「剣誠くん、防具無しなんて大丈夫なの?」
八咲を膝枕で休ませながら、香織が俺に言ってくる。
いつか聞いたようなセリフだが、滲み出る不安はあの時とは桁違いだった。
「昨日やられたケガはまだ痛ぇ。一本っつーハンデもある。さらに相手は去年県ベスト8の大将だ。入学式の時とは状況が違う。ぶっちゃけ厳しいかもな」
「うそ」と泣きそうな顔になる香織。
「でも大丈夫だ。俺は勝つ。香織は八咲を頼む」
竹刀を持つ。香織の方へは振り向かない。
「八咲さん、何かウチにできることは」
俺の後ろでは香織が呼吸の乱れた八咲を心配していたが、
「大丈夫、だ。永い付き合いだか、ら、問題ないよ」
でも、と言いかけた香織が口を
「達、桐」と八咲がまだ辛そうにしながら声を掛けてきた。
「すま、ない。私が、でしゃばった、ばかりに」
「謝んなばかおんな。俺がおまえの立場でも同じことをしてた」
喘息という爆弾を抱えながら、俺よりも強い不思議な女。八咲に対していつも苛立つのはきっとこれが理由だったんだ。
いつ体内で発作が起きるか分からないのに、八咲はどこまでも気高くあろうとしている。
その姿を、どこか認めたくなくて。悔しいけど、尊いと心の奥底では思っていたから。
認めよう。八咲はすげぇ。八咲は強ぇ。イラつくけども。
だから、己の信念を貫こうとする八咲を、決して穢してはいけない。
体が軋む。節々が錆びた機械のようにぎこちないけど、憎きコイツがここまで意地を張ったのだから、俺が負けるワケにはいかない。
「おまえは俺が斬るんだよ。だから、おまえに手を出すヤツは許さねぇ」
八咲が一瞬だけポカンとした顔を浮かべた。
「ふ、ふ。いいだろう、見届けて、やる。私に勝ちたいなら、東宮くらい倒してみせろ」
「言われるまでもねぇ」
轟、と己の魂から炎が燃え広がるのを感じた。こんなにも全身に力が漲ったことはない。体を暴れ回る未知の力に拳が震えだした。少しでも気を抜いたら体という器を壊しそうだ。
滾る激情をそのままに試合場まで足を運ぶ。正方形の白線の先に倒すべき相手がいる。年齢も、経歴も、この決闘場の中では自分を守ってくれやしない。一歩足を踏み込めば在るのは己の体と剣、そして魂だけ。己の魂を剥き出しにして、目の前の脅威を破壊する。
俺が負けたら香織は──ついでに八咲は──果たしてどうなるか、分かったものじゃない。
そうはさせない。俺はこんな状況がいつ来てもいいように、今まで鍛えてきたのだ。
「ったくよォ、躾のなってねぇ一年が多くて困るぜ」
東宮の
されど俺の魂は吼える、劣等と。
竹刀で人は殺せない。当たり前のことだ。
だが、竹刀を真剣に変えることはできる。
それができるのは──本当の殺意を知るヤツだけ。偽物のおまえは、竹刀を真剣に変えることはできない。だから俺がビビるに値しないだけだ。
「始めッ!」という二年生の声と完全に同時に、
「ぜあああッッ!」
裂帛の気勢を振り撒いて、体を弾丸に変えた。開始線から東宮まで一気に斬りかかる。体が軽い。防具がないからか、それとも八咲の信念を背負っているからか。
面を捉える──刹那、すんでのところで防御された。竹同士の焦げた臭いが鼻につく。
残心ですれ違う。距離が空く。それでも見て取れた。東宮の表情が忌々しげに歪む。俺が凡な剣士ではないことを察したらしい。
嘗めるなよと心の中で吐き捨てる。俺はおまえを斬りつぶすだけの剣を持っている。負けたくなければ、持てる力を総動員してかかって来い。
暖機運転の完了した俺は右手を首に添えてゴキリと鳴らす。
「来いよ」
挑発を真正面から受けた東宮が、左瞼をヒクつかせ、
「おもしれぇ」
瞬間、轟音。互いに道を譲らず鍔迫り合いへ。
東宮の体幹に力が籠もる。体格で劣る俺は受けに回らざるを得ない。小手の位置が入れ替わる。左へ竹刀ごと流された瞬間、肌がぞわりと震えた。
「コテェイアッッ!」
剃刀のように鋭い引き小手が俺の腕を捉えた。手首に当たっていないため一本にはならないが、切っ先は確実に俺の体に傷を入れた。灼ける痛みに顔を
目を遣れば、俺の右腕から微かに血が滲んでいた。
腐ってもベスト8の大将か。剣の切れ味も侮れない。
上等だ、やってやる。
床を蹴り、残心を取る東宮を追う。
間合いに入ればそこは死地と化す。今は防具がない。面に直撃すれば額は割れ、小手に当たれば神経が麻痺する。胴に当たれば悶絶し、突きを食らえば喉が潰れるだろう。
しかし、それらすべては俺の魂を脅かす要因にはなりえない。
なんせ、こっちは常に殺意を纏って剣を磨いてきたんだ。この程度で怯むワケがない。
俺がやってんのは部活動のスポーツじゃねぇ。剣道という名の武道なんだよ。
剣は殺しの武器で、剣術は人を殺す技術。
俺は常にその意識を持ちながら剣道をしているのだから。
切っ先の
「ッテ、メェ──ラァッッ!」
小手を打つ要領で竹刀を弾き、体を押し込んで面を狙う。東宮が仰け反って俺の打突を躱す。再び距離がゼロになる。瞬間、俺の背筋に鋭い痛みが走る。昨日のケガだ。力が抜ける。
ばちん、と体を弾かれる。振れば直撃する必殺の間合いになってしまう。
やはり体格では押されてしまう。さらには打撲が俺の動きから精彩を奪う。
舌打ちした瞬間、東宮が振り上がった小手を穿ちにかかる。
「コテェッ!」
躱した、が、不運にもヤツの打突は先ほどの傷跡を抉った。腕に電撃が奔る。思考が麻痺して次の手が出ない。体を向ければ、そこには竹刀を砲身に変えて、剣先を装填した東宮がいた。背筋が凍る。右腕の痺れで構えがままならない。
「ツキィッッ!」
俺の喉を穿つ一撃が奔った。防御を取る。ヤツの突きは俺の竹刀を弾いて軌道を変え、喉ではなく左胸に刺さった。肩甲骨まで衝撃が貫通する。皮膚が捩れる。体勢が崩れる。
残心をロクにとらない力任せの突きだ。二年の先輩を吹き飛ばした最低な一撃が、俺に決定的な隙を押し付けてきた。次の打突を躱しきれない。
「メェェリャァッッ!」
続けざまに放たれた打突が俺の側頭部で炸裂した。
「がぁッ」
首を捻って面への直撃を避けた代償に、右耳で爆弾が破裂した。甲高い衝撃音が脳を乱す。点滅する意識で旗を確認するが、上がっていなかった。なんとか一本は回避したらしい。
瞬間、口に何か入った。液体だ。温かい。この鉄みたいな味は、
「剣誠くん、血がッ!」
香織の声が響く。やっぱりだ。耳の近くが裂けたらしい。
迫る東宮。残心で吹き飛ばされる。衝撃で白線の外まで出かける。危ない。ここでもう一度反則になればそれで二本負けだ。試合場の外枠を示す白線の上に、俺の血が滴った。
咆哮と共に東宮が突進してくる。背筋が逃げろと悲鳴を上げたが、間に合わない。
凌げ。全身が砕けようとここは耐えなければならない。
「うおらァッ!」
自動車が正面で衝突したような音が轟く。足の筋肉が悲鳴を上げた。
息を止め、巨漢の突進を堪える。全身の血管が膨張しているのが分かった。
「や、やめッ!」
長い接触のせいで審判から中断の声が掛かる。そこでようやく息を吸えた。しかし、力を抜いた瞬間、無茶な筋肉の駆動の代償が支払われた。背中から絶叫が迸る。
背中に針が十本くらい刺さっているかのようか痛みだった。
「剣誠、くん」
香織が劣勢になっている俺を見て、泣きそうな顔をしていた。心配するなと言いたいところだが、さすがに余裕がない。早く倒さないと。このままでは押し切られてしまうだろう。
背中と耳もそうだが、厄介なのは右腕の痛みだ。
力が入らない。麻痺している。顎が軋んだ。
右腕に力を込めることは少ないが、操作性が落ちる。ハンデに加えてこの状況は、さすがに不利と言わざるを得なかった。汗が頬を伝って顎から垂れる。その瞬間だった。
「へへ、腕一本、使い物にならねぇか?」
俺の脇を通って開始線に戻る東宮が、俺にしか聞こえない声でそう言ってきた。
「──」
一瞬、思考が空白に塗りつぶされた。
わざとか? 東宮は最初から俺の腕を壊すために、わざと打突を外していたのか?
ぶちん、と俺の中で理性をつないでいた糸が千切れた。開始線で構えた瞬間、腹の底に溜まっていた重油のような感情がどろりと溢れ、
「テメェ、誰を相手にしてんのか分かってんのか?」