「もしかしてあなた、わたくしが赦しを乞いにきたとでも思ったのかしらぁ?」
キリノの驚いたような、傷ついたような表情を見て確信する。
やっぱり。
私は、にやぁっと卑しい笑みを形作る。
「さすがはお優しい巫女様ですわねぇ。でもとんだ勘違いですわよぉ」
多分この娘が思うより、私はこの娘のことを知っている。
キリノは表面こそいいけれど、案外捻くれ者で、悪知恵が回って……そしてやっぱり誰かを見捨てることができない娘。
「当てが外れて残念でしたわね、キリノ」
きっとこの娘は言葉とは裏腹に、私が罪悪感を抱えていることを見抜き、今の今まで私を赦そうと考えていたはず。
さっきのため息は何かを諦めるときによくするキリノの癖で、何かを――おそらく私への憎しみを手放そうとしたもの。
そのくらい、簡単に見当がつく。
「このわたくしが、あなたに謝るはずないでしょう?」
なぜなら私はキリノをずっと見てきたから。
私の目の上のたんこぶで。
……私の、ずっと変わらない憧れだから。
「私はただあのお高く止まっていた巫女様が、今狭くて汚い牢屋の中でどうしているのか見にきただけですわ」
「っ! ……へえ、そーですか」
綻んだ巫女様の仮面の隙間から、唇を噛みしめたキリノが見える。
その鋭い視線は確かに私の心を貫くけれど、侮蔑の笑みは意地でも崩さなかった。
「じゃあ大嫌いな私が、泥だらけになって不貞腐れてるのを見られて満足でしょうね」
「……いいえ、全然」
捨て鉢になって吐き捨てるキリノに、私は口の端をひくりとさせた。
「がっかりですわ。巫女家系のキリノ」
「何が、ですか?」
「あなたって、その程度でしたの?」
「――っ」
高飛車なご令嬢、貿易家系のライヒにとって。
巫女家系のキリノは終生のライバルで。
向こうが自分より格上だと気づいていて、でも素直に認められず醜く嫉妬している。
だからこそ、その相手が堕落していくなんて終わり方は絶対に許せない。
それがわたくしであり、私。
「わたくしは、どうせ図太いあなたは折れもせずバカ真面目にお稽古しているだろうから、それを見て嗤ってやろうと思っていたのに……」
本当は図太くなんかなくて、この娘が傷ついていることを知っている。
けれど、そのことを考慮したりはしない。
「いざ来てみれば、いじけて寝ているだけ。挙句の果てにはわたくしがキリノ如きに謝りに来たなんて勘違い……。それってただあなたが謝ってほしいだけでしょう? それでわたくしに赦してやるからどうにかして~と泣きつくつもりだったのかしら」
「ッ!」
「あら、もしかして図星でしたの? これでは本当に出来損ないと呼ばれても仕方ありませんわねぇ」
キリノの黒い瞳に、紅蓮が燃える。
ああ、もう少し……。
予兆を感じて思わず上がってしまった口角を、嘲りに転化してなおも挑発を続ける。
「はあぁっ……本当に。ほんっと~にがっかりですわ」
「……」
「ここまで散々嫌がらせに耐えてきたのでしょう? あなたにとって、今この時が、ようやく迎えた正念場なのでしょう? わたくしたちに一泡吹かせる絶好の機会なのでしょう?」
「……っ」
「そんな大事な時に……あなたは、いったい何をしているんですの?」
ただひたすらライバルに強くあれ、と。
高飛車な私は、身勝手な望みを叩きつける。
「――なるほど」
ここまで沈黙を保ってきたキリノが、ぽつりと呟く。
冷めた諦観ではなく、熱く滾る熱に震える声。
「確かに勘違いしていました」
誰も知らない奥底の牢獄で。
今、一人の演者が静かに奮い立つ。
「……貿易家系のライヒ様」
生涯をかけて磨いた理想の似姿を被り――
「あなたは、“そこ”でいいのですね」
――あの娘が、龍巫女が再び帰ってくる。
「――っ。あら、なんの話かしら?」
「……わかりました」
泥に塗れてもなお、強く気高いその在り様。
その巫女の強い意志を感じる黒曜石の瞳。
見据える先は、悪逆非道のご令嬢。
「……確かに。ここで折れるのはあまりにもったいない」
「ようやく気づきましたのね、おバカさん」
憧れた存在の再臨。
抑えきれない興奮で零れる笑みをすべて悪意へと変換し、私は相対する。
「一応、気づかせてくれたことには感謝します」
「ええ本当に。今すぐ額をその汚らしい床に擦りつけて平伏してほしいくらいですわ」
「……。ライヒ様」
「何かしら?」
逡巡は一瞬。
垣間見えたぐずる幼子のように歪む顔は、すぐに大人の表情で塗り直し――
「私は……あなたが嫌いです」
迷いを断ち切るように、キリノは言った。
散々な仕打ちを受けてなお、一度も口にされなかった言葉。
「――! へえ、そう。何を今さらなことを言っているのかしら」
……そうよ、キリノ。
私たちはこれでいい。
「わたくしだって、あなたが嫌いですわよ。大っ嫌い!」
赦したりなんかさせてあげない。
憎しみを呑みこませたりなんかさせてあげない。
あなたは悩むことなく、ただ私を恨んでいればいい。
「なら、お互い嫌い同士で語ることなんてないでしょう。もういい加減帰ったらどうですか?」
「言われなくてもそうしますわよ」
――もう、キリノは大丈夫。
確信を得た以上、もうここに用はない。
売り言葉に買い言葉で私は踵を返す。
「ではごきげんよう。……豊穣祭、精々頑張ることね」
歪だけれど。
これが今の私にできる、精一杯の対等。
「言われなくても、そうします」
憎たらしい意趣返しが、心地よかった。
◇ ◇ ◇
「おまえたちの間で、納得はできたのか?」
重い扉を閉じて、帰る道すがら。
ヤト様の問いに、私は笑って「ええ」と頷いた。
「結局、わたくしはわたくしでしたわ」
「当たり前だろうが」
「うふふ。ええ、当たり前ですわね」
この前は“貿易家系のライヒ”を演じるなんて、決意したけれど。
もともと自分と役柄を切り分けられるほど、私は器用な女じゃなかった。
「……本当にバカなのは、わたくしの方」
わたくしがキリノを嫌いなら、私もキリノが嫌い。
私がキリノに憧れているのなら、わたくしもキリノに憧れている。
そしてどちらも、キリノに強くあってほしいと願っている。
「ねえ、ヤト様」
「なんだ」
「……絶対、お祭りまでには龍神様へお戻りくださいね?」
こんな小さな村の諍いに呑みこまれるような娘じゃないと。
今も祈り、信じている。
「ほう。貿易家系のライヒともあろう者がずいぶんとお優しいことだな」
ヤト様の皮肉に、私はごく自然に嗤った。
「あら、嫌ですわヤト様ったら。何を勘違いしていますの?」
両親がしつらえた陰謀という舞台の上。
私は私自身のままで彼の前へと躍り出る。
「別にキリノのためではありませんわ。だってそうでしょう?」
そのままくるりと回って、ウインクとともに笑いかける。
いかにも大仰で芝居臭い仕草。
「村の者ほとんど全員がわたくしたちを尊敬し、崇拝し、言いなりになっていて、わたくしたち家族は贅沢三昧」
「……」
「こんな素敵な環境、崩したくないと思うのは当たり前ですわ」
「ふん。まるで自分たちが高尚な存在にでもなったかのような言い草だな」
私は、キリノが嫌い。
だから今さら謝ったりなんかしない。
そうしたらあの娘は、今までの恨みを全部呑みこもうと頑張ってしまうから。
熱に焼かれながら、痛みに呻きながら、必ずやり遂げてしまうから。
――そんなご立派なこと、させてあげない。
「……うふふっ」
キリノにとって、私はただの敵でいい。
ここでいいのだと。
誰でもない、私がそう決めた。
「わたくしが高尚だなんて、それこそ当たり前ですわよ?」
石畳と樹木が絡む、暗く狭い通路。
誰も好んでは来たがらないようなこの場所で。
「だってわたくしは、誇り高き名家の一人娘……」
どれだけ叩こうが胸を痛めずにいられるような。
気持ちよくやっつけて、心置きなく次へと進んでいけるような。
「貿易家系のライヒなのですから」
そんな理想の悪役である私は一人、ふわりと笑った。