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二十三本目:原点

 パチン、と箸を丼に置く。


「八咲、おまえ母親から蹴られたことはあるか?」

「む?」


「あるかって聞いてんだよ」と語調を強くして問い直すと、八咲は「ないが」と返す。


「母親が自分の知らない男とキスしているのを見たことはあるか?」

「ない、が」

「母親が男と遊んで数日家を空けるなんて経験したことあるか?」

「ない」

「そんな母親から邪魔だと言われ、首を絞められたことは?」

「……ない」




「嵐の夜、母親から死ねと言われて増水した川に突き落とされたことは?」




「な、に?」

「誰が親父かなんて知らない。母は風俗嬢。客との間に出来た子どもが俺で、妹の朱音だ。父親は違うらしい。母はより裕福な男を追いかけ回してた。そんで再婚するにあたって邪魔だった俺と朱音を増水した川へ突き落とし、妹だけが死んだ」


 俺は奇跡的に服が沿岸部に引っかかり、生き延びた。

 母とは絶縁になり、そこから桜先生の援助を受けながら今に至るということだ。


 橋の欄干から俺たちを突き落とした時の母の貌は、きっと死ぬまで忘れないだろう。


「俺は叩かれたらぴぃぴぃ泣いてたけど、妹は叩かれても泣かなかった。その代わり、妹は俺と二人の時に泣いた。何枚シャツを濡らされたか分からない」


 いやでも記憶が掘り起こされる。酔った母に叩かれて、布団の中で泣きながら抱き締め合って眠りについた記憶。うっかり床板を鳴らしたら、怒りながら起きてきてよく顔を殴られた。


「二人とも殴られて家を出たことがあった。小銭を握り締めてな。妹がお腹空いたって言って蹲ったから、少しでも空腹を誤魔化せるようにコンビニでおにぎりとオランジーナを買った」


 そこから、俺たちが二人で飲むジュースは決まって一つだった。


「俺は剣道をやってた。でも、妹はやらなかった。俺が剣道をしている姿を見るのが好き。そう言って、いつも横で見ていたよ」


 朱音がいればいい。ずっと、そう思ってた。思ってたんだ。


「俺は朱音に誓った。理不尽な虐待に晒されても笑顔を浮かべ続ける健気なアイツを、守ってやりたいって、誓ったんだ。朱音が殺される前日に」


 拳に力が入る。たぶん、今の俺は、鬼みたいな顔をしているだろう。


「誓ったんだ、でも、俺は、アイツを守ってやれなかったんだよ」


 こめかみに力が入る。俺の震えが机にも伝わり、コップの水が揺れた。


「そっからなんだ。俺が殺意を持って剣道をするようになったのは。俺にとっての大事な人たちを今度こそ失くさないように、俺は『要』を信奉して剣道をしてきたんだ」


 これが、俺の原点だ。


「東宮との戦いで俺は完全に理解した。必要なのはより強力な、『徹底した殺意』だ。『要』の極致──『極』に俺は至った。もう誰にも負けねぇ。おまえにだって勝てるはずだし、どんな理不尽が襲ってこようがぶっ飛ばせる。どっちが上か。どっちが強いか。剣道はそれがすべてなんだ。桜先生のような、相手の心をへし折る無慈悲な強さが必要なんだ」


 香織、桜先生。大事な人たちを守る。そのために必要なのは剣の『要』だ。『要』を突き詰めた先が『極』なのだ。恩師、黒神 桜の言っていたことだ。


 剣に殺意を込め、邪魔する相手を斬り伏せる。俺はもっと強くならなければいけない。


「だから、俺はおまえに負けているっつー現状が許せない。誰かより弱いってことは、誰かに殺される可能性があるってことで、大事な人たちを守ってやれないってことだ。極端だと思うか? 俺にはそんな極端な話が実際に起きたんだ。大げさでもなんでもないんだよ」


 俺が弱かったから、母親に妹を殺された。何度も何度も後悔した。


 あの時、俺にもっと力があれば。

 母親をねじ伏せるくらい強ければ、朱音はきっと死なずに済んだ。


 朱音を殺したのは俺だ。

 俺の無力が殺したんだ。


 ずっと、その後悔が俺の魂を黒く染め続けている。


 だから、俺とおまえの世界は違うんだよ。そんなセリフを言外に含んで八咲を見る。


「なんと、いうことだ。そんな、ことが。いや、しかし、なるほど、合点がいった。道理でそこまで『要』にこだわるわけだ」


 しばし驚愕に打ち震えていた八咲だったが、やがて目を細めて天を仰ぎ、


「ああ、寂しすぎて、泣いてしまいそうだよ」


 その言葉の意味は、全く理解ができなかった。


 ちなみに、俺の事情を香織は知っている。事件以前から家庭事情に難アリではないかというのはクラスで噂されていたが、この一件が決定打となった。


 事件の話は瞬く間に広がり、小学校の頃同じクラスだった連中の大半が俺の事情を知ることになった。それからは、香織以外のみんなが腫れ物を扱うみたいに俺に接してくるのがよく分かった。


「達桐。君は、黒神 桜に憧れているのか?」


 沈黙がどれほど続いただろうか。八咲が俺の方を向いてそんなことを聞いてきた。


「? ああ。そうじゃなきゃ師事なんかしねぇし、敬意を払うワケがねぇ」


 あの日から俺には剣道しかなくなった。強さを求めた。だから最強の先生を師事した。


「おまえが釣師範の元弟子だか知らねぇけど、桜先生に師事してねぇ以上、今の指導者の質が違うぜ。現状じゃ負けてるかもしれねぇけど、すぐに追い越してやるから覚悟しとけ」


 俺が八咲に勝てないのは、先生のような圧倒的な強さと強靭な殺意がないからだ。要は経験が足りないということだ。もっと斬って斬って斬りまくれば、必ず八咲を倒せるはず。


 この前の戦いでその足掛かりを掴んだ。あとは得た答えがどこまで通じるかを試すだけ。


「そうか。いや、そうだろうな。君に彼女の剣はしっくりくるだろうよ」


 どこか掴みどころのないことをぼやく八咲。さっきから何が言いたいのだろうか。


「もしも、もしもだぞ達桐。君が、次、母親に会ったとしたら」

「殺すに決まってるだろ」


 被せて答えた。間髪入れず。一切の躊躇もなく。そんな『もしも』が訪れたら、妹と同じ目に、いや、それ以上の苦しみを与えて縊り殺してやる。


「そう、か」と八咲は力なく肩を落として自分の膝を見つめていた。


「でも、それじゃあ結局、何も」


 コイツが何かを呟いた。どういうことか尋ねようとした瞬間、八咲が席を立った。


「達桐、誘っておいてすまないが、私はこれで帰るとする」


 八咲が店から出て行こうとする。俺の背後を通るその瞬間だった。


「必ず、君を導いてやる」


 小さな声で、そう言った。振り返るが、八咲は店から出ようとしていた。


 俺の呼びかける声は、扉の締まる音で遮断された。


 それはまるで、八咲の中で何かの覚悟を固めるような音だった。

 しばし呆然とする。八咲の発言と行動、全てが意味不明だった。


「何だアイツ」


 呟くが、誰も返してくれるワケがない。仕方ないから残ってるラーメンでも啜ろうと丼を覗き込んだら、そこにはスープを吸って出された時よりもさらに太く重くなったちぢれ麺が鎮座していた。しまった、これはもう無理だ。


 元はと言えば八咲がマシマシにしろと唆したからだ。そう恨み言を吐いてもすでに八咲はおらず、麺も変わりはしない。結局最後まで食べ切れず、罰金の五百円を払うハメになった。



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