やかに飛び乗った。
「僕はもう、国には縛られたくない。どこに行くかは分からないが、この馬に任せて唐を出る」
そう言って、同じ高さから蒼天を見つめた。馬上の寿王の姿は凛々しく、まるで生まれ変わったかのようだった。国を捨てることへの罪悪感よりも、新たな自由への期待が彼の表情に浮かんでいた。
自分は今、いい顔になっているようだ。蒼天の表情から、寿王はそう知った。相手の目に映る自分の姿を通して、寿王は初めて自分の変化に気づいたのかもしれない。
風が吹いた。砂と草の匂いが混じった、気持ちのいい風だった。山の向こうから吹いてくる風は、新たな世界への誘いのように感じられた。
「分かったわ」
蒼天が言った。その声には、理解と受容が込められていた。
「だったら私も、この国を出る。でもね」
蒼天は、自分の馬の向きをぐるりと変えた。寿王とは反対向きになった。二人の馬は背中合わせとなり、それぞれ異なる方角を向いていた。それは象徴的な光景だった。
「一緒には行かない。私もあなたも、新しい道を行くべきでしょうね」
蒼天の言葉には、寂しさと同時に、新たな旅立ちへの期待も感じられた。これまでの絆を大切にしながらも、それぞれの道を歩む決意。
「そうしよう。お前がいると、どうも頼ってしまいそうだ」
寿王は素直に認めた。これまでの人生で、常に蒼天の助けがあったことを思い出す。しかし、これからは自分の足で立ち、自分の道を切り開かねばならない。
「元気でね」
簡潔な言葉だが、その中には深い友情が込められていた。
「いっぱい借りを作ったままになったな」
寿王は自分の非を認めるように言った。これまでの恩義を思い返し、感謝の念を込めて。
「いつか私が困った時、返しに来てよ」
蒼天の言葉には、再会への期待が込められていた。いつかまた巡り会える日への希望。
「よし。お前の困った顔を見に行ってやる」
寿王は冗談めかして言ったが、その声には誓いの重みがあった。
同時に頷いた。そして、笑った。十年ぶりの、心からの笑顔。束縛から解き放たれ、新たな旅立ちを前にした二人の表情には、どこか晴れやかなものがあった。
二人が、馬に鞭を入れる。四つの蹄が地面を蹴り、それぞれの道へと走り出す音が響いた。
振り返る事はなかった。過去に囚われず、前だけを見据える決意の表れ。代わりに、二人はそれぞれ、上を見上げた。
雲ひとつない空が、どこまでも続いていた。