んめえええぇええ。
人間の喉からは出ない声が、大音量で聞こえた。
家畜として飼われている羊の鳴き声で意識が覚醒して、俺はようやく自分が昼寝にふけっていたことを自覚した。
「あ、起きた。狩人のお兄さん、おはよ♪」
「……ああ、悪い。ちょっと意識飛んでたな」
ちょっと休憩するつもりが、すっかり眠ってしまっていたようだ。
店先に置いてある椅子から立ち上がると、俺の目覚まし代わりになった羊がまた、めえ、と鳴いた。
「大丈夫だよ! いつも手伝ってもらっちゃってるし、気にしないで。今日は天気も良いから、お昼寝気持ちいいよね」
明るい笑顔でこちらを気遣うような言葉を投げてくるのは、まだ年若い少女。
なぜかぶっかぶかの魔法使い帽子を被った少女は、俺の方から視線を外すと、
「狩人の弟さーん、お兄さん起きたよー!」
「お、ありがと。兄ちゃん、おはよ」
「……おう。悪いな、そっちだけ働かせて」
荷物運びでも手伝っているのだろう。木箱を抱えたまま、獣人の弟分が俺に声をかけてくる。
自分だけ寝こけてサボってしまったことを申し訳なくなりつつ、俺はその場から起き上がった。
「良いって良いって。昨日の夜は兄ちゃんが牧場の見張り番してくれてたし、眠いのは当然だよ」
「そうだよ。その椅子だって、お客さんのお昼寝とか休憩用にお店の前に置いてるから、気にせず使って良いんだよ」
「ふたりしてそう言ってくれるのはありがたいんだけどな……」
起き上がって、軽く伸びをする。
固まっていた身体と、残っていた眠気がほぐれていく感覚がした。
「……平和ボケだな」
あの日、結局俺たちは、あのお人好しのエルフと魔女を信じた。
いや、信じたというより、縋った、というのが正しいのかもしれない。
ああして満たされたあと、もう一度『飢えた悪人』になる度胸は、残っていなかったから。
そして本当に幸いなことに、あのエルフの弓使いが言ったことは全部本当だった。
たどり着いた村の近くの森の中には、すぐにでも住居として使えそうな家があった。
しかも村の住人たちは、いかにも流れ者な俺や獣人の弟分を見てもなにも言わず、『狩人の知り合い』だとたった一言告げるだけで受け入れてくれた。
面倒を見てもらうばかりなのが申し訳なくて俺たちは自然と村のことを手伝うようになり、今では村の見回りまで任されてしまっている。
そうして気がつけば、ほんの少し前までの荒んだ生活が嘘のように、穏やかで平和な暮らしを過ごせていた。
「…………」
自分がしたことを、忘れたつもりはない。
俺と、弟以外にも世界中に不幸がたくさんあることも、理解している。
俺たちはたまたま、心優しいエルフと魔女に助けられた、それだけのことだ。ほんの少しタイミングが違っていたら、こんなことにはなっていない。
それでも、自分の幸運を大事にしたい。弟分が楽しそうにしているのを見ると、なおのことそう思う。
「よし、目も覚めたし、俺も荷運び手伝うわ」
「もうちょっとだし、休んでても大丈夫だよ、お兄さん」
「そういうわけにはいかねえよ。……狩人の姐さんに、この村のことを頼まれてるからな」
頼まれているというのは、ほとんど嘘のようなものだった。
救われっぱなしの貰われっぱなしでは居心地が悪いから、せめてこの村のことを手伝うために考えた方便のようなもの。
ただ、きっとあのエルフは、俺たちがそういう判断をするというところまで予想しているような気もする。
見透かされているのは少し気恥ずかしいような、悔しいような気持ちだが、悪くはない。
「んー……あ、それじゃあ、お店の中の方を手伝ってくれる? ちょっと整理したいんだけど、お父さん腰痛めてて……あと、それが終わったら、お昼ご飯食べてってほしいな」
「お安いご用だ。……昼飯、良いのか?」
「いいよ。この間お兄さんたちが持ってきてくれたお肉、ぜんぜん余ってるもん。それでみんなの分作っちゃうから、食べていってよ」
「……どうも」
少しでも返そうとしても、相手も同じように返してくるのだから、なかなか困ったものだ。
それを悪い気がせずに受け入れてしまうのだから、なおのことだった。
「……こっち来て良かったね、兄ちゃん」
「ああ。……そのうち帰ってきたら、改めて礼のひとつもしなきゃいけねえな」
「世界をすくった英雄にお礼って、おいらたちにできることあるかなぁ」
「まあ、こういうのが気持ちが大事だろ……こう、なんだ、なんか兎とかで料理作るとかさ……」
「それもあっちの方が上手そうなんだけど……でも、気持ちが大事ってのはそうかも。なんか考えておこっか」
ちなみに、俺たちはふたりとも料理は素人だ。
今は兎とか猪、魔物を適当に狩りつつ、村人たちにお裾分けのついでに美味い調理法なんかを教えて貰っている最中だったりする。
その動物の解体とか、食べられる野草の採集だって結構手探りだ。特に野草や木の実採りについては、家の中に残っていたエルフのメモとにらめっこしながらやっている。
あのふたりが戻ってくるのかどうかは分からないが、それまでに武器の扱い以外のことをきちんと覚えて、歓迎くらいはしてやれるようになりたいところだ。
狩人初心者――それが今の俺たちにふさわしい、肩書きだろう。
「それじゃ、ひと働きさせてもらうとするかね……」
起こしてくれてありがとな、という意味を込めて撫でてやると、羊は上機嫌そうに、高らかに鳴いた。
あまりにも平和な時間にはまだ、少しだけ気後れしてしまう。それでも、この時間が既に大事なものになっているのは確かだった。
「……ところでその帽子、重くねえのか?」
「ちょっと重いけど、宝物だから! なんたって魔女様のだよ、しかもホンモノ!!」
「そっか。……無くしたり破いたりしないようにしろよ」
感謝と喜びを素直に示せる子供の姿に、少しだけ胸の奥があたたかくなる。
ここまでとは言わなくても、次に会ったときにはもう少し素直になろうと思いつつ、俺は身体に似合わない大きさの帽子をかぶった少女のあとを追った。