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第7話 分かれた道

 寿王は西へと進み続けた。長安から遠ざかるにつれ、心の重荷が少しずつ解けていくのを感じた。かつての皇太子、後の寿王であった自分。その束縛から解放され、ただの旅人として歩む道に不思議な軽やかさを覚えた。


 山間の小さな集落に着いたとき、日は既に西に傾いていた。旅人を泊める小さな茶店があったので、そこに馬を繋いで休むことにした。


「お客さん、遠くからの旅人かい?」


 店主の老人は親切そうな目で寿王を見た。寿王は自分の服装を見下ろした。皇族の衣服を着ているとはいえ、長い逃避行で汚れ、もはや貴族とは思えない姿になっていた。


「ええ、長安から来ました」


「長安かい! 大変なことになってるらしいな。安禄山とかいう反乱軍が迫ってるって噂だよ」


「はい。皇帝は西の蜀へ逃げました」


 老人は驚いた顔をした。


「本当かい? そりゃあ大変だ。うちの村も安全じゃないかもしれない」


「ここまで来るには時間がかかるでしょう。でも用心に越したことはありません」


 寿王は老人と話しながら、自分がかつて皇族だったことを隠していた。過去の自分を捨て去り、新しい一歩を踏み出す決意をしたのだから。


 その夜、寿王は久しぶりに安らかな眠りについた。次の日、村を出る前に、寿王は馬を売り、代わりに簡素な旅装束と食料を買った。これからは徒歩で旅を続けることにしたのだ。


 西へ西へと歩き続ける日々。山を越え、川を渡り、時には村人に助けられながら寿王は旅を続けた。日に焼けた顔は、もはや宮中の貴公子の面影はなく、逞しい旅人へと変わっていった。


 ある日、険しい山道を歩いていると、突然の雨に襲われた。近くに避難できる場所もなく、寿王は雨に打たれながら歩き続けた。すると、道の先に一軒の小さな庵が見えてきた。


 寿王は庵の戸を叩いた。


「どなたか、いらっしゃいますか? 旅人ですが、雨宿りさせていただけませんか?」


 しばらくして、戸が開いた。現れたのは白髪の老道士だった。


「まあ、ひどい雨だね。さあ、お入り」


 老道士は寿王を中に招き入れた。質素な庵の中には、本と茶道具しかなかった。


「ありがとうございます」


「西からやって来たのかい?」


「いいえ、東から」


「なるほど。長安の方角からだね」


 老道士は寿王の顔をじっと見た。その眼差しは、相手の心の奥底まで見通しているようだった。


「お坊さんは、ここでずっと一人で?」


「ああ、もう二十年になるかな。世の中から離れて、この山で暮らしているよ」


 雨は一向に止む気配がなかった。


「今夜はここに泊まりなさい。明日の朝には雨も上がるだろう」


 寿王は老道士の申し出に感謝した。その夜、二人は静かに語り合った。老道士は若い頃、朝廷に仕えていたが、権力争いに嫌気がさして出家したという。かつての皇太子である自分と何か似たものを感じ、寿王は心を開いて話すようになった。もちろん、自分が誰だったかは明かさなかったが。


「若い旅人よ、何を求めて西へ向かうのかね?」


「求めているわけではないんです。ただ、東にいられなくなったというだけで」


「逃げているのかい?」


「……そうかもしれません」


「逃げることも時には必要だよ。しかし、いつかは立ち止まって、自分の道を見つける時が来る」


 老道士の言葉が胸に響いた。寿王は自問した。自分は何のために旅をしているのか。ただ過去から逃げるためだけなのか。


 翌朝、雨は上がり、寿王は旅を続ける準備をした。老道士は寿王に一巻の書物を渡した。


「これは私が書き写した『老子道徳経』だ。旅の道連れにするといい」


「ありがとうございます。大切にします」


 寿王は頭を下げて老道士に別れを告げた。庵を出て、再び西への道を歩き始める。しかし、一晩の滞在で、寿王の心には何か変化が起きていた。


 数日間、山の中を旅した後、寿王はついに山を下り、広大な盆地に出た。そこには小さな村があった。村の外れで、一人の女性が畑仕事をしているのが見えた。彼女は寿王に気づくと手を止め、こちらを見た。


「旅の方ですか?」


「はい、東から来ました」


「長い旅だったでしょう。何か食べていきませんか?」


 その女性――翠と名乗った――は親切にも寿王を自分の家に招いてくれた。翠は夫を亡くし、一人で畑を耕しながら暮らしていると言った。寿王は彼女の質素で誠実な生き方に心を打たれた。


「どこへ行くつもりなの?」


「まだ決めていません。ただ西へ向かっているだけで」


「この村はとても平和よ。もし良かったら、しばらく滞在しませんか? 畑仕事を手伝ってくれたら、食事と寝床を提供します」


 寿王は翠の申し出を受け入れた。最初は数日のつもりが、十数日に、そして数ヶ月に延びていった。畑仕事は初めは慣れなかったが、次第に手に豊かな茶色の土の感触を楽しむようになっていた。手の皮は硬くなり、腕の筋肉は鍛えられた。毎日の労働の後の食事は、宮中の豪華な料理よりも美味しく感じられた。


 ある晩、寿王と翠は家の前の小さな縁側に座り、星空を見上げていた。


「李さん」――寿王は自分を李という名前で紹介していた――「あなたは本当に農民になるつもりなの?」


「どうしてそう思うの?」


「あなたの手は、最初とても柔らかかった。貴族の手だと思ったわ」


 寿王は少し驚いた。翠は彼の正体に気づいていたのだろうか。


「私は……」


「言わなくていいの。皆、何か隠し事を持っているもの」


 翠は優しく微笑んだ。その微笑みに、寿王は心を動かされた。長い間忘れていた温かい感情が胸の中で芽生えるのを感じた。


 月日は流れ、寿王はすっかりこの村の一員となっていた。村人たちとも親しくなり、時には村の集まりで琴を弾くこともあった。その腕前の良さに村人たちは驚き、寿王の過去に好奇心を持つ者もいたが、彼の素性を追及する者はいなかった。


 ある日、翠が寿王を呼んだ。


「李さん、あなたに見せたいものがあるの」


 翠は寿王を村の東側に連れて行った。そこには小さな家が建てられていた。


「これ、あなたのために村の皆で建てたの。もうずっとこの村にいてほしいから」


 寿王は言葉を失った。かつて皇太子であった自分が、今は小さな村の一員として受け入れられている。権力も、地位も、富も必要なかった。ここには心の平和があった。


「ありがとう、翠。皆にも伝えてくれ」


 その夜、寿王は長い間考えていた。自分はこの村に残るべきか、それとも再び旅に出るべきか。老道士の言葉を思い出した。「いつかは立ち止まって、自分の道を見つける時が来る」。


 翌朝、寿王は決意した。彼はこの村に残り、新しい人生を始めることにしたのだ。


######


 蒼天は南へと馬を走らせた。彼女の心には、失われた家族への悲しみと、新たな人生への希望が入り混じっていた。洛陽で殺された夫と子供のことを思うと胸が痛むが、それでも前を向いて進むしかなかった。


 南へ向かう途中、蒼天は武術と医術を修めた旅の僧・無明と出会った。無明は蒼天の強さと悲しみを見抜き、彼女に同行を申し出た。


「あなたの目には強い意志が宿っている。どこへ行くのだ?」


「南へ。行き先はまだ決めていません」


「私も南へ向かっている。良ければ一緒に旅をしないか?」


 二人は共に旅を続けた。無明から武術の指導を受け、蒼天はさらに腕を磨いていった。もともと宮中で習った武術の基礎があったため、上達は早かった。


 ある村に着いたとき、その村が盗賊に悩まされていることを知った。蒼天と無明は村を守ることを決意する。


「私たちに何ができるでしょうか」と村長に申し出ると、村長は喜んで二人の力を借りたいと言った。


 盗賊たちは十日後に再び村を襲うという情報を得た蒼天たちは、村人たちに簡単な防衛術を教え、村の周りに罠を仕掛けた。そして待ち構えていると、予定通り盗賊たちがやってきた。


 戦いは激しかったが、蒼天の機転と無明の武術、そして村人たちの団結した力で、盗賊たちを撃退することに成功した。盗賊の頭目を捕らえ、役人に引き渡した。


 村人たちは大喜びで二人に感謝し、村に残るよう懇願した。しかし、蒼天の心は南へと向いていた。


「ありがとう。でも私はまだ旅を続けなければなりません」


 無明は蒼天に言った。


「私はこの村に残り、村人たちを守ることにした。君はまだ見つけていないものがあるようだね」


「はい。でも何を探しているのかは、自分でもわかりません」


「きっと旅の途中で見つかるさ。また会おう、蒼天」


 蒼天は無明と別れ、一人で旅を続けた。南へ南へと進み、やがて大きな川にたどり着いた。その川を渡るには船が必要だったが、ちょうど渡し船が出るところだった。


「お嬢さん、渡りますか?」


 船頭に声をかけられ、蒼天は頷いた。船に乗ると、そこには既に数人の乗客がいた。中でも一人の男性が蒼天の目を引いた。彼は琴を持っており、その風貌からして学者か詩人のように見えた。


 船が川の中ほどに差し掛かったとき、突然の嵐が吹き荒れ始めた。船は大きく揺れ、乗客たちは恐怖に襲われた。船頭が船を操ろうとするが、嵐の力は強すぎた。


 そのとき、琴を持った若者が立ち上がり、静かに琴を奏で始めた。その美しい音色は嵐の音をかき消すほどではなかったが、不思議と船内の人々の心を落ち着かせた。蒼天も若者の演奏に聴き入った。


 嵐はしばらく続いたが、やがて収まり、船は無事に対岸にたどり着いた。船から降りる際、蒼天はその若者に声をかけた。


「素晴らしい演奏でした。あなたのおかげで皆、恐怖を忘れることができました」


「いえ、大したことはありません。私は張隆と申します」


「張隆……」蒼天はその名を繰り返した。「私は李蒼天と申します」


「同じ李の姓ですね。何か縁を感じます」


 二人は同じ方角へ向かっていることがわかり、共に旅を続けることになった。張隆は蒼天に自分が詩人であり、自然の美しさを求めて旅をしていると語った。蒼天は自分の過去については多くを語らなかったが、張隆はそれを尊重した。


 旅の途中、二人は多くの美しい景色を目にし、張隆はそのたびに詩を詠んだ。蒼天はその詩の美しさに心を奪われた。彼女の中で、新たな感情が芽生え始めていた。


 ある日、二人は小さな集落に着いた。そこでは祭りが行われており、村人たちは踊りや歌で賑わっていた。張隆は即興で詩を詠み、村人たちを喜ばせた。蒼天も村人たちに請われて、刀舞を披露した。


 その夜、二人は祭りの余韻に浸りながら、星空の下で酒を酌み交わした。


「蒼天、君は不思議な女性だ。武術に長け、気品があり、そして美しい」


「あなたこそ不思議な方です。詩の才能だけでなく、人々の心を掴む力を持っている」


「私は自由を愛している。束縛されることなく、自分の心のままに生きたい」


 張隆の言葉に、蒼天は共感した。彼女も自由を求めて旅をしているのだから。


 二人の旅は続き、互いの絆は深まっていった。ある雪の降る夜、二人は山小屋で暖を取りながら、初めて本当の気持ちを打ち明けた。


「蒼天、私は君を愛している」


 張隆の告白に、蒼天は長い間黙っていた。彼女の心の中では、過去の夫への思いと、目の前の詩人への新たな感情が交錯していた。


「私も……あなたを愛しています。でも、私には過去があります」


 蒼天は初めて自分の過去について張隆に語った。宮中での生活、寿王との関係、洛陽での悲劇、そして安史の乱での混乱。全てを打ち明けた。


 張隆は静かに聞いていた。そして蒼天の話が終わると、彼は彼女の手を取った。


「過去は過去だ。私たちには未来がある。共に新しい道を歩もう」


 その後、二人は各地を旅しながら、張隆は詩を詠み、蒼天は時に武術を教え、時に医術で人々を助けた。二人の名は次第に広まり、「詩竜と剣舞の女」として知られるようになった。

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