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第37.5話 龍神式神楽


 観覧席から立ち昇る熱気に反して、静かに始まった龍巫女の神楽。


 とある少女は、それを注意深く見ながら、自分の担当する和琴を弾き始める。


 ――曰く。

 止まり木村の豊穣祭で披露される神楽は、人々が世界樹に至る前の神話時代を表現しているのだという。


 その構成は大きく分けて二つ。


 大空を羽衣のように舞う龍の美しさを賛美する、龍神式神楽。


 そしてもう一つは、地上における魔物との戦いの神話。

 その最中に龍と絆を築いたといわれる英雄が戦う様を表現する、比翼現人神の舞。


 今、止まり木村の龍巫女が披露しているのは、比較的穏やかな振りつけの多い前者だ。


 今回和琴の腕を買われ、演奏のために初めて他の枝へとやって来た少女だが。


 当初この少女は龍巫女……というよりこの行事自体に大した期待をしていなかった。


 それもそのはず、事前に『村で未熟者と有名な巫女が舞手だ』と聞かされていて、しかもいざ来てみれば巫女はおろか舞台すらもお粗末でみすぼらしいとなれば、依頼された行事の内容に興味が湧かなくなるのも、ある種当然の話だった。

 特に舞台の方は何かの事情で直前に場所が変更されたらしく、いかにも突貫で造られましたという感じで、心配になって思わず巫女に声をかけてしまうくらいの酷い有様だった。


 だから神楽が始まる前、巫女の口上で観覧席に妙な緊張が張り詰めた時も、内心では舞踊自体への関心などはなく、むしろ落下事故が起きたりしないかという不安の目で見ていた。……のだが。


「――、――」


 視線の先。

 自分とさほど変わらない年頃だろう巫女が、広大な茜空を背景に堂々たる舞を披露しているのを観ながら――


 和琴を奏でる少女は、見惚れそうになる己を必死に律していた。


 ――なに、これ……。


 今日を望むにあたって、自身の村で振りつけの予習は済んでいる。

 だから当然、龍神式神楽を観るのはこれが初めてというわけではない。

 なのに。


「は、ぁ……っ」


 少しでも気を緩めれば弦を弾く指を忘れてしまいそうになる。

 ともすれば、呼吸をすることすらも。

 視界が明滅し始めて慌てて喘ぐように息を継ぎ、愕然とする。


 ――あの巫女様の、どこが未熟なの……?


 巫女の体のそば、扇が美しくも繊細な軌道を描きながら昇っていく。

 容易に頭の中で浮かび上がる、世界樹に寄り添い空を駆け上がる龍の似姿。

 手首を捻り鳴らされる鈴の音が、神聖性を脳髄にまで染み込ませてくる。


 ――取り込まれそうで怖いくらい……。


 流れるような足取りは風と戯れる木の葉の軽やかさ。

 回るたび広がる袖は空を気ままに漂う白雲。

 揺れる艶やかな黒髪は夜闇と煌めく星々。

 巫女の体と動きすべてが一つの世界を形作り。

 観ている者を手当たり次第引きずり込まんとしてくる、技量に裏打ちされた凄まじいまでの表現力。


「――……」


 もはや声もなく。

 観覧席含め、観ている者全員が神話の中へ誘われていく。

 まさに、その時。


「ッ!」


 強い風が吹き、舞台が揺れた。

 巫女が一瞬バランスを崩す。

 パチンと泡が弾けるように偶像の世界が露と消える。


「――あっ」


 一瞬の余韻に惚け、我に返った。

 こっちで巫女様をフォローしないと、と慌てて主旋律を担う止まり木村の村長を見やる。


 神楽に指揮者はいない。

 加えてここの神楽は振りつけが独特かつ後半になるにつれ激しくなっていくから、舞手側に演奏に合わせる余裕なんてない。

 だからこっちが巫女様の動きに合わせてやる必要があるんだ。

 父からはそう聞いていたからだった。


「…………」


 しかし。

 石笙を吹くその老人は、巫女の様子を一切顧みず一定のリズムを刻み続ける。


 ――どうして、待ってあげないの?


 咄嗟に父や仲間たちの方を見る。

 彼らは予見していたように渋い顔をしながらも、旋律を崩すまいと村長が奏でる音色に続いた。

 やむを得ず少女もそれに倣い、結局巫女側が無理やり合わせる形でこの一瞬のずれは何事もなかったかのように進行する。


 しかし。

 ここから徐々に巫女の動きが乱れ始めた。

 今まで完璧だった動きにキレがなくなり、先刻よりも明らかに精彩を欠いている。

 隙を突くように不安定な舞台が再び体幹を崩し、見逃されるはずだった些細な躊躇をミスへと押し広げる。

 そのたび旋律と舞の間に広がる違和感を、わずかに動きを早めることで巫女は修正しようとするが、その無理がまたミスを呼ぶ悪循環。


「――っ」

「あっ!」


 ――よかった、落ちるかと思った……。


 加えて常につきまとう落下の危険も厄介だった。

 巫女本人はもちろんのこと、観ている側も体勢を崩すたびに肝を冷やし、現実へ引き戻されるため、舞の内容に集中できない。


「……っ」


 開始からずっと冷静を保っていた巫女の顔が、わずかに歪んだ。


『せめて、崩れたリズムさえ取り戻せれば……』


 声なき悲鳴が少女には聞こえた。

 指揮者がいないからこそ助け合いながら演目を完成させる。

 その末で起きる多少のずれはむしろ味わい深さだ。

 そういう楽しみ方があることを、少女は知っている。

 しかし今起きているこれは、もうそういう次元ではなかった。

 原因は、明白。


「――っ」


 少女は自分の前で正座し、耳も目も塞いだように自分の演奏を徹底し続ける老人。

 その小さくもふてぶてしい背中を睨みつける。


 ――この神楽の成功を誰よりも望んでなきゃいけないはずの人が、どうして……っ。


 村長だけではない。

 観覧席にいるこの村の住人たちからも、侮蔑とどこか安堵するような空気が醸し出されている。


「……変だよ……」


 この村に来てからずっとつきまとっていた違和感。

 頭の中になんとなくあったそれらが、互いに結びついていくのを感じる。


 直前に変更があったという舞台の変更。

 巫女への明らかな悪意を感じる村の者たちの態度。


『舞手の巫女は、その村では未熟者だと評判らしい』


 そう教えてくれた時に、父が浮かべていた表情の意味。


 そして引きずられるように思い出す。

 少女の故郷での演奏練習の一幕。

 巫女の代わりに龍神式神楽を踊った熟練の舞手が語った、この舞踊に潜む罠。


『緩やかに見えてその実、屈伸運動や無理な姿勢を維持する動作が多いこの神楽は、見ために反してかなりの体力を消耗する』

『加えて、一見地味なくせに細かい動作一つ一つに必要な技術が多過ぎて、よほど上手くやらないとただ動いているだけになってしまう』


 ベテランをもってしても息を切らし、そう言わしめる神楽。

 それを確かな技量に裏打ちされた表現力で、あの完成度へともっていくだけの力量。


『……もしかしたら。その龍巫女さんに問題があるんじゃなくて、これ自体が難し過ぎるのかもしれないね』


 ――未熟なんて言葉で、簡単に片づけていいはずない。


 今でこそ崩れているが、さっきまでは間違いなく完璧に舞い切っていたのだから。

 それを無視して未熟というのはあまりにも酷で、雑で、不当過ぎる評価。


「……やっぱり、こんなのおかしいよ……っ」


 堪え切れず呟いた少女を制するように、隣の父から視線が飛んだ。

 声なくとも言わんとしていることは理解できる。


 ――他の枝の事情に関わるな。


 ここへやって来る以前から何度も聞かされた言葉。

 余計な干渉は争いの種になる。

 たかが小娘の一言ですら、それは起こり得る。


「――……っ」


 葛藤の末。

 少女は唇を噛みしめながらも、一奏者でしかない自身の立場を弁え、せめてもの抵抗として全力で演奏に励むことを選んだ。

 枝間の争いに発展することを恐れたのは否めない。

 無名の自分が騒いでも足を引っ張るだけ、それもある。


 ……だがそれ以上に、一人の表現者として。


「はぁ、はぁっ!」


 ここからでも聞こえそうなくらい激しく息を切らし、一心に舞い続ける龍巫女。

 様々な障害が立ちはだかると知りつつ、それでもなおこの舞台へと臨んだ彼女の覚悟を台無しにするようなことだけはしたくなかった。


 ――頑張れ、巫女様!


 互いに名も知らない、今日初めて会って一言交わした程度の関係でしかなくとも。

 少女はまるで無二の親友を応援するかのように胸の内で叫び続ける。


 ――お邪魔虫なんかに負けるなぁ!


 ……だが。


 絶対に成功させてほしいと願う一方で。

 少女は、自身の思いに暗い影が差しているのも自覚していた。


 なぜなら。

 故郷にいる熟練の舞手から聞いていたからだ。


 今日、巫女が舞う二種類の神楽。


 今踊っている龍神式神楽が、

『見ために反して体力を消耗する舞踊』

 であるのに対して。


 この後控えている比翼現人神の舞は、

『見ため以上に体力を消耗する舞踊』

 なのだと。



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