買い出しを終えたら時刻は夕方の六時を超えていた。
三年生たちは引き上げたようで、剣道場には閑散とした空気だけが残されていた。しかし、漂っている剣道特有のツンとした匂いはずっと漂っており、鼻をくすぐる。
思い切り剣道がしたい。久々に胴と垂れを着けたのだ。全力で打ち込みたい。
八咲が俺と同じく胴と垂れを装着した状態で、香織にすり足や竹刀の握り方、構えを教えていた。
「さて、それじゃあ実際に竹刀を振ってみようか」
体育で使う青いジャージ姿の香織が、打ち込み台と呼ばれる剣道用の
「霧崎さん、あの面に向かって左手で振り下ろすんだ。右はほぼ握らなくていい」
「なんで? 両手で振った方が速いんじゃないの?」
香織の疑問に俺が答える。
「左手は柄頭にあるだろ? そこが一番リーチを稼げる。だから竹刀は左手をメインにして振るんだ。右に力が入ってると、せっかく左手で伝えた力が乱れる。必要以上の力は体を固くして、逆に剣の速度を遅くしちまうんだ。だから大事なのは脱力。力を抜く」
八咲の代わりに香織の疑問に答えてやると、「はえ~」と間の抜けた返事をした。
打ち込み台に向き直し、香織が「やぁッ!」と気合を入れて竹刀を振り下ろす。
しかし、動作を確認しながら振った竹刀は面を掠めて逸れていった。
「あ、あれぇ?」
「「右手に力が入ってる」」
せっかく左手の伝えた力が右手の力で歪んだのだ。初心者にありがちなことである。特に利き腕が右の人とかこういったことはよく起こる。
利き腕が左の人の方が振る感覚は体得しやすい。俺の指示と八咲の修正で少しずつ香織の体から力が抜けてきて──、
「せい、やぁッ!」という掛け声の直後、面の布に綺麗な打突が命中した。
「ナイス。上手く当たると気持ちいいだろ」
「うん! 手応えっていうのかな、当てた! っていう感触が残ってる! 気持ちいい!」
初めての打突にはしゃぐ香織。その気持ち、よく分かるなぁなんて思っていたら、
がらり、と。道場の戸が開けられた。
そこにいたのは、制服姿の東宮 海人だった。
「──」
何故。唐突な来訪に頭が真っ白になる。
「忘れモンしたからよぉ、取りに道場戻ってみれば」
がしがし、と頭を掻きながら東宮が道場に上がってくる。一礼もしない。
だが、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに東宮は怒りを露わにして告げた。
「ナニ勝手こいてんだテメェら。誰が道場使っていい、っつったよ」
ずんずん、と大股でまっすぐにこちらへ向かってくる。
「俺の指示以外のことしてんじゃねぇよ。防具着けて、竹刀持って、勝手に稽古か? あ?」
扉から一番近い八咲に東宮の手が伸ばされて、
「俺がやろう、って言った」
咄嗟にそう言っていた。八咲の手前で止まる掌。東宮の開いた瞳孔が俺を睨んでいた。露骨な敵意に全身の産毛が逆立った。
ちょっと待て、と本当に稽古を提案した八咲が俺に物申そうとするが、無視する。
「テメエか達桐ィ。高木をノしたくらいで随分と調子に乗ってんなコラァッッ!」
俺の胴に八咲から俺に狙いを変えた東宮の蹴りが突き刺さった。なんとか腕で防いで直撃は避けたが、衝撃が胴越しに内臓まで響く。視界が揺れてひっくり返った。転んだと気付いた時は、見上げた先に眦を吊り上げた東宮がいた。
「剣誠くんッ!」俺を助けようと霧崎が駆け寄ってくるが、東宮が腕を振って弾いた。
香織の眼鏡が吹き飛び、かしゃんと細い音を立てて落下した。
「テメェッ!」
その光景を見て脳が熱くなった。跳ね起きて跳びかかろうとするが、東宮に再度胴を蹴られて床に倒れる。東宮は間髪入れず、俺を何度も踏みつけにする。
「反省しろよ雑魚がッ! 三年に逆らったらどうなるか骨の髄まで刻み込んでやるよ!」
防具を着けているからこそ容赦がない。もしも胴に守られていなければ内臓が破裂していたかもしれない。それほどの衝撃だ。
しかし、絶え間なく襲う苦痛に目を閉じて耐えていたら、唐突に衝撃が止んだ。
ゆっくりと目を開けると、そこには。
「止めろ、東宮ッ」
八咲がいた。東宮のベルトを掴んでいる。
「チッ、部外者のクセに邪魔しやがってこの女ァ」
頬を引き攣らせ、東宮が俺から足を退けて八咲の方を向いた。
八咲からしたら、巨人が立ち塞がっているようなものだろう。そんな存在に敵意を向けられているのだ。どれほどの恐怖が襲いかかっているか想像もできない。
だけど、八咲は眼光を研ぎ澄まし、東宮を睨みつけた。
「これが、こんな暴力が剣士のすることか! 間違っている! 剣は他者を一方的に支配して、隷属させるためにあるんじゃない! 剣は、剣道は、剣道はッ」
そこで八咲が一度大きく息を吸い、瞳に鋼の信念を宿しながら訴えた。
「互いを理解し、歩み寄るためにあるんだろうがッ!」
その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。
互いを理解し、受け入れるための剣。
そんなこと、考えたことも、意識したこともなかった。
それが、八咲 沙耶の剣の在り方なのか。
「ハァ? 何ワケ分かんねぇこと言ってやがる。剣道は強ぇヤツが偉いんだよ。力あるヤツが雑魚を使役できんだよ。完全なタテ社会なんだ。いいから黙って言うこと聞けや!」
ぶん、と八咲に向かって振り上げられる拳。殴られると予感しているだろうに、それでも八咲は目を逸らさなかった。自分は間違っていないと、心の底から信じているから。
「──この、ばかおんなが」
咄嗟に、体が動いた。どうしてかは分からなかった。心当たりがあるとすれば、コイツの剣の在り方を穢してはならないと思えてしまったからか。
鈍い音が道場に響き渡った。「あ」と八咲が息を呑んだ。その八咲を庇って、俺が東宮の拳を顔面で受けた。視界が霞む。薄れゆく意識の中で、妹が俺を呼ぶ声が聞こえた。
お兄ちゃん、と言いながら、俺の腰に抱き着いてくる。
ごめんな、ごめんな朱音。俺がおまえを守ってやれなかったから。
だからおまえが死んだあの日に誓ったんだ。剣は殺しの道具で、剣技は人殺しの技術。俺は剣の『要』に生きると。立ちふさがる敵をすべて斬り倒してやるって。