いよいよ豊穣祭まで、あと一日に迫った。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
耳が痛くなるくらいの静けさを切り裂くように、私は右手に握った鉾を振るう。
目がけるのは床やベッドにあらかじめ置いた標的――牢屋の壁に使われてる泥岩を崩した石ころ――だ。
「ふっ!」
――鉾は英雄の戦い、扇は龍をイメージ……っ。
左手の扇を舞わせながら自身も体を一回転させて、再び鉾を一閃。
切っ先が石を捉えたか確認する間もなくまた一閃。
「はぁ次は左、から、後ろ……っ」
記憶の中にある激しい振りつけを辿りながら、小さな牢屋を格子の隙間まで利用して本番に備える。
……明日祭りが始まれば。
私は舞踊――龍神式神楽を始めとする一連の舞――を披露するために解放される。
龍に仕える巫女として、舞踊によって龍神様を呼び戻すためだ。
会合で決定した『ヤトが本物の龍神様であるか見極める』という話も含め、もし村に守り神が戻らなければ……つまり失敗すれば私はヤトともども処刑される。
状況は少しややこしいけど、なんてことはない。
『龍神様が再び村に姿を現すこと』
要するに、それが私とヤトが生き残る絶対条件だっていうだけの話。
「はぁはぁはぁ、ぅ――……」
酸欠でくらくらしてきて、いったん立ち止まる。
この牢屋に入れられてどのくらい経ったか。
体力が落ちたせいで、休憩までの間隔はいつもより短くなってしまってる。
加えて、狭い部屋のなかでは満足に動き回ることもできず、不安は尽きない。
『わたくしだって、あなたが嫌いですわよ。大っ嫌い!』
……。
「……もうちょっと、だけ」
やらないよりは、きっとマシ。
大勢に見守られるなかで、わざわざ無様な姿を晒したくなんてないし。
震える膝を叱咤し、練習を再開する。
「はぁ、次……楔は、2、5、7の順番で――」
「なんだかずいぶん騒がしいわねぇ。いったい何をしているのかしら?」
「――!」
十分ほどしただろうか。
扉の開く音とともに声が聞こえて、想像で形作った鉾と扇が空気に溶けていく。
私は慌てて提灯の光を消し、その後すぐに現れたドロテアの姿を見て警戒心を最大まで引き上げた。
「はぁ、はぁ……ドロテア、様」
「そんなに息を切らして何をしていたのかって聞いているんだけど?」
「……豊穣祭に向けて、お稽古を」
「あらそうだったの。羽虫のように跳ね回ってずいぶん熱心ね」
「……」
「もしかしてそんなに必死に練習していながら毎年失敗続きなの?」
「……ええ、恥ずかしながら」
「そうっ、そうなの。出来損ないは大変だこと」
「……ですが。ありがたいことに今年はお稽古の時間をたくさんいただけましたから、今までで一番上手くやれそうです」
最近は後が面倒だから極力刺激しないようにしてたんだけど、少し気持ちが高ぶってたのか、つい口を滑らせてしまった。
案の定ドロテアが不愉快そうに眉を潜める。
「……ずいぶん威勢がいいじゃない。あの男がいなくなったことと何か関係があるのかしら?」
「あの男? ……ヤト様のことですか?」
「他に誰がいるというの?」
「……」
この女が意味もなく来るはずもないから、また八つ当たりでもしに来たのかと思ってたんだけど。
ヤトがいなくなった?
「あなたたち、今度は何を企んでいるのかしら?」
「……私は何も聞いていませんが」
「じゃあ少し前までぼろ布のようだったくせに、いきなり舞の練習なんかし始めたのはどういう風の吹き回し?」
「……別に何もありませんが。期限の日が近くなってきて、焦りを感じたからやっているだけで」
嘘を吐いてるわけじゃない。
ヤトのことを知らないのは本当。
練習だって余計な茶々を入れられるのが嫌だったからドロテアの前では何もしてなかっただけ。……サボってたのだって……ライヒが来るまでの何日かだけだし。
でも目の前の女は、当たり前だけど私の言葉をまったく信じていないみたいで。
顎に手をやって、何か考え事を始めた。
「…………」
この後の八つ当たりの方法でも考えてるんだろうなぁ……。
食事をぶちまけられたり水をかけられたり、いろいろされてきたけど全然嫌がらせのネタは尽きる様子がない。
この後何を言い渡されるのか考えるのも怖ろ「まあいいわ」しい……って。
「いい、とはどういう意味です?」
「そのままの意味に決まっているでしょう。駄目なりにせいぜい足掻いてみればどう? ……ふふ」
「…………」
急に機嫌がよくなったドロテアに、今度は私が考えさせられる番だった。
まさかのお咎めなし?
いやいやこの女に限ってそんなはず……。
頭にいっぱいの疑問符を浮かべて訝しむ私をよそに、ドロテアは本当に踵を返してさっさと帰ろうとしてる。
「本番、楽しみにしているわよ龍巫女。……もっとも、あなたが踊ることになんの意味があるのかは怪しいところだけれど」
去り際に言うだけ言って、不愉快なギギギって音とともに鉄扉が閉められた。
「……かえって不気味なんだけど」
実はまだ部屋の外にいて私のぼやきを聞きつけて戻ってくる……ってこともなくドロテアは帰ってしまったみたい。
……律儀にイヤミだけはしっかり置き土産に残して。
「私が踊る意味、ね……」
相変わらずあの人たちは嫌なとこを小突くのが上手い。
実際のところ、私が今お稽古をしてることに恒例行事以上の意味があるかは微妙なところにある。
ヤトが本当に龍神様だって信じるのなら、龍神様が村に戻るかどうかは彼次第ってことになるからだ。……そこに舞の成否は関係ない。
「まあヤトが龍に戻った時に私がやらかしてたら、今度は巫女不要論とか始まりかねないからね」
変につけ入る隙を与えないって意味ではこの練習もまったくの無駄ではないんだけど。
それにしたって自己防衛の域を出ないし、事態解決に貢献できてないって虚しさは拭えない。
「……けどしょうがないじゃん。他にできること思いつかないし」
じゃあ隙を見て脱獄を……って考えたこともあったけど。
そもそも私はヤトの自由行動を保証するための人質みたいなものだから、実行に移すわけにもいかない。
結局私にできることなんて、巫女としていつも通りの備えをするしかなかった。
「まっ、今さら考えたって仕方ないよね~」
努めて明るく独り言ちて、気持ちを切り替える。
一応ヤトの言ってることが嘘で、龍神様は別にいるって可能性もあるんだし。
どうせ他にやることもないなら、ちゃんと全力は尽くさないと。
もしヤトがただの嘘つきだとして。
龍神様さえ戻ってくれば、手助けしてくれたって言えば不問にできるかもしれないし。
「はぁ、もう今日は寝よっかな。よく考えたら前の日に無理したってろくなことにならないのは、去年のお祭りで痛いくらい思い知ってるし」
あまり考えすぎないように独り言を連ねながら、疲労に誘われるがままに体を横たえる。
暗いままで寝るのがなんとなく嫌で、また提灯の明かりを点けた。
ふと、枕元に置いてある本が目に留まる。
先日ヤトがライヒづてに届けさせてくれた、三冊目となる父親の日記だ。
「……せっかく見つけてくれたのに、ごめんね」
必ず読んでおけ、とヤトは言ってたらしいけど。
どうしても開く気にはなれなかった。
父が私たちどう裏切ってきたかを記した日記だ。
いくら私でも、平気な顔で読めるほど面の皮は厚くない。
代わりに私は日記の上に置かれた、どこにでもあるような細い小枝を手に取る。
日記と一緒に渡された、もう一つのヤトからの贈り物。
私は折れないように気をつけながら、その小枝で本の表紙を叩く。
効果はすぐに表れた。
「……」
表紙の上。
半透明な小さな人型のシルエットが浮かび上がる。
私に似た黒髪で、こちらに向けて人懐っこい笑みを浮かべてるその女性を。
「――っ」
私は、泣きたくなるくらい。
よく知ってた。
「……ありがとね、ヤト」
十秒ほど経って、その偶像が解けていったのを見送って、私は呟く。
――これは、彼からのメッセージ。
魔力とか魔法のことは詳しく知らないけど、多分原理は今この部屋を照らしてる提灯の中身――光鉱石と同じ。
きっと取り戻した力、魔力的なものをこの枝に込めたんだろう。
このメッセージがあるから。
ドロテアから『ヤトがいなくなった』って聞いた今も、まだ彼を信じていられる。
どうにか暗い気持ちを振り払うこともできる。
「……今頃何してるのかな」
ちゃんとふかふかのベッドで寝れてるのかな。
一人でどこかに潜んでるのか、誰かに匿ってもらってるのか。
睡眠オタクが災いして、その誰かと喧嘩してないといいけど。
「……ちょっとくらい、顔見せてくれないかなぁ……」
無理なのは重々承知だけど。
寝具へのこだわりとか、今ならいくらでも聞いてあげるのに。