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第32.4話 由里


 煌びやかなエントランスの鉄扉を開いて、仄暗い階段を下った。

 階下にある厨房へ顔を出し、呼びかける。


「龍巫女の食事を受け取りに来ました」

「あらユリ。今日の当番はあなただったの。同じ嫌われ者同士だからって妙な気起こさないでちょうだいね」

「無用な心配ですね。私自身、あの巫女は気に食わないので」

「そ。まあどうでもいいけど、さっさとしてよね。豊穣祭まであと10日もないの、ご主人様方だけじゃなくて私たちだって忙しくなるんだから」

「言われずとも理解していますが、忙しいというのなら口より手を動かすべきでは? あなたは私より仕事が遅いのですから」

「ッ! ……うっさいわね。さっさと行きなさいよ!」


 同じ血族兼同僚を適当にあしらい、燭台と食事の載った銀の盆を持ち、改めて石レンガに樹木が絡む通路を進む。

 途中寄り道をして木桶に湯を溜めてから錆びついた扉を潜ると、冷えた空気が出迎えてきた。

 私はいくつか並んだ牢屋のうちの一つを覗く。

 鉄格子の奥には、泥の中に混じって這い蹲る少女がいた。


「……ぅ、ぁ……だれ……?」


 茫洋とした声。

 寝ていたのか気絶していたのか、とにかく意識を飛ばしていたらしい。

 私は牢屋横のサイドチェストの上に燭台を載せて「お食事をお持ちしました」と声をかける。


「ぅ……ユリ、さん……?」

「はい、キリノ様。噂には聞いていましたが、まだ生きているようで何よりです」

「……あはは」


 気だるそうに起き上がって苦笑したキリノ様の顔は泥だらけで、さらには小さな野菜らしき欠片がくっついていた。

 私の足元に皿らしき小さな破片が散らばっているのを考えれば、なんとなく起きたことは察する。

 私が格子の隙間から水が入った革袋とカチカチに乾いた余り物のパンを渡すとキリノ様はわずかに震える手で受け取り、普段穏やかな彼女らしくなく焦れたように食べ始めた。

 それを見ながら私は懐からタオル――交易品で私物だ――を取り出す。


「体を拭く物もお持ちしましたのでご自由にお使いください。あとついでに、背中くらいは拭って差し上げます。あまり時間はかけられませんが」

「あ……ありがとう、ございます」


 拭うといっても、牢内は湿気によって壁や床から新たな泥が生み出されているようであまり意味もないが、気分転換くらいにはなるだろう。

 低い室温も相まって劣悪極まりない環境は、着実にキリノ様の体力を奪っている。

 格子越しにキリノ様の背中、張りついた衣服をめくりあげる。

 衣服の中にまで入り込んでいる泥は、彼女を侵食する悪意の象徴にも思えた。

 木桶に溜めたお湯に浸したタオルで小さな背中に塗れた汚れを拭っていくと、キリノ様は心地よさそうに息を漏らした。


「ドロテア様やブルクハルト様が定期的に嫌がらせをしにやって来ると聞きましたが」

「はい。ヤト様が出ていってから何かあるたびにここへ顔を出すようになって……」

「で、今回はわざわざ使用人の食事当番を代わってまでスープをぶちまけに来たということですか。プライドが高いのか低いのかわかりませんね」

「……あはは、そうですね」

「どうせなら私の時に代わってくれれば楽できたのですが」

「あー……」


 冗談のつもりだったのだが、キリノ様は愛想笑いのなり損ないのような声を出して、誤魔化すように革袋の水に口をつける。

 やはり慣れないことはするものではない。

 さっさと頼まれ事を済ませてしまおう。


「ヤト様から伝言を預かっています」

「え、ヤトか――様、からですか?」


 キリノ様は自身も気づかないほどわずかに喜色を浮かべた。

 それなりの信頼関係は築いているらしい。

 ヤト様は私から見れば、信用するには得体が知れなさ過ぎる存在なのだが。

 彼女の悲惨な交友関係を鑑みるに、致し方のないことなのだろう。


「『これを読んで待っていろ』だそうです」

「これ?」


 私は再び懐を探り、一冊の本を取り出す。

 皮張りのそれを見て、キリノ様は目を丸くした。


「これ……」

「あなたの父親のものだそうで。あなたが生まれてからのことが書かれた日記だそうです。おそらくキリノ様が見つけたものの続きだろうと」

「……。ユリさんも読んだのですか?」

「いいえ。私は他人の家庭事情に興味がありませんので。ヤト様は確認のために読んだそうですが」

「そうですか」


 キリノ様が小さく息を吐く。

 まるで落胆でもしたかのような態度が少し気になった。


「私に読んでいてほしかったのですか?」

「ああ、いえ。……あー、はは、まあ、そうかもしれません」

「なぜです?」

「……読むのが少し怖くて」


 自分の代わりに読んで内容を教えてほしかったというところか。

 秘密主義の巫女家系らしくもない考えだ。

 平気そうに装ってはいるが、どうやらご主人様たちの陰湿な仕打ちで相当参っているらしい。

 よく見れば、顔色もあまりよくないようだ。

 何か考え込んでいるキリノ様の服を戻して私は立ち上がる。


「そろそろ戻ります。長居すると私まで怪しまれるので」


 とはいえ、深入りするつもりはない。

 キリノ様から革袋を預かってさっさと帰り支度を済ませる。


「ありがとうございました。あの、拭くものまでいただいて……」

「お気になさらず」


 短く言い残して、部屋を出る。

 扉を閉じたところで、ふと誰かの視線を感じた。


「……誰です?」

「っ!」


 慌てて通路の角に消える人影が見えた。

 根拠はないが、さっき厨房で適当にあしらったあの娘だろう。

 監視しろと命令されたのか。単純に私の揚げ足を取ろうとしたのか。

 おそらく後者だろう。

 残念ながら彼女は直々に命令が下されるほど目立った実績を持たない。

 そういうことをしているから仕事が遅れるというのに。


「ふぅ」


 基本的に他人への興味が薄い私だが、まったく感情がないわけでもない。

 キリノ様の境遇に対しても思うところはある。

 ヤタロウさんを巻き込んだことを許すつもりはないし、本格的に手を貸す気もない。

 しかし――


「……主と違って、ある程度の人間性はあるつもりです」


 先刻の出来事を思い返し、私は誰に言うでもなく呟いた。



   ◇ ◇ ◇



 私はその光景を、ブルクハルト様の傍らに控えたいち傍観者として聞いていた。


「お父様とお母様は、キリノをどうするおつもりなのですか?」


 両親を敬愛しているライヒ様が父親に食って掛かるのは珍しい。

 基本的に親の言うことには素直に従うのが娘である彼女の常で、しかし私はそうするに至る経緯をヤト様から簡単に聞いていた。

 彼女はヤト様から巫女の裏切りに関する噂が嘘だという話を聞かされ、真実を父親へ問おうとしているらしい。


「豊穣祭までもう時間がありませんわ。あの娘には龍巫女としての責任を果たしてもらう必要がありますのに」

「龍神様を自称するあのヤトとかいう男の言うことが本当か、巫女様直々に真相を確かめるって話のことかな」


 村への侵入者として囚われたヤト様と彼を匿っていたキリノ様の処遇を決める村の会合。

 その会合で、即処刑に傾いていた結論は誰あろうライヒ様の一声によって、豊穣祭までの約一か月の猶予が与えられた。


「その期限が豊穣祭。確認しなくともちゃんと覚えているさ。それの何が問題なんだい?」


 いつもの貼りつけた笑みとともにブルクハルト様が言う。


「ならおわかりでしょう? いつまでもあんな場所に閉じ込めていては、とても真相の解明なんてできませんわ」


 隙間から覗いたライヒ様の表情はいつになく必死で、疎ましく思っているはずのキリノ様の肩を持っているようにさえ見える。


「……もしヤト様が龍神様ではないのなら。今年の豊穣祭で行われる龍巫女の舞踊だって、より一層重要な意味を持ちますのに」


 侵入者騒ぎ――ヤト様関連のゴタゴタだ――でうやむやになっていたが。

 もともとキリノ様は、毎年豊穣祭で披露する舞踊によって、忽然と姿を消した龍神様を呼び戻すという難事を言いつけられていた。


 龍巫女の舞踊――神楽は豊穣祭の恒例行事。

 例年であれば主に来年の豊作を願い祠の奥で眠る龍神様へ捧げられる、いわば形式上の意味合いが強い。

 ……私からすれば、たかが踊りにどれほどの効果があるのかすら疑わしいところだが。

 少なくとも村の信心深い者や、何より龍神様に関する全権という重過ぎる責任を背負うキリノ様にとっては大事なことだろう。


「もしキリノをこのまま捕らえたままにして、豊穣祭までに結果を出せないどころか姿を現さないなんてことになれば……」


 言葉尻を振るわせ、ライヒ様は唇を噛み。

 そして拳をぎゅっと握って父を見据え、彼女は叫ぶ。


「あ、あの娘――本当に、処刑されてしまうかもしれませんのよッ⁉」


 必死に訴える娘に対してブルクハルト様は。


「それの何が問題なんだい?」


 さらりと。

 天気の話題でも話すように、同じ問いを繰り返した。


「……え?」


 大事に大事に育てられてきた彼女は、父親の本性をまだ知らない。

 何が起きたか理解できないというように、ライヒ様は声を漏らす。


「さっきから聞いていれば……どうしたんだい? ライヒ。まるであの巫女を助けたいみたいじゃないか」

「……わ、わたくしはっ……ただ、巫女として責務をきちんと果たしてもらわないといけない、と……」

「あれは龍を利用し、村を乗っ取ろうとする裏切者なんだよ?」

「…………っ」


 裏切者、という言葉でライヒ様は明らかな動揺を見せる。

 貿易家系の人間として致命的なことに、このお嬢様は嘘も隠し事も下手だった。

 黙り込んだ娘の様子を見て、ブルクハルト様は何かを察したように「……なるほど。なるほど」頷き、亀裂のような笑みを顔に走らせた。


「あの汚らわしい小娘か、龍神を自称する野蛮人に何か吹き込まれたんだね?」

「――ッ!」


 柔らかな声色で問われて、ライヒ様は恐れるようにドレスの裾を握り、目を見開く。

 大事大事に育てられてきたお嬢様は、自分の両親が異形に変わってしまったかのように恐る恐る口を開いた。


「おとう、さま……」

「うん、なんだい?」

「巫女家系が龍神様を利用して村を乗っ取ろうとしているというお話……あれは、本当、なのですよね……?」

「……」

「……キリノのお母様は……事故によって命を落とした。の、ですよね?」

「……」

「キリノは誰かの策略や私怨なんかではなく、村を裏切った自らの行いによって正当な罰を受ける、の、ですわよね……?」

「……」

「ですから……正当な罰なのですから、まさか本当に処刑なんてしない、です……わよね……?」

「……」

「そうですわよね、おとうさま……っ?」

「ふむ。なるほどね」


 俯き、目を閉じて「なるほど、なるほど」とまた繰り返す。

 そして。

 再び顔を上げた父の表情を見て、ライヒ様は声なき悲鳴を上げた。



 …………。


「まあ、可愛い娘の頼みだ。豊穣祭の日にはあの巫女を解放してやるとするか」

「……」

「本当に、ライヒは純粋な娘だよ。そう思わないか? ユリ」


 娘が珍しく閉め忘れていった扉を眺め、ブルクハルト様は言った。

 その様は理解できない娘を憂いているようにも、自身の使命の高尚さに陶酔しているようにも見えた。


「ええ。そうですね」

「無垢だからこそ私はあの娘が可愛くて仕方ないんだが……さすがに大事に育て過ぎたようだ。君のように強く、優秀であってほしいというのが親心だけど、子育てとは上手くいかないな」

「ご主人様に責はないかと」

「ああ、そうさ。すべてはあの巫女のせい……よくもここまで次から次へボロボロと汚物をまき散らせるものだよ」

「まったくです」


 適当にご機嫌取りの相槌を打ち、「また罰を与えないとな」と呟く主に当番があることを告げて部屋を出た。

 扉を閉め、一つ息を吐いてから次の仕事へ向かう。


 親子でいろいろ話していたが、なんのことはない。

 要は、『巫女家系が村を乗っ取ろうとしている』などという噂は貿易家系が流布した真っ赤な嘘で『実際は貿易家系こそが龍信仰文化を潰そうとしている』というだけの話。

 そしてライヒ様は、敬愛する両親の裏の顔に取り乱し、どこかへ走り去っていったと。

 詰まるところ、ただの親子喧嘩を見せられたに過ぎない。


 龍神様が突如姿を消したのは意図したものではないらしいが、永い村の歴史で起きた初めての珍事を、我らがご主人様は運命だと感じているようだ。


 主は、代々引き継がれてきた使命という名の妄執に憑りつかれている。

 “魔物は人類の敵”

 その考えは確かに間違っていないように思えるが……。

 思い出すのは先ほどの一幕。


『ライヒ。その場所に根づいた文化を覆すにはどうすればいいと思う?』


 両手で覆った顔。

 その指の隙間から覗く、ぎらついた目。


『享楽と疑いを植えつけてやるんだよ。今回でいうなら金と巫女への不信感さ。種を蒔いたなら、あとは時間をかけてそれを育てるんだ。ゆっくり、ゆぅっくりと……芽吹き、土の下で伸びた根が雁字搦めにするまで、ね』


 思い出すと今でも背中に寒いものが走る。

 私に向けられたものでもないというのに。


 ――深入りをする気はない。


 私はただ場の流れに従うのみ。

 私にとって重要なのは恋人である鍛冶家系のヤタロウさんだけで、他がどうなろうと知ったことではない。


 ただ厄介なのは。

 当のヤタロウさんが、キリノ様やヤト様に肩入れしていることなのだが。


「ヤタロウさんのお人好しにも困ったものです。そういうところも好きですが」


 誰にともなく惚気て、私はキリノ様の食事当番をこなすために牢屋を目指した。




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