「はぁ、はぁ、はぁ……」
父の部屋から逃げ出して、どれだけ走っただろう。
ヒールを履いていたから感じる疲労に見合った距離ではないのかもしれない。
少なくとも振り払いたい先刻の記憶は、まだ頭にへばりついていた。
『まったく、この村の奴らはイカレてるよ。あの利用するならともかく龍神様などと持て囃して本気で信仰するなどと』
『じゃあ、巫女家系の裏切りの噂は……嘘、ですの……?』
『嘘じゃないさ。事実、魔物に頭を垂れるなんて人類に対する裏切りでしかないだろう。だから私たち貿易家系は代々、信仰の旗印となる巫女をターゲットにしたんだから』
父が私の知らない表情で語った内容。
魔物信仰を潰すためにあらゆる手段を用いて旗印である巫女家系を陥れようと画策してきた。
それが私の生まれた家――貿易家系の真実。
『……そんなの、あんまりですわ……』
『おいおいライヒ。君だって一緒になってやってきただろう? 特に君の幼馴染、当代の巫女に対しては率先して虐め抜いてきたじゃないか』
『わ、わたくしはっ! キリノがわた、村を裏切ろうとしているって聞いてっ、許せなくて――!』
『義憤によるものだからノゥ、カウントゥッ!』
『っ⁉』
『……とでも言うつもりのかな? 理由をどう繕ったって、結局彼女たちを虐げた事実は変わらないのに』
「――ッ」
叫びだすのをすんでのところで堪え、体を強張らせた拍子に足首に鈍い痛みが走って蹲る。
どうやらヒールで走ったせいで軽く捻ったらしい。
どうしようかと周囲を見回し、そこでようやく自分がどこにいるのかに気がついた。
私の目の前にあるのは、こじんまりとした巫女家系が代々住む家。
疎ましく思っていた、幼馴染の家だった。
「わたくし、なぜ……」
キリノの家は人目を避けるように村の外れ、祠のほど近くに建っている。
夕日に照らされ紅く染まっている家に、キリノは当然いない。
あの娘は今、暗く湿った牢に囚われている。
ぼうっと眺めていると、ふと家の傍らに誰かが立っていることに気がついた。
「……ヤト様?」
「誰かと思えばおまえか」
私の家に幽閉されているはずのヤト様だった。
「そんなところで蹲って何をしている。怪我でもしたのか」
「足を――いえ、なんでもありませんわ」
なんとなく痛みを訴えるのが恥ずかしいことのように思えて、言いかけていた言葉を呑みこんでヤト様のもとへと歩み寄る。
彼は夕日を浴びるように両手を広げ、キリノの家を眺めている。
「ヤト様、どうやってここに……」
「さあ、どうやってだろうな。おまえの知らない、やり手の協力者でもいるのかもしれんぞ」
にやりと笑う。
悪戯っ子のようなその笑みに、こんな時でも胸を高鳴らせてしまって私は染まる頬を夕日で誤魔化して気を引き締め直す。
「……何をしていらしたのです?」
「ここでは何もしていない。ただ夕日を浴びながら、この家を眺めていただけだ」
「眺めていた、ですか?」
「ああ。……たかだか半月も経っていないだろうに、この家での生活をやけに懐かしく感じてな」
家を眺める彼の細めた目が、心なしか柔らかいように思えて。
さっきまで高鳴っていた私の鼓動はすぐに、不穏な影に包まれる。
「……ヤト様は、ここでキリノと二人で暮らしていたのですよね」
「ああ」
「あの、家では、その……どのように過ごされていたのでしょうか……?」
チリチリと心にできた焦げつきが、口の中に苦みを残す。
幸いヤト様は気づいていないようで淡々と話し始めた。
「大したことはしていない。キリノが作った飯を食い、食器を洗うのを眺め、手伝えと小言を言われ、意味のない口論をし、いやいや手伝い……おそらく人間がおおよそ想像する普通の生活だ。俺にとっては新鮮だったがな」
「お料理……」
なんでもないことなのに、胸につかえる。
さっきまでの後ろめたさはどこかへいってしまっていた。
「……キリノが作るお料理は、どうでした?」
「ん、なんだ。気になるのか」
「い、いえ、別にっ」
妙に引きつる顔を見られたくなくて、私もヤト様と同じ方向に顔を向ける。
今では規制の厳しい世界樹の木材を用いて作られた巫女家系の家屋は、古めかしくも頑強で厳かな雰囲気を感じる。
「そうだな……人間が一般的に食す料理の感覚は知らんが、そのまま食らうよりは美味いと言っていいだろう。あと、俺の好みに合わせてレシピを調整する程度はできるようだな」
「――……そう、ですの。さすが、巫女様はなんでもできますのね」
言い放った口の動きはよく私に馴染んで、自然と冷たい笑みを形作る。
いつもキリノはそうだった。
どんなことも涼しい顔で乗り越えていく。
……名ばかりの“わたくし”とは正反対。
「……父に噂のこと、聞いてみましたわ」
「奴はなんと言っていた?」
目を鋭くするヤト様に、父から聞いたことを一通り伝える。
すべて話し終えると、彼は一言「やはりそうだったか」と呟いた。
「わたくし、何も知りませんでしたわ。家族のことなのに、ずっと……」
「隠されていたのなら、仕方ないとは思うがな」
「でも――っ」
咄嗟に紡いで、私は今なんと続けようとしていたのだろうと考える。
考えて。考えて気づく。
少し悩んで、結局私は口にした。
「きっとキリノなら……もっと早くに気づいて、上手く立ち回っていたのでしょうね」
噛みしめた唇の隙間から漏らした言葉。
ここへ来るときに感じていた後ろめたい気持ちは引っ込んで、ドロッとしたものが胸に溜まっている。
……そうしてようやく自分が抱えていた気持ちの正体に気がついた。
「本当に、妬ましい……っ」
……そう。
ずっと、私は嫉妬していた。
「おまえがキリノを妬むのか? 散々キリノを未熟だと罵っていたおまえが?」
「……本当のキリノは、未熟なんかではありませんわ」
ヤト様に知られるのは嫌だけど、言ってしまったものは仕方ない。
どうせこの方は私のものにはならない。
だって、キリノが傍にいる。
だから、もういい。
「歳の頃に合わない重責を背負い続けて手が回らないだけですわ。……それをぼうえ――わたくしがさらに邪魔して、歪め、村の者たちもそうと信じ込んだだけ」
「…………」
底知れぬあの娘が腰を据えて動き出せば、私に勝ち目なんてない。
ならば、いっそ。
「……わたくしは、キリノを。……昔から何をされてもまるで風のように全部受け流して、ニコニコ笑って何にも頓着しないその余裕が妬ましいと……ずっと、思っていました」
「だから、おまえは嬉々として虐げてきたと」
「……ええ。わたくしは……私はそういう女です」
肩の荷が下りた心地になって笑う。
行くところまで行ってしまえば、晴れやかですらあった。
「ふふ、我ながら最低ですわね。ヤト様も、そう思うでしょう?」
私の告解を聞いたヤト様は、しばらく考えた後に一つ頷いた。
「ふむ。人間とはまこと愚かな生き物だな」
「……。それだけですか?」
自分が言ったことの身勝手さくらいはさすがに理解している。
いくら人に頓着しないヤト様とはいえ、侮蔑の一つやあって当然かと思っていたのに。
「俺に何か、他に言ってほしいことでもあるのか」
「そんなこと、ありませんけど」
「なら俺が口出しすることではない」
そう結んで、ヤト様はまたぼうっと家を眺め始めた。
他人に頓着せず、こだわらない彼の在り様。
キリノの姿が重なる。
ヤト様とあの娘はどこか似ている。
「…………」
だとして。
私は今、ヤト様に何を求めていたのだろう。
「……」
「……」
もうすぐ日が沈む。
茜色の空に群青が混ざり始めている。
……何か消化不良を感じている。
全部さらけ出したはずなのに、まだ輪郭を掴み兼ねている何かがわだかまっている。
私は胸の内をヤト様に打ち明けて、いったい何がしたかったのだろう。
「ああ。そういえば」
ふと。
ヤト様が呟いた。
「キリノに壁の塗装を頼まれていたのを忘れていたな」
「……塗装、ですか?」
ヤト様の言葉でなんとなく壁に目を向ける。
白く塗られたそれは風化によって塗装が落ち、裏側の木目が透けている。
日が落ち始めたせいでわかりづらいが、その木目の並びはやけに無秩序なように見える。
「……?」
違和感を覚えて目を凝らし。
「……ぁ」
そして気づく。
……これは。
木目ではなくて――
「定期的に塗り直さないと、消したはずの罵詈雑言がまた浮き出てくるのだそうだ」
「……っ」
この家に落書きをされているところなら何度も見たことがある。
私は加わらなかったけれど、だからといって止めることもしなかった。
次の週にはまっさらな白に塗り替わっているものだから、すぐに記憶から抜けていった。
「普段は弱っている時にそれが見えると、さすがにしんどくなると言っていた」
「……そ、うです、の」
いくら消しても。
いくら塗り直しても。
染み込んだ罵詈雑言はすでに内側にまで達し、ふとした拍子に再び浮き出てくる。
「何度もやられたせいで、もう完全には消せないらしい」
「…………」
頭を殴られたような心地のまま、壁を指で軽くこする。
必死に保っていた平静は容易く剥がれ、内側にしまい込んでいた黒色を晒した。
よく目を凝らせば、まだ無事な白色にも薄っすらと下劣な模様が浮かんでいる。
「…………ぁぁ」
キリノはいつも笑っている。
何を言われても、何をされても。
歯牙にもかけず、すぐ立ち直る。
誰に対しても平等で。
キリノは、いつも笑っている。
「ああああぁぁぁぁ……っ」
両親の嘘を知り、私がこんなに取り乱してしまった理由。
変わってしまうのを私が恐れていたわけ。
ヤト様が傍にいることも忘れ、壁に手をつき、頭を打ちつけ、縋る。
「わたくし……っ、わたし、は――っ」
『ねえ。あなたは、どうして平気なの?』
『どうして……とはどういう意味ですか?』
あの日。
いつも遠目に見ていたあの娘に、初めて話しかけた日。
別に仲良くなりたくて近づいたわけではなかった。
ただ気になって仕方なかった。
私が必死になっている横で、あの娘はどんな困難も涼しい顔ですり抜けていくから。
私はそんなキリノに――
私はようやく。
自分の本当の気持ちと。
そして愚かな勘違いに辿り着く。
「ううぅぅ、うあぁぁ――っ」
『みんなから嫌なこと言われて、どうして笑っていられるの?』
『……。そうあろうと振る舞っていれば、いつかそうなるものですよ』
『そういうもの? だからあなたは笑っていられるの?』
『……ええ、はい。だからライヒ様も高貴なお方として振る舞っていれば、いつか本当にそうなれるんじゃないですかね』
『……ん、じゃあやってみようかな。いえ、ええと……やってみよう、かしら?』
『あはは、いいですね。その調子です』
些細なやり取りだったけれど。
あの日、キリノは決して特別なんかじゃないと知り。
そして、私の特別になった。
『これ、あなたにあげる』
『はい……? わ、時鉱石を使った懐中時計だぁ。いいんですかっ?』
『ええ、お父様の取引先からの貰い物だけど。私にはもう他に使っている物があるから』
『えへへ、ありがとうございます!』
『……あなたって、そういう顔もできたのね』
年下なのに大人びたあの娘に。
本当は年相応で、強くあろうとしているだけのあの娘の在り様に。
私は憧れ、そして真似た。
すべてに平等なあの娘の特別を勝ち取りたかった。
ライバルだって思ってほしかった。
始まりは、本当にそれだけだったのに。
「どうして、わたしは……っ」
巫女家系の黒い噂を聞かされ、奴らは敵だと教えられるうち。
何度も何人からも繰り返し同じことを聞くうちに、バカな私はそうなのだと信じ込んで都合の悪い記憶にだけ蓋をした。
……こんなの、言い訳にもならないけれど。
「どうして――……っ」
“笑っているから平気なのだろう”
そんなわけがない。
当たり前すぎるくらいに当たり前で。
何より私は、あの娘と話してそれを知っていたはずなのに。
「わたし、はぁ、どうしてぇ――……ッ!」
「……俺から言うべきことなどない。おまえと言葉を交わすべき者がいるとしたら、それはキリノだろうが」
ヤト様が見下ろすなか、私は日が完全に暮れるまで無様に泣き叫び続けた。
その間、謝る言葉だけは一度も発さなかった。
自分でもどうしてか掴み兼ねていたけれど。
ただ。
それだけはしてはならないと、頭のどこかで声がしていた。