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二十本目:鬼神

 香織と八咲の元へ歩み寄る。袖口でまだ垂れてくる血を拭った。

 緊張が解けたせいで、体中の痛みが蘇ってきた。思わずよろける。


「剣誠くん」


 香織が、八咲を床に寝させて俺の前に立っていた。


「おう、勝っ」たぞ、と言おうとした瞬間だった。


「バカぁッッ!」


 鼓膜が破れるかと思うほどの声量で、香織が叫んだ。目から感情が零れていた。


「バカバカバカバカバカッッ! 剣誠くんも八咲さんも大バカだよ!」


「そんな怒ることかよ」と、反論すれば、


「怒るってのバカァッ! こんな、こんな殺し合いじみたことして! なんで二人はもっと自分を大事にしようとしないの! ホンットにボケナスッ! アホンダラ!」


 と、にべもなく言い返されて、


「霧崎さん、それは」と八咲がゆっくりと手を伸ばそうとすれば、


「うっさい喋んな! 怖かった! ウチは、ウチは二人が、こ、殺されちゃうんじゃないかって、本当に、本当に怖かったんだよぉぉ……」


 同じく撃退された。

 香織が眼鏡を外し、何度も涙を拭う。それでも香織の感情は止め処なく溢れ続けていた。


「悪かったよ。だからもう泣くなって」


 二度としない、とは約束できないけども。

 幼子の癇癪のように喚き散らす香織にどうすればいいか分からなくなる。とうとう女の子座りで泣き出してしまった香織の前で項垂れていると、


「達桐、君は」


 八咲は目を細めて俺を見つめていた。


「なんだよ」と尋ねても「いや、その」と八咲は口をごにょごにょとさせるだけだった。


 何かを言おうとする八咲の顔には、まるで亡くなった友達の写真を見返している時のような、悲しみと寂しさを混ぜた表情が貼り付いていた。


 どこか八咲らしくなかった。いつもは歯に衣着せぬ物言いをするのに。


「何言ってっか聞こえねぇよ。それより見てたのか、俺の剣。どうだったよ」

「あ、ああ、そうだな、見事だったよ」


 八咲が諦めを滲ませながら目を伏せ、声のトーンを落としてそう言った。


「へ、そうだろ。近いうちに必ず、この剣でおまえを」


 斬ってやるからな、と言おうとした時だった。


「しかし、孤独で寂しい剣だ。まるで私の父を見ているようだった」

「なに?」と問いを投げる。だが、八咲は俺の問いに答えなかった。


 俺には理解不能な存在を見た瞬間だった。


「このクソがァッ! テメェら足引っ張りやがってよォッ!」


 脳を掻き乱す金切り声が炸裂した。


「四人がかりで女一人止められねぇのか! サッサと仕留めてりゃ終わったものをよォ!」


 見るまでもない。東宮のものだ。血を撒き散らしながら叫んでいる。格下と見ていた俺たちに完敗したことで怒りが爆発したようだ。諫めようとする仲間たちと盛大に揉めていた。


 あれだけ叩きつぶしたというのに、まだ喚く根性が残ってたらしい。ゴキブリ並みのしぶとさだ。俺もまだまだ未熟ということだろう。そう思ってため息を吐き、竹刀を手に取る。


「え、何してんの剣誠くん」と香織が声を掛けてくる。


「あ? 決まってんだろ。耳障りだから東宮をつぶす。声も出せないくらいまで打ちのめせは、ちょっとは静かになるだろ」


 体の内から黒い何かが漏れ出るような感覚を堪能しながら、まっすぐに向かおうとする。


「ちょ、それは」と香織が反論しようとした瞬間、誰かが俺の袴を掴んだ。


 振り返る。八咲だった。震える手を伸ばしていた。


「待て、達桐、決着はついた。これ以上は不必要な暴力だ」

「だから何だよ。暴力には暴力だ。おまえらを傷付けた東宮には、もっと徹底した破壊を」


「暴力で支配しようとする、それは東宮と同じことをしていると、気付かないのか?」

「なんだと?」


 何ヲ言ッテルノカ分カラナイ。

 八咲と俺がしばらく睨み合っている時だった。


「俺に口答えしてんじゃねぇぞ、この雑魚が!」


 鈍い打撃音が響いた。続けて人一人が床に倒れるような震動が伝わってくる。


「認めねぇッ! もう一回勝負しやがれ達桐ィ! ぶっ殺してやるッ!」


 仲間を蹴り倒した東宮が、鬼の形相を浮かべ、よろけながらこちらへ来る。

 手には竹刀。悍ましい怒気に包まれた刀身は歪な真剣を錯覚させた。


「チッ、あのクソが。上等だよ。今度こそ息の根止めてやる」

「待て、達桐ッ!」

「剣誠くん、待って!」


 二人の制止を無視して東宮の方へ向かおうとした瞬間だった。




「そこまでにしなさい、東宮くん」




 凛とした声が道場に響いた。全員が涼やかな声に意識を引っ張られる。いつの間に道場に現れたのか、試合を見ていた部員たちの一番後ろで、その人は立っていた。


「先生、来てたんですか。こんにちは」


 黒神 桜。実は俺が道場に来るまでに電話で呼んでいたのだ。


「あなたが緊急事態って言うから飛ばしてきたのよ。試合中にお邪魔させてもらいました」


 先生を呼んだ理由は単純。この場において絶対の権限を持てるからだ。

 東宮は強さにかまけて傲慢を撒き散らしてきた。そこに全日本選手権優勝という実績を持つ桜先生が現れたらコイツは逆らえない。強さと実績こそが東宮の絶対なる規則だから。


「なっ、黒神 桜ッ!?」


 驚愕の声は誰からか。そのセリフを皮切りに、道場内からざわめきが起こる。


「ウソだろ」「え、本物の『鬼神』?」「全日本見たぜ俺」「おいおい、マジかよ」


 腰を抜かしそうになっている部員たち。桜先生は驚愕する連中をよそに、近寄りがたい雰囲気を醸し出しながら闊歩する。行き先は怒りで目を血走らせた東宮のところだ。


「何すか。邪魔しないでくださいよ黒神サン」

「達桐くんとの試合は見ました。同じ条件、正々堂々とした結果です。受け入れなさい」


 諭すような言い方に、東宮が額に血管を浮き出させた。


「アンタ関係ねぇだろ! これはウチの部の話だ! 外部の人間が首を突っ込むなよ!」


「そうかもしれませんね。私はこの部には直接的な関係はありません。しかし、内情は達桐くんから聞きました。同じ剣道に携わり、君たちよりも先輩である立場として見過ごせないと判断し、今回足を運ばせていただきました」


「それが余計なお世話だってんだよ!」


 東宮が唾を飛ばしながら喚き散らす。


「スコアボードから試合の条件は察せられました。あなたたちの方が有利だったはず。それでも負けたということは、八咲さんと達桐くんがあなたたちより強かった。それが全てなのです。彼らよりも先輩であるのならば、これ以上見苦しい真似はやめなさい」


 東宮の身体が震え始める。抑えきれない怒りに筋肉が膨らんでいた。


「クソ、クソクソ、クソォッ」


 俯いていて東宮の表情は窺えないが、おそらく血走った目をしているに違いない。

 ただでさえヤツの荒々しい呼気が、より一層激しくなって、


「クソがぁあッッ!」


 正論を突きつけてくる先生をめがけて、東宮が竹刀を振りかぶった。

 ウソだろ。竹刀を持ってなければ防具もない女性の体を打つ気か。信じられない。


 先生が危ない。振り下ろされる暴力から恩師を守ろうと咄嗟に手を伸ばした瞬間、




 ぽーん、と。東宮の竹刀が宙を舞った。




「は?」


 疑問の声は、誰から漏れたのだろうか。先生の手には何も握られていない。信じられないことに、この人は素手で高速となった竹刀を吹き飛ばしたのだ。


「あ、あ、あぁ」


 何が起きたのか東宮は全く理解できていない。手が竹刀を振り抜いた形で固まっていた。

 くるくる、と宙で回転しながら落下する竹刀を、先生は見ずに掴み取った。


「東宮君」と優しい、優しい、ゆっくりとした桜先生の声が響く。


 俺の位置からは背中しか見えなかったが、先生の覇気が鬼の姿を象りながら滲み出て、




「身の程を教えてあげましょうか?」


 そして、金棒を天に振りかざした。




 先生の言葉が聴く者全ての背筋を震え上がらせた。身近に接してきたはずの俺でさえも全身の産毛が総立ちになり、試合後で火照っている体が一瞬で冷えていく。


「うっ」


 香織が常識外れの圧力に怯え、


「っ」


 あの八咲ですら、冷や汗を流して息を飲み、


「ひっ」


 そして東宮が喉を干上がらせた。やがて膝を震わせ、力なく頽(くずお)れた。


「す、すいませんでしたぁ……」


 目に涙を浮かべて謝罪を述べた。

 瞬間、桜先生は『鬼神』の覇気を消し、いつもの優しい雰囲気へ切り替わった。


「ん。よろしい。でも私だけではなくて、迷惑を掛けた人みんなに謝るんですよ」


 激しく首を縦に振る東宮。もはや部を自分の帝国としていた暴虐の姿はどこにもない。


「はは、は。さすが先生、たまんねぇぜ。やっぱ、アレが俺の目指す頂点だ……」


 部員たちが残虐な殺人シーンを目撃してしまったかのように静まり返る中、俺は呟いた。

 相手の心を制圧し、屈服を強いる桜先生の『鬼神』としての姿。


 どれだけ俺が打ちのめしても東宮の心をへし折ることはできなかったのに、桜先生が少し殺気を見せただけでこの結果だ。先生のあの姿こそが、剣の頂点に相応しい。


 あれが欲しい。ああなりたい。あれだけの強さがあれば、八咲に勝てる。どんな理不尽からもみんなを守ってやれる。もう二度と、大事な人を亡くしたりなんかしない。


 絶対的な力を見せつけた先生に見惚れていると、後ろで八咲が大きくため息を吐き、


「あんな悍ましい覇気のどこがいいんだ、馬鹿者が」


 そんな、よく分からないことを呟いていた。




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