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十四本目:激昂

 次の日、八咲 沙耶は道着を纏い、一人でところどころ砂が散らばっている渡り廊下をゆっくりと歩いていた。


 彼女の正面から、汗と土に塗れた野球部員たちがやってくる。


「ひっ」「うッ」


 部員たちは彼女を見かけるや否や、飛び退いて道を譲った。彼女の逆鱗に触れることを避けているかのようだった。彼女は背中に竹刀袋を担ぎ、剣道場の前に立つ。中の声が漏れていた。


「にしてもよぉ、達桐のヤツ、今日なんで来ないんだ?」

「あー、昨日俺がボコっちまったからなぁ。当分は動けねぇだろ」


「マジで? 容赦ねぇな東宮。でもどうすんだぁ? 雑用いねぇじゃん」

「それもそうだな。登校はしてんだろ。引きずってくるか」


 鬼かおまえ、という声の直後に大笑いが炸裂する。八咲は扉越しに黙って聞いていた。


 ノックなどしない。一気に開け放つ。彼女の矮躯ではありえない膂力だった。


 剣道場からは下品な笑い声が上がっていたが、一瞬で静まり返る。八咲が道場に対して礼をする。二年生を甚振っていた三年生の一人が、床を踏み鳴らしながら彼女に近付いていく。


「おいおいおい、誰だテメェ。一年か? 剣道部は女子立ち入り禁止だぞ」


 竹刀を肩に担ぎながら八咲を見下ろすのは高木だった。


 しかし、八咲は自分より三十センチは背の高い男を前にしても、まるで仮面を被っているかのように凍った表情を変えなかった。


「どけ、邪魔だ」


 一言、冷淡に告げた瞬間、高木の体が風車のように半回転し、道場の床に叩きつけられた。


 大の男の倒れた音が道場中に響き渡り、三年生たちは驚愕に目を剥いた。


「おいテメェ! 何しやがる!」


 三年生たちが怒りの声を上げるが、八咲は手を払いながら「東宮を出せ」と告げた。


「はぁ? なんでテメェの言うことなんざ」


 一人の三年生が顔に血を上らせて八咲に詰め寄ろうとするが、東宮が「待て」と一声で制止させ、代わりに八咲に近付いた。八咲は東宮を歓迎するように腕を広げた。


「やぁ東宮。君たちについては調べさせてもらった。去年の県ベスト8の時には、三年生を押し退けてレギュラーの全員が二年生だったそうじゃないか」


 小首を傾げながら、八咲が東宮までゆっくりと歩み寄る。


「中でも君は特別だったようだ。小学生のころから剣道で腕を鳴らし、中学では個人戦県代表、高校では二年生にして大将を務め、光陽高校を県ベスト8まで導いた功労者」

「よく知ってるな。おまえ俺のファンか?」


 ああ、ファンだとも。八咲は表情を変えずにそう言った。


「だから、私は勝負がしたい」

「はぁ? なんでおまえみたいなチビ女と一対一の勝負をしなきゃならねぇんだよ。帰れ」


 冷たくあしらう東宮。されど、八咲の表情は変わらなかった。


「おやおや、私は別に君と個人戦を希望しているのではないよ」

「あ?」


「私が希望しているのは団体戦だ」


 剣道場に衝撃が走る。一般的に剣道の団体戦は五人一チームとなり、前から先鋒、次鋒、中堅、副将、大将という順番に振り分け、星取り形式で試合をするのだが、


「バカかおまえ。一人で団体戦ができるか」


 星取り形式の団体戦には最低でも三人が必要となる。八咲は一人であり、東宮の言い分は正しかった。だが、それでも彼女の表情は変わらない。仮面を被っているかのように。


「ああ、普通のはな」


 彼女の瞳が、より深い漆黒に染まった。




「提案するのは勝ち残り形式だよ。私は君たち五人との団体戦を希望する」




「「「は、はぁあああああああああ!?」」」


 道場全体から割れんばかりの叫び声が上がった。団体戦には星取り形式以外にもう一つの形式がある。


 それが勝ち残り形式である。一戦ごとに交代する星取り形式とは違い、勝てば次の相手と連続して戦うことになる。


 つまり、先鋒が相手の大将まで倒しきることも可能である。


 八咲は、一人でレギュラー五人を倒すと言っているのだ。


「追加だ。私の取られた本数や反則は試合ごとにリセットされない。累積していく。簡単に言えば、君たちは先鋒から大将までの五人で私から合計二本取れば勝ちだ。どうかね?」


 絶句する三年生たちだったが、東宮だけは何かを思い出したように眉を動かし、


「あぁ、そういうことか。おまえ、昨日達桐といた女の一人だな」


 一度八咲は東宮に名乗ったはずだったが、彼は完全に忘れていた。


「ってことは達桐の敵討ちか。ここまで嘗められて黙ってるワケにはいかねぇな」


 はぁ、とため息を吐く東宮。心底面倒くさそうに頭を掻き、


「そんだけの大口叩いたんだ。殺されても文句ねぇよな?」


 目を血走らせ、額に青筋を浮かべながら八咲を睨みつけた。

 それでも、八咲の表情は変わらない。


「そうだ言い忘れていた。君たちが勝ったら私を好きにするといい。その代わり」


 ポン、と手を叩く。その音で、彼女の顔を覆っていた仮面が割れた。


 そして、嚇怒かくどに顔を歪めた般若はんにゃが表出した。




「私が勝ったら──二度と調子に乗るなよ、この下郎が」




 轟、と道場内に熱風が吹き荒れる。三年生たちは、自分の体が燃え上がる錯覚を見た。


「東宮ぁ! 先鋒は俺にやらせろッ! ここまで嘗められて黙っとけるかよ!」


 四股を踏んで一番手に名乗り上げたのは、先ほど八咲に倒された高木だった。

 東宮は「好きにしろ」と一言だけ告げ、椅子を引っ張り出してドカリと座った。


 八咲が持ってきた防具袋から面と小手を取り出し、装着する。

 そして、小さな巾着を祈るように握り締めた。


 何してんだコイツ、と東宮は訝しむように目を向けるが、すぐに興味を失くし、


「おう二年、審判しろ」


 小さく命令を飛ばした。二年生たちは何が何やら、という様子だったが自分たちにとっての大魔王から命令されたら従うしかなかった。八咲に白い旗、三年生側に赤い旗を握った。


大将まで辿り着けるワケねぇ」


 椅子に座りながら、東宮はぼやいた。彼の言い分は当然だった。八咲と三年生たちとでは人数は無論のこと、年齢、性、体格、何もかもに差がありすぎる。


「おい高木ぃッ! 遊んでやれ!」

「おまえ、あんまいじめてやんなよ!」


 下卑た笑いが木霊する。されど八咲は動じない。呼吸を落ち着かせ、精神を統一する様は周囲の人物に侍を想起させた。審判をする三人の二年が八咲の姿に見惚れて息を呑んだ。


 始め、という声が掛かり、両者は立ち上がる。


「ッシャアアッッ!」


 威圧するために咆哮を上げる高木。対して八咲は静かに立ち上がる。

 高木が獲物を前にした獣のように舌なめずりをした瞬間だった。


 空気が渦を巻き、高木の両手から竹刀が消失した。


「は?」と構えたまま呆然とする高木。巻き技という、竹刀を絡め取る高等技術であると彼が気付いた時には、既に八咲が飛び込んでいた。


 悲鳴を上げ、高木が両手で咄嗟に面を庇う。有効部位で狙いやすいのは面だ。彼は反射的にそこを狙われると思い込んだ。しかし、黒い影──否、八咲は深く沈み込み、


「ドォオッッ!」


 瞳に黒い炎を灯しながら、高木の面ではなく左脇腹を逆胴で打ち抜いた。

 高木が呻き声を上げながら床に倒れる。胴越しに腹を押さえ、悶絶していた。


「ど、胴アリ!」


 挙げられる白い旗。残心を取り切った八咲は開始線まで戻りながら竹刀を構え、


「早く位置につけ。二本目が始められないだろう」


 冷徹に、冷淡に、無慈悲な言葉を投げつけた。


「達桐が受けた痛みはこんなものではないぞ」


 高木は未だに腹部に残り続ける痛みでのたうち回っていた。剣道ではあり得ない事態だった。胴という硬い防具に守られている以上、衝撃は限りなく殺されているはずなのに。


 東宮が歯を軋ませた。


「貴様ら全員、腐った性根を叩きつぶしてくれる」


 般若の怒りが、道場内で波濤となり荒れ狂う。



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