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二十四本目:ひとりぼっち

 停学が明けた。

 学校の門を通過して早々に数学の教師から「課題はやったか」と訊かれたが逃げた。


 昼休みになると、さすが体育会系の高校というべきか、むさ苦しい生徒で食堂と購買が埋め尽くされている。声が反響して頭がガンガンしてくる。でも安い。


 汗臭い筋肉に圧されながらも焼きそばパンを獲得し、外のベンチで腹に放り込む。腹が膨れたのを感じながらいつも身に付けている竹刀袋を担ぎ直した時だった。


「あ、剣誠、くん」と正面から、見慣れた眼鏡の女子が財布を持ってやってきた。


「おかえり。ケガは大丈夫?」

「ただいま。ケガは問題ねぇよ。大したことなかったし」

「そっか、良かった」


 なんか俺と目を合わそうとしない。どうしたんだろうと思って見つめていると、どこか落ち着かないと言わんばかりにもじもじし出して、


「剣誠くん、ちょっと来て」


 俺の右腕を掴み、どこかへ連れていこうと引っ張り始めた。




 香織に連れられた先は屋上だった。鍵は掛かっていたはずなのに香織は簡単に入った。どうやったんだろうと思っていたら、「鍵、実は壊れてるんだよ」と解説してくれた。


「ほら、この高校ってガラの悪い人多いでしょ? その名残なんじゃないかなぁ。昔の先輩とかがこっそり壊してて、先生たちも気付いてない、みたいな」


 ありえる。教師に隠れて屋上でタバコ吸う先輩とかいそうだ。


 香織が扉を開ける。一気に吹き込んでくる若草の薫風。思わず一瞬目を閉じるが風はすぐに止み、色を持った光と共に景色が入り込んでくる。


 空には絵具で塗りつぶしたかのような鮮やかな青。よく晴れた天気と敷き詰められたコンクリートが対面する。微かに熱気が漂ってきた。三メートルはあるフェンスが屋上を囲み、空から切り取っていた。


 はい、と言いながら香織がジュースを差し出してくる。そう言えば屋上に来る途中で自販機に寄っていた。どこに持ってたのかは分からない。


「奢り。一緒に飲も?」

「金払うぞ」

「いいよ。ウチが剣誠くんを無理やり連れて来たんだもん」


 そうか。なら素直に受け取っておこう。


「ありがとう」と言うと「どうしたしまして」と返された。


 差し出されたのは缶のオランジーナだ。偶然だろうがこれは嬉しい。


 香織は小さなペットボトルのリンゴジュースの蓋を開けた。フェンスに体を預ける香織に倣って俺ももたれかかる。脇に竹刀袋を立てかけた。


 視界の端にはさらにもう一段、梯子で上がれるところがあり、上には貯水タンクが鎮座していた。


 背後のフェンスはグラウンドに面しているんだろう、昼休みにサッカーをして遊ぶ生徒たちの賑やかな声が聞こえてくるが、時々強く吹いてくる風に掻き消される。


「剣誠くん、この前の試合、なんで、あんなになってまで剣道するの?」


 俺がジュースを飲み込んだタイミングで、香織が尋ねてきた。


「頭から血が出てたのに、なんで?」


 あまりにも無意味な質問に、呆れてため息が出た。


「おいおい、今更だな。知ってるだろ、俺は妹を母親に殺された。俺が無力だったからだ。だから、もう二度とそんなことがないように強くなって、桜先生を、おまえを、守ってやらなきゃいけない。あんな防具無しでの剣道程度にビビッてたら、何も守れねぇだろ」


 殺意を以って俺たちを脅かすなら、それ以上の殺意を以ってねじ伏せるしかない。

 それこそが剣の『要』。俺の辿り着く剣の果てはつまるところそういう世界だ。

 すべては、みんなを守ってやるために、強くなりたいから。


「そっか」と香織がどこか悲しそうに目を伏せた。


 その姿を見て、どこかストンと俺の心の中で納得がいった。

 香織は、俺とは違う。八咲とも、桜先生とも違う。




 香織は、『普通』なんだ。




 普通の女の子で、普通の感性で、普通の人生を普通の環境で生きてきた。小学生の時にいじめられていたかもしれないが、俺みたいな特別な事情なんてない。どこにでもいる当たり前の女子。


 それが香織だ。

 だから、剣を振る生き物である俺の本気の戦いを恐れたんだ。昔から俺のことを知っている香織も、俺の本気の姿を見たことはなかっただろうから。


 だから、仕方ないんだ。香織が今ここで「剣道をやめる」と言うことは。

 普通なら、これ以上先の領域に、俺や八咲の住む世界に踏み込もうとなんてしないから。


「ウチ、後悔してるんだ」

 香織が顔を上げ、目に力を込めてそう言った。


「後悔?」と尋ねると、香織は「うん」と首肯して、


「この前の試合、本気の戦いをしてる剣誠くんは、ウチの知ってる優しい姿とはかけ離れてた。でも、あれって、あの日、からなんだよね。君と朱音ちゃんがお母さんに」


「そうだ。あの日から俺の価値観は大きく変わったから」

「ウチの後悔はそれだよ。思い返せば、君があの時大変な目に遭ったっていうのに、ウチは何もしてこなかった。いじめから助けてもらったのに、何も返してなかった」


 どうするもこうするも、香織一人でどうこうできるはずがない。


「香織が気に病むことじゃない。おまえは朱音が死んだ時、俺より泣いてくれた。そこからずっといっしょにいてくれた。それだけで救われてんだ。第一、いじめも助けたつもりはなかった。悪いことしてるヤツらを止めに入ったらたまたま香織がいた。おまえのそれは勘違いだよ」


「勘違いなんかじゃないッ!」


 香織にしては珍しく、力のこもった声だった。


「あの時に感じた気持ちは、勘違いなんかじゃないよ。だから」


 一度呼吸を置いて、香織は告げた。




「やっぱりウチは、剣道部に入る。君を放ってはおけない」




「──」


 一瞬、頭が真っ白になった。なんであんな試合を見て、そう思える?


「あの試合は本当に怖かった。あんな試合をするってなったらウチは絶対に逃げる。君みたいに立ち向かう勇気なんて一生持てる気がしない」

「だったら、なんで」


「でも、それよりも、剣誠くんのことを理解できなくなる方が怖かった」


 スカートの裾を握り締め、香織は顔をくしゃりと歪めながら俺を見る。自然と、俺のオランジーナを飲む手は止まっていた。


「剣誠くんがどこか手の届かない所に行っちゃいそうな気がして、泣きそうになった。勝手だけど、ウチと剣誠くんは、友達、だと思ってる。でも、そんな君の心がどこか知らない世界に行こうとしてるみたいで、置いていかれそうで本当に怖かった」


 そばかすを掻く指も、微かに震えていた。


「だから、無事に帰ってきてくれてホッとした。それと同時に思ったの。ああ、これからこの先、君はこんなことを何度も繰り返すんだ、って」


 その通りだ。あれが俺の答えだ。襲い掛かる全ての脅威に打ち克つだけの強さを手に入れるまで。血みどろの戦いを、己が身を削っても、朱音の時のようなことを繰り返さないように。


「そりゃあな。言ったろ。剣道は俺にとってスポーツじゃなくて、武道なんだ」

「剣誠くんにとっては、あの試合こそが、武道って言うの?」


「そうだ。剣道は殺し合いが由来だ。どっちが強いかに全てがある。だから俺は負けるワケにはいかない。負けたら、みんなを守ってやれなくなる。それだけは、絶対に、嫌だ」


 めき、とアルミ缶が軋んで悲鳴を上げた。


 朱音が死んだときの絶望は今でも忘れない。世界すべてが硝子のように砕け散るあの錯覚。

 目の前が真っ暗になって、思考も心臓も停止してしまうみたいな。


「またあんな思いをするくらいなら、死んだ方がマシだ」


 だから、どれだけ殺意に飲み込まれようがどうでもいい、それでみんなを守れるなら。喜んでこの魂を漆黒に晒し、二度と引き返せない茨の道に踏み出そう。


 飲みかけのジュースを置き、香織の肩を掴む。柔らかい、華奢だ。朱音と同じくらい、気付けば消えてしまいそうなほど儚かったから、失くさないように力を入れた。


 泣きそうな顔が目に入った。どうしてそんな悲しそうな顔をする? 

 大丈夫ダヨ香織、俺ガオマエヲ守ッテヤルカラ。


「俺はあの戦いで気付いたんだよ! 必要なのは、桜先生みたいな、徹底的に相手の心をへし折る無慈悲な強さだッ! 心を砕いて、恐怖を刷り込んで、二度と剣を握ろうとか考えさせないくらいにまでねじ伏せることだ! それが剣の真実、『極』なんだよ!」


 桜先生は言った。『要』を突き詰めた先に『極』があると。

 だから、俺という剣を闇に堕とす。敵を徹底して排除する力を携えて。


 スベテハ、大切ナミンナガ理不尽ニ脅カサレズ、笑顔デイラレルヨウニ。


「だったらさぁ」と香織はどこか涙ぐんだ声を上げ、




「──剣誠くん、ひとりぼっちになっちゃうよ」




「……、……あ?」


 どこか遠いところで、微かな亀裂の走る音がした。


「だってそうじゃん。ウチのことも、黒神先生のことも守るって言いながら、君はそんな物騒な道を行こうとしてるんでしょ? そんな君のことを、誰が分かってあげられるの? 少なくとも、ウチは分からないよ。分かりたくない」


「それでもいい。俺は孤独でもみんなを守る。誰からも理解されなくていい」

「そんなの寂しすぎるじゃんか」


 寂しい。それは、あの時に八咲にも言われたような。


「あの時の剣誠くんは怖かった。強かったんじゃない、怖かったの。抜き身の剣みたいで」


 香織が目元を拭う。亀裂がどんどん広がっていく。


「仕方ないよ、あれだけのことがあったら。でも、だからって、そこまで自分を追い込まなくてもいいじゃんか。ひとりぼっちになって、ボロボロになって、そんな君に守られても嬉しくないよ。血まみれの手を差し伸べられても、怖いだけだよぉ……」


 声が、涙声になってきた。


「昔にウチを助けてくれた剣誠くんの方が、ウチにはずっと近くに感じた。でも、この前の試合で見た剣誠くんは、すっごく遠くに感じた」


 香織の表情を見て、どうしても唇が重くなる。言葉を発しようにも口が開かない。

 何故だ? 俺は、香織を否定できないのか? 

 肩から手を離す。数歩、よろけて後退した。


「言ったじゃん。ウチは剣誠くんを放っておけないって」


 香織が胸に拳を当てて、一歩近付いてくる。


「ウチは邪魔者? 君にとっての敵?」

「違う、そんなワケ」

「でも、ウチは君の邪魔をするよ。放っておけない。そんな孤独で寂しい道を一人で突き進もうとするなら、ウチは全力で止める。絶対に」


 香織のこんな真剣な表情、見たことがない。どうしたらいいか分からなくなる。頭が混乱してきた。コイツはなんだ? 香織だ。俺の守るべき存在だ。本当か? 俺の道を邪魔する気だぞ。あれ? なら斬ればいいのか? でも、守る。邪魔、え? あれ?


「どうして、そこまで」


 絞り出した言葉は、疑問だった。どうして香織はここまで俺を独りにしようとしないのか。

 しかし、返答はなかった。香織は一層顔をくしゃりと歪めて、大粒の涙を流し始めた。


「ウチは剣誠くんの邪魔をする。孤独になろうとしている君に近付く。ずっと一緒にいる。ボロボロになんかさせない。そっちになんか行かせない。独りになんかさせないよ」


 それで、ウチが傷付くことになっても。香織はそう言って、抜き身の剣である俺を抱き締めようと手を伸ばす。一歩、近付いてきた。


「やめてくれ」

「気に入らないなら、斬っていいよ。それでも、ウチは」

「やめろって!」


 俺の手には、いつの間にか一振りの剣が握られていた。あの日、俺の魂に宿った、ボロボロで、錆びついて、欠けて、傷だらけの古い剣。


 また、香織が近付いてくる。


 斬れ。コイツは弱い。俺の覇道を邪魔した八咲じゃない。素人だ。簡単に斬れるはずだ。みんなを守るために修羅になる。そんな俺にとっての不純物になりかねない。だから、斬れ。


 だけど、強くてすべてを斬り伏せる剣であるはずの俺は、


「ほら、君は強がってるだけだよ」


 どうしても、剣を振れなくて。

 香織が、俺の頭を包み込んだ。凍ったみたいにこの体は動いてくれなかった。


「ねぇ、剣道って本当に、どっちが上かだけの話なの? 剣道で強くなるってそういうことなの? ウチは違うと思う。剣道をよく知らないくせに、って思うかもだけど、そうやってすべてをねじ伏せて歩んだ先に、幸せがあるとはどうしても思えない。きっと朱音ちゃんも、そんな君に守ってほしいだなんて思ってないよ」


 否定。しかし、それは拒絶ではなく、諭すような、柔らかい口調。


「だって、君は優しいじゃんか。ウチはそれをよく知ってる。だから、そんな優しい人が、理解できないところへ、どこか遠くへ行ってしまうのは、辛いよ」


 まっすぐ、揺るぎない信念を魂に宿し、香織は俺を包み込む。


「辛いなら離れたらいいだろ」


 未だに抱き締め続ける香織に、できるだけ冷たく言い放つが、香織は一層力を込めて、


「嫌だ。だからウチは剣道をする。今ここで君から離れたら、大事な何かが壊れちゃう気がする。だから、絶対に──離れない」


 俺のために剣道をする。それは、みんなを守るために強くなろうとする俺と似ている気がした。でも、俺とは違う温かな強さがある。それに縋ろうと一瞬でも考えてしまったから、


「きっと、ひとりぼっちになろうとするよりも、そっちの方が強いと思うんだ。上手く言えないけど、少なくとも、強くなるために独りになろうとするのは、間違ってると思う」


「もうやめてくれ」


 引き剥がすように、香織の抱擁を解いた。

 目が合う。腫れた瞼、上気した頬、不器用な微笑み、すべてが俺を包み込むための。


「教室に戻る。ジュース、ありがとな」


 それ以上、香織を直視することができなかった。香織は何も言わなかった。ただ無言で、小さく頷いていた。踵を返す。屋上の扉へまっすぐに向かう。扉を閉める。階段を降りる。


 ずっと、頭の中に響いていた。どうして斬れなかった。八咲と違って香織は弱いのに。


「分かんねぇ」


 おまえの信念は、そんなものなのか。


「分かんねぇよ、クソッ」


 ずきりと胸が痛んだ。そうか。亀裂はここだったのか。俺の魂に突き刺さっている剣。それに、微かな亀裂が走っていたのだ。


 痛みは治まることなく、ずっと俺の内側で響いていた。



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