キリノの家を訪れてから翌々日。
私は再び我が家の下部に隠されていた牢獄を訪れていた。
私自身あの場所に何か用事があるというわけではなく、ヤト様にとあることを頼まれたからだった。
「お久しぶり、でいいのかしらね」
「……ライヒ、様」
囚われ続けているキリノはベッドの上で蹲っていた。
前ここへ来てからそんなに日も経っていないのに、少しやつれたように思える。
「……何かご用でも?」
キリノは体を起こして、キッとこちらを睨みつけてくる。
態度こそ強気だけれど、その瞳はどこか茫洋としていて覇気がない。
もしかしたら体以上に精神的なところが参っているのかもしれない。
「別に。ただ、ヤト様に届け物を頼まれたから来ただけですわ」
「届け物?」
私は後ろ手に持っていた革張りの本と一本の小枝を格子の隙間からキリノに渡す。
「……まだあったんだ」
「ヤト様からの伝言だと『日記はこれで最後』だそうですわ」
「そうですか」
「あと、『どうせこの前ユリに届けさせた方は読んでいないのだろうが、こっちは必ず読んでおけ』とも言ってましたわね」
「……わかりました」
「……。一応先に言っておきますけれど、わたくしは読んでませんわよ。そんな下賤な趣味はありませんの」
「……」
私の弁解を聞いてないのはこの際どうでもいいとしても、日記を受け取ったキリノはあまり嬉しそうには見えない。
それどころかむしろ痛みを堪えているようにも思えて、思わず私は尋ねていた。
「嬉しく、ありませんの? お父様の日記なのでしょう?」
「……あなたに私の家族のことを口にしてほしくありません」
「な――ッ、……」
長年染みついた癖で反射的に反論しかけたけれど、どうにか表に出る前に抑え込む。
弱っているこの娘に向かって怒鳴るような真似をせずに済んでほっと一息。
そんな私をキリノが一瞬見て、すぐに手元へと視線を落とす。
「こっちの小枝はなんです?」
「……さあ? 耐え難くなったときに振ってみろと言ってましたけれど」
「そうですか」
「……」
「……」
「振ってみませんの?」
「……いいです。まだ耐えられるので」
「そう……」
とてもそうは思えないけれど。
浮かんだ言葉は口にしなかった。
「……」
「……」
沈黙が重い。
私が噛みついて、キリノが笑って流して。
そんな会話が常だったからどう話したらいいかわからない、というのもあるけれど。
キリノに対して、どういう自分でいればいいのかがわからない。
この前牢から解放したヤト様と話した時は、不器用な私は今までどおりの“わたくし”を演じるしかできないと開き直った。
――でもそれは、今までこの娘を傷つけてきた自分を肯定するということ。
キリノの家に赴き、目を逸らしてきた事実を真正面から受け止めた今。
高飛車でイヤミな女のままで、なんて口が裂けても言えない。
「……」
なら謝れば、と考えたりもした。
でもそう考えるたび直感に近いところで警鐘が鳴り響き、実行を許そうとはしない。
私はもう、自分がわからない。
「……キリノ。あなた、豊穣祭当日になったらここから解放されるという話はもう聞いたのかしら?」
長く続く沈黙に耐えきれなくなった私は、苦し紛れにそんなことを聞く。
さっさと帰らなかったのはヤト様の言葉が頭に残っていたからだった。
『……俺から言うべきことなどない。おまえと言葉を交わすべき者がいるとしたら、それはキリノだろうが』
感覚で捉えていた使命感が明確になった気がした。
そう、私はキリノと話さなくてはならない。
自分がこれからどうするべきか、この娘に何ができるのか。
消去法ではなく、自分の手で掴み取るために。
「ええ。あなたの母親から聞きました」
「そう……。お母様の意図は理解していて? あなたを解放するのは、決して温情ではありませんわよ」
「そうでしょうね」
愛想笑いでも、怒りでもなく、淡々とキリノは頷く。
少し虚ろではあるけれど、その所作はきっと本当のこの娘に近い。気がする。
「私のことを晒し者にしたうえで、正規に私を処分できる口実が欲しいのでしょうね。舞踊ごときで龍神様が戻るなんて信じてないでしょうから。ついでにヤト様のことも一緒に」
「……」
「……」
「わかっているのなら、どうして何もしませんの?」
言うか迷って結局口にした言葉に、案の定キリノは「どの口が言うんですか」と呟いた。
「私だって何かできることをって、考えましたよ。……けど、こんな場所で何ができるんですか?」
「……それは、豊穣祭のお稽古とかあるでしょう?」
「……私だって最初はしてましたよ。でも祭具もない、数歩歩くのが精いっぱい、こんな狭い場所で練習してどうなるっていうんです?」
かなり参っているのだろう。
こんなにも卑屈な顔で弱音を吐くキリノを、私は初めて見た。
「練習したって、かえって動きが変になるだけです」
吐き捨てるように呟く。
……この娘は私なんかよりよほど頭がいい。
きっと私が思いつくことなんてとうの昔に考えたんだろう。
だからこそ先も想像できて……そして何をしても無駄だという結論に至った。
ずっとこの娘にこだわってきた私なら、想像に難くない。
「それでライヒ様、まだ何かご用でも?」
「……っ」
理解できる、のに。
らしくない薄ら笑いとともに問うてくるキリノを見ていると、だんだんこみ上げてくるものがある。
原因はわからないけれど、正体なら知っていた。
「あなたのお母様みたく、私に八つ当たりにでも来たんですか?」
「――っ」
「好きにしてください。どうせ私は何もできないので」
この慣れ親しんだ感触は、悔しさだ。
私は今、どうしてか悔しいと思っている。
「別にっ、あなたに指図される筋合いなんて――」
長年染みついた癖で好戦的なセリフを言いかけ、理性が喉をきゅっと締めた。
普段なら迷いなくキリノにぶつけていたけれど、今となってはできるはずもなくて。
「……っ」
振り上げてしまった激情。
その矛先に惑った末――
「――んもぉっ!」
「え……」
私は駄々っ子のように、泥だらけな石畳の床に座りこんでいた。
「~~っ!」
みるみるうちにドレスや畳んだ足に履いた靴下が水気を吸って、臀部を中心に嫌な冷たさが伝わってくる。
すぐに自分の行動を後悔したけれど、今さら立ち上がるのも恥ずかしくて、私は無理やり不快さを無視してそのまま鉄格子に背中を押しつけた。
「……」
ちらと視線を向ければ、いつもお高く止まっていたキリノが目を丸くしてこちらを見ていた。
少しだけ、胸がすっとした。
「何かしら?」
「いやドレスが――、……いえ、別に」
ふふん、と問い返してやれば、何か言いかけたキリノは言葉を引っ込めてそっぽを向いた。
一瞬ぶすっとした表情が見えて、私は言い知れぬ達成感に包まれる。
満足げなのが背中越しでも伝わったのか、呆れたようなため息が聞こえた。
「……なんで座ってるんですか?」
「なんでもいいでしょう。ここはわたくしのお家なのですから、あなたに指図される筋合いありませんわ」
「あなたがいると落ち着かないんですけど」
「わたくしのことはお構いなく。どうぞお好きにくつろいでくださって結構ですわよ」
「……よく言うよ。いつもは見かけたら話しかけないと怒ってくるくせに」
「なぁっ、適当なこと言わないでくださるっ? わたくしがキリノなんかに無視されたくらいで怒るわけありませんわ!」
「ああ、そうだったね。適当に難癖つけて別のことの体でねちねち絡んでくるもんね」
「被害妄想も大概にしてくださるっ? いっつも全部わかってます、みたいな顔をしているくせに見当違いも甚だしいですわよ!」
「別に全部わかってる顔なんかしてないでしょ⁉ わかんないことしかないよ! この前ライヒが突然ここに来て失くした私の時計投げつけてきたかと思ったら、自分でもなんで私を探したのかよくわかんないとか言い出した時とかさぁ!」
「あれは――!」
言葉に詰まった一瞬の間を突くように扉をノックする音が聞こえた。
多分扉の外で待っている同行人が言い争っているのを聞きつけたらしい。
「――……」
冷静さが下りてきて。
いつの間にかキリノと睨み合っていたことに気づく。
そして。
「……」
「『あれは――』、何?」
ノックが聞こえなかったのか、些末事を気にしてられないほど怒っているのか、すぐ目の前で私を睨むキリノ。
その顔についた拭い損ないの汚れが泥だけではないことにも。
「……」
同じ野菜の切れ端が彼女の足元にも散らばっている。
自分が食べるはずだったスープか何かをぶちまけられでもしたのか。
……母親が時折ここへ来ているらしいというのは、知っていたけれど。
「――っ」
「ち、ちょっと。なんでいきなり黙る、……の、ですか……」
「なんでもありませんわ」
急速に高揚していた気持ちが萎んでいく。
私は我知らず握っていた格子から手を放し、再びキリノに背中を向ける形で腰を下ろす。
「……あなたにも、腹が立つという感情がありましたのね」
「はぁ? 当たり前じゃないですか」
「ふふ……」
辛うじて吐いた憎まれ口に、言い合いの余韻が残る温度の高い返事をされて口元が緩んでしまう。
キリノの「なんなんですかもう」という牙の抜けたような呟きと、ベッドの軋む音が聞こえた。
「……どうして腹を立てているのなら、わたくしにやり返そうとしませんでしたの?」
私が問うと長い沈黙が返ってくる。
やがて、ため息が聞こえた。
「やり返したら、終わりにしてくれましたか?」
「…………」
ぐうの音も出ない。
さっきの言い合い、楽しかった。
向こうからしたらたまったものじゃないだろうけど、お互い対等な立場で喧嘩できている気がして。
だから直前悩んでいたしがらみも忘れ、つい熱が入ってしまった。
……でも。
「っ!」
膝に顔を埋める。
足に付着していた泥が顔になすりついて、土の独特な臭いとかび臭さが鼻を突く。
きっとキリノの方はとっくに慣れてしまって何も感じない。
「……。一応、事情は聞きました」
ぽつりとキリノが言った。
「ライヒ様は村の人と同じく、私たち巫女家系の人間が悪だくみをしてるという噂を信じ込まされていたのだと」
「……ええ。ここであなたから聞かされたことを両親に問い詰めたら、すべて打ち明けられましたわ」
「はい。だからブルクハルト様とドロテア様こそ私の母を殺した主犯であり、ライヒ様は関与していない。そういうことですよね」
「……」
「……だからといって、今までされてきた仕打ちを赦そうだとか、そういう気にはまだなれませんけど」
夕日に染まるキリノの家。
何度塗り直しても落書きが透けてくる壁を思い出す。
――キリノに今までのことを謝りたい。
ずっと頭の真ん中に焼きついて離れないのに。
もう一人の私は、やはりそれをさせてはくれない。
「……」
「……はぁ」
何も言わない私にキリノは小さく息を吐くのが聞こえた。
まるで何かを諦めるみたいに。
周囲には気づかれないように気をつけていたようだけど、私はこの娘がそうするのを何度となく見ていて、そしてその後どうなるのかを知っていた。
「ライヒ様。ヤト様に頼まれた用事が終わったなら、なぜまだ戻られないんですか?」
私が想像した未来をなぞるように、心なしか柔らかくなった口調でキリノは問う。
「…………」
「私に、何か言いたいことでもあるんじゃないですか? 何もないのに、こんなところにいつまでもいようなんて思わないでしょう?」
ゆっくりと言い聞かせるような言い方をされて。
理性の手を掻い潜って先頭に立ったのは、苛立ち。
――ああ。
その瞬間、私は頭ではなく心で理解する。
なぜ自分はここへ来たのか。
つまり……自分はキリノとどうなりたいのか。
ずっと悩んでいたのが嘘のように、キリノと話しているとその輪郭が鮮明になっていく。
――私はもう、キリノが嫌いなんだ。
この娘に憧れていたんだと気づいても。
この娘に関する噂が勘違いだったのだと知っても。
今まで自分がしてきた仕打ちに罪悪感を抱えていても。
長く抱えてきてしまった気持ちは、今さら簡単には変えられない。
「別に。用事なんてありませんわ」
「……そうですか」
つっけんどんに返しても、キリノは困ったように笑うだけで私の身勝手を指摘しなかった。
枝葉が風を流すような振る舞いが、また私の中の悪感情を育ててしまう。
「……もう、どうしようもありませんわね」
「?」
笑うしかない。
キリノからしたら身勝手極まりない話だけれど、この気持ちは偽れない。
私はそんなに器用じゃない。
『……そうあろうと振る舞っていれば、いつかそうなるものですよ』
――確かに、あなたの言うとおりでしたわ。
私は膝に埋めていた泥だらけの顔を上げる。
散々回り道したくせに、至った結論は結局この前と同じ。
……いかにも私らしくて、いっそ笑えるくらい。
「……ねえ、キリノ」
「はい?」
『ライヒ様も高貴なお方として振る舞っていれば、いつか本当にそうなれるんじゃないですかね』
『……ん、じゃあやってみようかな。いえ、ええと……やってみよう、かしら?』
『あはは、いいですね。その調子です』
あの日掲げた理想とは程遠い、下卑た侮蔑の笑みとともに。
私はキリノに言い放った。
「もしかしてあなた、わたくしが赦しを乞いにきたとでも思ったのかしらぁ?」