修羅の道を
右頬を流れる血を拭った。まだ右耳の中で甲高い音が反響している。
それでも聞こえた。じゃきん、という重くて荒々しい音。
俺の魂に宿る、剣の音。
「あ?」
東宮が僅かに動きを止めた。俺から滲む覇気が色を変えたからだろう。そうだ。この感じ。触れる全てを斬り裂かんと神経を研ぎ澄ます感覚。懐かしい。あの日から俺の裡に宿り、そして魂を巣食っていた根幹のカタチだ。
殺意という名の刃。殺気という名の剣。
教えてやるよ東宮。これが人を殺すという意思だ。
テメェと俺じゃあ、殺意の質が全く違うんだよ。
己に問いかける。おまえはなぜ剣道をするのか。
己の問いに答える。決まってるだろうが。
もう二度と、大事な人たちが理不尽な目に遭わないように。
俺が強くなって、皆を守ってやらなきゃいけないから。
そのために、コイツを、殺せ。
「──」
構えを変える。中段から蜻蛉へ。相手を殺すことに特化した必殺剣を抜き放つ。
審判の再開の声が響くと同時に、東宮の頭蓋へと食いかかった。全身を蝕む痛みはねじ伏せた。今の俺は一振りの剣だ。鋼の体に痛みなど存在しない。
東宮の目が驚愕に染まる。俺から滲む覇気が化物──修羅となり、絶大の憤怒を以ってして敵を斬りつぶす。
なぁおい、今おまえは殺されると思っているだろう。
その通りだ。俺はおまえを殺す。
冗談でも酔狂でもない。真鉄の殺意で剣を振るう。
手に握るは竹刀。それはどう足掻いても竹であり、人を殺すには殺傷力が足りなすぎる。
しかし、俺が竹刀を握れば真剣に変わる。人を殺すために鍛えられた業物へと変化する。
ほら、見ろよ。
柄は
刀身が根元から火花を散らす。
切っ先が尖り、
ぎらりと輝く真剣は、竹刀ごと東宮の頭蓋を叩き割る。
「食らいやがれ」
後手に回ろうが打突ごと相手を斬りつぶす、必殺の太刀。
黒い稲妻が東宮の額に炸裂した。
「が、あああッッ!」
東宮の絶叫が響き渡る。割れた額から血が噴き出る。バランスを崩して床を転がった。
相面の結果が示される。言うまでもなく白三本。
残心を取り切り、当然だと言わんばかりに開始線へ戻ろうとしたら、
「あ、ああ、あ、生、生きて、る。生きてる」
東宮が体を丸くして震えていた。手で額を擦り、そのまま床で蠢いていた。ヤツの血痕が地面に斑な模様を描いた。
状況だけを見れば互いに一本ずつ。勝負という場面へ突入したことになる。反則一回がある分、東宮の方が有利だ。まだ東宮は負けていない。
しかし、ヤツの心は完全に委縮してしまっていた。
これが俺の剣。修羅の剣と覇気を以ってして相手を心までねじ伏せる。
「なんだ、今の、殺意は」
八咲は香織の膝に頭を預けながら、驚愕に満ちた目で俺を見ていた。
「まるで、君は」
続く言葉は、聞こえなかった。
「おい東宮ぁッ! 頼むぞッ! 一年なんかに負けたくねぇよ!」
大将である東宮を焚き付ける声が飛ぶ。発破を掛けられた当人は、
「この、この野郎、やりやがったなテメェ。恥かかせやがってッ」
額を抑えながら、血に染まる顔で俺を睨みつける東宮。獰猛な獣を思わせる荒々しい呼吸に合わせて瞳孔が揺れていた。明らかに正気を失っている。
殺される直前、人はどういう行動を取るだろうか。絶望して膝を折るか。命乞いをするか。逃げ惑うか。東宮は、認めないとばかりに憤慨することを選んだようだ。
俺に打ちのめされても心が折れないのは、さすが県ベスト8の大将様と言うべきか。
「しょ、勝負ッッ!」
互いに一本を取った時に告げられる掛け声が響く。審判の二年生も普通の剣道の試合ではありえない光景から逃げ出したいのか、涙目で震えていた。
すんません、すぐ終わらせますんで。
東宮の剣が暴れる。有効打突とかを無視して打ちに、いや、殴りかかってくる。
肩を、脇を、腕を。とにかく痛めつけることしか考えていない暴力の剣が振るわれる。
「この、クソがッ! 一年のクセに、雑魚のクセによォ! 調子乗りやがってよォッッ!」
血と気勢を撒き散らしながら、東宮が罵声を浴びせてくる。同時に滲むは不細工な殺意。
気に入らないから打ちのめす。生意気だから斬りつぶす。そんな意思が伝わってきた。
間違ってはいない。気持ちは痛いほどよく分かる。俺も邪魔する全てを斬り倒すと決めて、己の剣道を研ぎ澄ませてきた。
だから、東宮の主張を全否定することはできない。
でも、東宮は知らない。殺されると思って全身が絶望する瞬間を。本気で人に殺意を抱くことを。
なぁおい、言っただろ。
「テメェじゃ俺には勝てねぇよ」
飛び込みに抜き胴を合わせて腹を掻っ捌く。振り返って逆胴で内臓をつぶす。体当たりから面のフェイクを入れる。恐れた東宮が両手を上げて面を守る。左右の手首に一撃ずつ入れて両手を斬り落とす。ヤツの姿勢が崩れた。左右の頭蓋を叩き割る。
斬る。斬る。斬る。斬る。取れる部位を全て打ちのめす。
東宮は突きが下手だ。だから手本を見せてやることにした。冥途の土産にふさわしいだろう。
打ちのめされてもなお暴れる竹刀に狙いを定めて、蜻蛉の構えから一気に振り下ろす。
直撃する。東宮の竹刀が地面に叩き落とされ、試合場の外まで跳ねていった。
手から竹刀の消えた東宮が無防備を晒していた。ヤツの貌が絶望に染まる。
「じゃあな、死ね」
突いてくれと言わんばかりに空いた喉に渾身の突きを叩き込む。
喉を潰すだろう。喉仏が潰れたら人はどうなるか、言うまでもない。
その瞬間だった。途方もない快感が俺の魂を貫いた。
これが、殺意が、俺の、殺しの、剣、『要』、だ。
「剣誠くん、ダメェ────────────────ッッ!」
切っ先が加速する刹那、この場において唯一の剣道を知らない人間、香織の絶叫が炸裂した。予想してなかった要素に切っ先が乱れる。
空気を抉った俺の突きは、東宮の首の皮一枚を裂いて外れた。
静寂が訪れる。一秒にも満たない停止。
沈黙を打ち破ったのは、東宮の体が床に沈んだ音だった。
「香織に感謝しろよ」
俺は長く息を吐き、殺意を鎮める。
答えは得た。確信した。みんなを理不尽から守るには何が必要か。
八咲 沙耶を倒すには。
徹底的な破壊だ。蹂躙だ。相手を完膚なきまでにねじ伏せる。それが俺の剣道に必要な、『本当の強さ』だった。俺の求めた強くなりたいという至上命題の答えだった。
理解なんかとんでもない。やはりどっちが上か。どっちが強いか。それが答えだ。それこそが剣の真理だったんだ。
足りなかったのは純度だ。もっと苛烈に、もっと激烈に、もっと熾烈に殺意を磨け。
心折れるまでねじ伏せろ。二度と俺に刃向かおうと思えなくしてやれ。
ぎちり、と自分の頬が大きく歪に裂けていく感覚がする。
体から滲み出るドス黒い覇気が心地良い。骨の髄まで蕩けてしまいそうだ。
「剣、誠、くん……」
そんな俺を見て、香織がか細い声で名前を呼んだ。
俺の耳には届いたが、心には響かなかった。
大丈夫ダよ香織。何モ怖クなイ。俺ガみンなヲ守っテヤるかラ。
より凄烈に進化した己の哲学を噛み締めながら、鼻を鳴らす。
倒れている東宮から目を背けた。
手を差し伸べることもせず。