視界いっぱいに広がる茜色の空と、眼下に広がる果てのない雲海。
私は何かあると世界樹の枝の先端を訪れ、この景色を眺めることが多かった。
「今日は何か、しかなかったように見えたが」
「あはは~、やっぱそう思う? みんな厄介者扱いしてきて酷いよね~」
枝の先端に立ったヤトがこっちに振り向いて冷静な指摘をくれた。
そこはいつもなら私の特等席だけど、今日の私は気分が乗らなくて後ろの方で空を見上げてる。
空模様的にはちょっと上側に雲が多いけど、これはこれで風情があってありありのあり。
めったに人が来ない場所だから、巫女の振る舞いも今は一休み。
言葉遣いもそうだけど、ずっと背筋伸ばしてるのがしんどいからね。
「しかし。いろいろ問うてきたが、あそこまで言われておまえがへらへらと笑っていられるのが一番の疑問だ」
「そりゃ~慣れだよ慣れ」
「慣れか」
「ていうか疑問に思うくらいなら助けてくれてもいいんだけど?」
「心にもないことを言うな。ただでさえおまえはわかりづらいというのに」
「あは~バレたか」
変に仲がいいと思われても厄介だからね。
下手にフォローとか手助けされるくらいなら、傍観者を決め込んでくれてる方がよっぽどいい。
「ん~、それにしても夕焼けが沁みるねぇ~」
「ああ、眩しくて目が痛い」
「そういう意味じゃなくてさ~」
心に沁みる的なことを言いたいんだけどなぁ。
ヤトには情緒ってもんが足りないね。
「ヤト」
「なんだ?」
「今日は付き合ってくれてありがとね」
「なんだいきなり。感謝される心当たりはない」
「……確かに」
「おい巫女? 否定しろ?」
「ていうか忘れてたけど、なんならライヒ様の家に行くことになったの、ヤトが原因じゃん!」
「元を辿れば、おまえが俺をあの小娘の犠牲にするからだろうが」
「う、うるせーっ」
「事実上の敗北宣言と捉えてよいな?」
「好きにすれば?」
「俺の勝ちだ。敗者を見下すというのは気分がいい」
「……」
「……」
「あーしょうもな~」
「ああ。まったく意味のない会話だな」
ほんと、時間の無駄だね~。
……でも。
もしかしたら本当に沁みるのはこういうやり取りなのかも。
なんて、夕焼けにあてられてちょっと感傷的になってるかも。
「……はー。ほんと、今日はごめんね」
「感謝したり謝ったり忙しい奴だな。今度はなんだ?」
「散々付き合わせといて、結局あんまり成果なかったから」
顔見せで何か目に見える変化があったわけでもないし、ライヒ様の家に行くっていう大きな出来事があっても何もできなかった。
前者はそれでもいいって覚悟してたし、後者も突発的なことだから仕方ないともいえるけど。
一か月後の豊穣祭っていう期限を考えるとどうしても焦っちゃう。
「ヤトは力を蓄えることに集中してもらうとして。……私は、これからどうしたらいいんだろうね。このまま効果があるかもわかんない好感度稼ぎをしてくしかないのかな」
もしヤトが失敗した時の保険を。
そう行動方針を決めてから、私に何ができるのかずっと考えてる。
ヤトが龍の姿を取り戻せば全部解決することだけど、だからって能天気に過ごすにはあまりにも心もとない。
でも私にできることなんて、今日やったようなことくらいしか思いつかなくて。
無駄に時間だけが過ぎてくだけになる予感がして怖かった。
今日、実際の村の人たちの反応を見てしまった後だと、特に。
「他にできることがあるんじゃないかって思ったら……ちょっと不安だよね」
雑談の延長でずるずる吐露してしまう。
ちょっとずつ、私はヤトに心を開き始めてる。
自覚がある。
よくないと思いながら、ずっと一人だったし仕方ないって自己分析してる自分もいる。
なんでもない話に付き合ってくれる人なんて、両親がいなくなってからは誰もいなかったから。
「そう悲観することはないと思うが」
「……」
ほら、今も。
いちいち律しないといけない程度には、ヤトの言葉に期待してしまってる。
「てっきり俺は、村の奴らが一人残らずおまえのこと嫌っているものかと思っていたが。そうではない者もいるようだからな」
「……鍛冶屋の店主さんのこと?」
「ああ、あいつはよい。粗野だが芯が通っている」
「別れ際に握手してたもんね。ん~、私もあの人のことは好きだけどね……」
「なんだ。はっきりしないな。何かあるのか?」
「何かあるってわけじゃないけど、私の問題っていうか……。そもそも余計なことを言ったりしないってだけで、嫌ってないかどうかは別でしょ」
村の人はみんな、龍神様がいなくなったのは不出来な巫女のせいだって考えてる。
だから店主さんも多分、私のせいで仕事がなくなると思ってるはずで。
なんなら他の人よりよっぽど嫌われる理由に納得がいくっていうか。
「キリノは意外と根暗で面倒だな」
「うるさいなぁ。性格なんだからしょうがないじゃん」
「あの店主、キリノのことを褒めていたぞ。途中で飽きて装飾品を眺めていたおまえは聞いていなかっただろうがな」
「――え、嘘」
他人に無頓着な店主さんは、誰かを貶したりしないけど褒めもしない。
少なくとも私は見たことがない。
「使われない道具は壊れることすらできない。とな」
「……。それ、褒めてるのかな」
「たまには疑うのを止めたらどうだ」
「……むぅ」
ああ、よくない。
頑張って閉じてきたのに。
一度開けば、また辛くなるのに。
「人間に限らず、弱きものに他者へのんびり目を向けている余裕などない。……真に為人を知らせるべきなのは俺ではなく、おまえなのかもしれないな」
「……」
「少し考えてみろ」
「……うん」
いつのまにか近くにいたヤトに、ぽんぽんと頭に手を置かれた。
その感触の懐かしさに惹かれて、私は素直に頷く。
「それともう一つ。疑問なのだが成果がないという話だったが、進展ならばあっただろう」
「……へ?」
顔を上げると、ヤトが不思議そうな顔で私を見てた。
「貿易家系の豪邸でおまえが気にしていた書斎の本と、一階にあった他と明確に趣が異なる鋼鉄の扉。あれらを見つけたのは成果ではないのか?」
「成果……ていうか。あんなの個人的に気になるってだけで、今話してることとは関係ないし……」
「今は関係ないから、と後回しにしていいのか?」
「いいも何も、だって今はそんなことしてる場合じゃ――」
「キリノ、理解しているのか?」
変わらない声色に、わずかな怒気を感じて体が震える。
ヤトは、夕日にすら交わらない紅い瞳で私を捕らえ――
「このまま行けば一か月後におまえは死ぬのだぞ?」
「――ッ」
鋭利な現実の槍で、のんきに逃げ迷う私を正確に穿ち貫いた。
『率直に申し上げますと、巫女様の目的が叶わなかった時はお二人に『枝振るいの刑』を執行せざるを得ないかという結論にあの後達しまして』
枝振るいの刑はまさにこの場所、枝先で執行される。
そうと知ってても、少し前までなら平気だった。
でも、今は……。
一歩、後ずさる。
いつもの場所よりだいぶ後ろに立ってるはずなのに、私の命を支える枝がわずかに揺れた気がして心臓が跳ねた。
「俺を動かない理由に使うのは勝手だがな。いざ最期の時になって、ああしたいこうしたいと未練を嘆いてもどうにもならんからな」
「そ、そんなこと言ったって……っ、ていうか話が違うでしょ⁉ そうならないためにどうにかしないといけないって言ってるのに!」
「どうにかする術が見つからないから悩んでいるのではないのか?」
「そ、れは……」
「人間の寿命など止まっていられるほど長くないだろうが。たまには考えなしに走ってみたらどうだ」
「……弱いからこそ知恵を絞るのが人間、とか言ってなかった? 思考放棄なんて下の下じゃないの?」
「己の武器を活かせず無意味に悩んで止まるくらいなら、そうした方がまだマシだと言っている」
「……」
感情的な反論も、苦し紛れの意趣返しも、いとも容易く切り捨てられる。
あっけなく張り子の防壁は壊されて、後は心裡を力任せに荒らされるばかり。
「さっきも言ったが、自分の命が懸かっているのだろう。避けがたい危機を前に安全な択を選んでどうなる?」
でも、反発しながら不思議とどこかで望む自分もどこかにいて。
誰か理屈で凝り固まった檻を破壊してくれないか、と。
今か今かと手を伸ばしてる。
「……だからって、じゃあどうするの? バカ正直に聞いて答える人たちじゃない」
「気になるのなら直接確認するしかあるまい」
「あの家に忍び込めって言いたいの?」
「おまえ自身があの家を出る前に言っていたことだろう」
「夜に忍び込めば、みたいな話は確かにしたけどあれは例え話で……っ! ヤトだって使用人がたくさんいるの見たでしょ? 夜だって誰もいなくなるわけじゃないし、もし見つかったら取り戻せないくらい村の人の心証が悪くなるんだよ⁉ そうなったら一か月後なんて言ってらんないよ⁉」
「……ふん、わからんな」
「何がっ⁉」
「キリノが今言った内容の、どこにできない理由がある?」
「――っ!」
「いい加減悟れ。やるかやらないか。これはおまえの意思の問題だ」
でもヤトはやっぱり、私の甘えを許さない。
こっちへ行こうだなんて、手を引いてくれたりはしない。
「欲深い人間の子よ。今一度、おまえの選択を問おう」
ただ目の前にある道を明示し、本当にそっちでいいのかと問いかけ、私がどうするのかを見届けるだけ。
「自らの望みに目をつぶり、いつか妙案を思いつくという薄い可能性に期待しながら、その瞬間まで確実に生き永らえる穏やかな道を選ぶのか」
「それとも最期の時が早まる危険を冒してでも、望むものすべてに手を伸ばし意地汚く生き足掻く道を選ぶのか?」
――おまえの望みはなんだ?
「……」
やる気の問題だなんて、簡単に言わないでよ。
「……お母さん」
「ん?」
「あなたが龍神様なら、わたしのお母さん知ってるでしょ」
「……先代巫女、サチカのことだな」
「うん。……お母さんね。いなくなった日、ライヒ様の家に行ってるみたいなの」
「……ほう」
「だからなんか手がかりあるかもって、無理を言って何度か中に入ったことあったけど。何もわからなかった」
「……」
「だから、忍び込んだって無駄足になる可能性の方が高いの」
「そうか」
「あの本はただのブルクハルト様の日記かもしれない。あの鉄扉の先はただの使用人の作業場かもしれない。全然リスクとリターンが見合ってないの」
「そうか」
仮に成功したとして、結局それが私の思うようなものかもわからない、まったくの見当違いだった、なんてこともあり得るような状況で。
しかも今は命すら懸かってるのに。
まだ実行しようとか言ってる人がいたら、それこそ考えなしのバカでしょ。
「だから、どうした?」
「――っ」
バカ、なのに。
「……ヤト、ごめん」
「なんのことだ?」
「無駄かもしれない。でも、手伝って」
「……」
お母さんは死んだ。
そう言われてるし、私もそう思おうとしてた。
もう何年も前のことだし、今さら期待しても辛いだけ。
でも駄目だった。
嘘なんか吐けない。
あの豪邸にいる間、ずっとお母さんの痕跡がないかってどこか頭の片隅で気にしてた。
たとえば、一階にあった鉄扉の先に牢獄があって、今も囚われてるんじゃないかって。
「なぜ俺がおまえの言うことを聞かなければならん? それも空き巣のような真似をしろなどと」
「私に借りがあるから。あなたから言ったことでしょ」
「……」
「断ってもいいけど、誇り高い龍の命とやらはしょせんその程度ってことになるよ。ヤトは本物の龍神様、なんでしょ?」
「ふっ、ああそうだ。ならば仕方ないな」
バカな選択だって、わかってる。
今さらお母さんが生きてるなんて思ってない。
何もないならそれでもいい。
けど、もし。
ほんのひとひらでも可能性が残ってるなら。
「ねえヤト」
「なんだ」
「私、諦めたくないよ」
「ふん、だろうな。散々未練がましい顔を見せられていれば嫌でもわかる」
やれることはやったなんて、諦めちゃいけなかった。
娘の私だけは、絶対に。
「……で、さっそく今日にでも行くのか?」
「……ううん。何日か待って。いろいろ準備したいことがあるの」
「準備?」
貿易家系の豪邸へ夜中に忍び込む。
前の私だって、考えなかったわけじゃない。
実行しなかったのは、情報があまりにも足りなかったから。
けど、今は違う。
「鍛冶屋の店主さんに、協力してもらえるか聞いてみる」
「……ほう」
「あの人なら家具の修理とかでしょっちゅう出入りしてるし、何か知ってるかもしれないから」
他人を信用するのはまだ怖い。
けど、怖がってばかりじゃ何も変わらない。
「では決まりだな」
「うん」
まだ人の体に馴染んですらなくて。
最低限の常識すらも危うい人間初心者のくせに。
やけに様になってる、ヤトの不敵な笑み。
「準備が整い次第、俺たちであの屋敷に忍び込み――いけ好かない奴らの鼻を明かしてやるぞ」
「うん、やろう」
彼につられて笑った私は、どんな顔をしてるだろう。