「……へくちゅんっ」
「シア、大丈夫? 寒い?」
「いえ、体調が悪い感じはしないんですが……風の噂でしょうか」
「うわさ……?」
「ああ、東の国にあるジンクスというか……くしゃみが出るときは、遠くで誰かが自分のことを噂している、というお話があるんですよ」
「それだと、ボクたちかなりの頻度でくしゃみしてないとおかしくない? 一応、世界救ってる有名人だし」
「それはそうなんですけどね……とりあえず、体調は問題ありませんよ。進みましょう」
王都を出た私たちは、予定通りに東に向かっていた。
東の国は王国の友好国で、王様直々の手形がある私たちは簡単にいくことができる。
ひとまずの目標は国境。今は、その道中だ。
いつも通り、私より少し先を歩いているリーナは、心配そうに私の顔を覗き込んできて、
「焦らないんだし、本当に体調悪かったら無理しないでね。怪我とか病気ならすぐに魔法で治せるけど、疲れてるなら休んだ方が良いから」
「ありがとうございます、リーナ」
実際のところ、そんなに疲れてはいない。
なので今のくしゃみは、本当に偶然だった。
今日の風は気持ちよくて、天気は明るい。
徒歩で、ゆっくりと景色を見ながら移動するにはちょうど良い季候だ。
王都では馬車を買うという選択肢もあったのだけど、結局私たちは徒歩での旅を続けることを選択した。
道行きは焦らないし、馬の維持管理を考えると歩いた方がいい、という結論になったのだ。
「それにしても……東に戻るのは、久しぶりですね」
「二十年を五年だと勘違いするようなガバガバ判定のシアが言う『久しぶり』って、具体的に何年くらいなの?」
あれ、もしかしてちょっと根に持たれてます?
微妙に半目でこっちを見るリーナに、私はなるべく頑張って記憶を掘り起こしながら答える。
「えーと……百年とか、二百年、くらい……ですね」
「昨日とか今日みたいなテンションで、三桁年数えることあるんだ……」
「り、リーナもずっと生きてたら分かりますよ、そのうちこんな感じになりますから。だいたい覚えてればいいかな、みたいな!」
「シア……百年って純エルフ以外の人類なら二世代、三世代分くらいだからね……? だいたい、とかいう大雑把な数え方する単位じゃないよ」
「それは分かってますけどぉ……」
微妙な顔でツッコミを入れられてしまった。
リーナは魔女になってまだ数百年なので、この感覚は分からないだろう。
記憶が千年単位で蓄積すると、本当に百年とか二百年くらいは平気でズレる。
ぼうっとしていたら二十年くらい経ってたとか、ぜんぜんあるのだ。あった。
「まあ、感覚は曖昧ですけど、一般的に見て『かなり前』なのは分かってますから。道とかたぶん新しくなってたりするでしょうし、場合によっては土地の環境も変わっているかもしれませんから……ゆっくり見て回りましょう」
「うん、分かった。で、改めてなんだけど……東の国って、前の旅で行ったことなかったよね?」
「ええ、ありませんね。魔王の領地とは王国を挟んでいますから、魔王と直接は戦いのなかった国ですし、私たちも目的地から離れるので寄る必要がありませんでしたから」
「シアは……昔は東の国にいたの?」
「ええ、かなり長く……というより、あっちの方角は、私にとっては故郷がある方角なんです」
「え、そうなの!? 全然知らなかったんだけど!?」
「全然知らなくて当然ですよ、全然話してませんでしたからね。正確には東の国のもう少し向こう側……国とも呼べないような、未開拓の森の奥ですが」
東の国の先には、私の故郷がある。
そこは純エルフたちが引きこもっている土地で、東の国とは不可侵条約を結んでいるらしい。
「じゃあ……えっと、シアは生まれたところを出て東の国にいって、何百年か暮らしてた……ってこと、だよね?」
「ええ。紅い目……純エルフとして不出来な産まれであったことを理由に、私には居場所がありませんでしたから。独り立ちできる年齢になってすぐに、東の国……タカマガハラに渡りました。東の国と純エルフの森は不可侵の関係ですが、行き来を禁止されているわけではありませんからね」
不可侵条約はあくまで『侵略行為を禁止』するもので、移動には制限がかかっていない。
とはいえ純エルフが森を出ることはほとんどないし、東の国の人が森に入ったところで純エルフは話しかけることすらしないので、私みたいに渡っていくのは希だけど。
そして生まれ故郷を出たあとの私は、数百年ほど国内をあちこち巡る放浪生活をしていた。
いただきます、という挨拶をはじめとして、私が普段やっている習慣の多くは、そのときに身につけたものだ。
「東の国を歩き尽くしてからは、いろんな国や土地を巡ってたまに戻る、という感じだったので……最後に東にいたのが、まあ百年とか二百年前、ということですね」
「へえ……楽しみだなぁ。行ったことないし、ボクが知らないシアの想い出も、たくさん聞けそうだし」
「そうですね、私も気分的には里帰りに近いので楽しみではあります。本当の生まれ故郷には戻りづらいですが……東の国で学んだ多くのことは、習慣という大事な財産になっていますから」
「ちょっと独特な文化、なんだよね?」
「ええ、そうですね。今は王国とかなり親密に交流していますが、昔は『鎖国』といってほかの国とほとんどの交流を断っていた時期もあったので、独自の文化が発展してて……それで、ほかの国と比べると変わった習慣が多いですね。細かいところはまた、必要なときに説明しますよ」
百年か二百年ぶりということで変わっていることもあるかもしれないけれど、基本的なことなら分かるので、問題は無いだろう。
街道は整備されていて、私とリーナの歩みは気軽だ。適度に休憩をとりつつ、数日あれば国境を越えられる。
「それに、行くのは久しぶりですが……そう大きく変わっていることはないと思いますし」
「そうなの?」
「タカマガハラは王国を支援はしていましたが、魔王と直接の衝突はなかったので……昔より発展していることはあっても、土地が荒れたり、村が消えてるなんてことはあんまりないはずですよ、内乱とかもありませんしね」
「……東の国って、王国に協力してたんだ」
「ええ、戦力の貸し出しとか、兵士の装備の素材を安く譲ったりしていたみたいですね。東の国は武術や弓術が盛んで戦えるひとが多いですし、鉱物が豊富に採れたり、珍しい魔物も多くいますから。昔、ラッセルが振り回していた大盾も、東の国にいる固有種の魔物の素材でできていたんですよ」
東の国は魔王領とは離れていたけれど、王国と同盟を結んでいた。
そのため、東の国は『王国に協力する』という形で間接的に魔王と戦っていたのだ。
「ちなみに私が弓術を覚えたのも東の国なので、私の射法は地元ではなく東の国がベースです」
「あ、そうなの?」
「エルフは狩りや魔法が得意な種族ですが……私は地元でなじめなかったので、あんまり教えて貰えなくて。故郷を出奔した先の東の国で、親切な人に教えて貰ったんです」
私は弓の扱いを東の国で覚えたために、実はエルフ式の弓術とは少し姿勢などが異なっている。
狩猟と弓を教えてくれた恩人のことを思い出すと、感謝と懐かしさが自然と私の表情を緩めた。
「……なんか、シアが自分のことをたくさん話してくれるって新鮮な感じがする」
「そう、ですか?」
「うん、シアって優しいしいつもニコニコしてるけど……前の旅だと、あんまり自分のことは教えてくれない感じだったから」
「……不安なことでもきちんと話すって約束したせいか、ちょっと口が軽くなっているみたいですね。うるさかったらすみません」
「ううん、大丈夫だよ。シアのこと、少しでも知れるのは嬉しいからなんでも話してほしいし」
「……そう、ですか。それなら、良かったです」
まっすぐな好意と言葉に、ちょっとだけ身体の奥に熱を感じた。
……言い訳できませんね、これ。
自分の反応が分かりやすすぎるせいで、嬉しいという気持ちをはっきりと自覚してしまう。
心臓が早く、胸の奥がきゅう、と締まるような感覚がする。千年も生きてきてはじめて感じるこれの正体は、わざわざ深く考えなくても分かるくらいに明確だった。
それを彼女に向けて口にする勇気まではまだなくて、私はとりあえず深呼吸して、気持ちを落ち着けるのだった。
「……シア、どうしたの? 急に目ぇ閉じたりして、やっぱり疲れた?」
「はっ、いえ、空気おいしいなって思いまして! 天気良いですからね!」
「ん……そうだね。風もあんまりないし、もう少しゆっくり歩こっか」
「ええ、賛成です。ちょっとその方が、落ち着けそうですから……」
笑顔でこちらを気遣ってくれるリーナの言葉に、素直に甘えることにした。
すぐには、いつも通りに戻れそうにはなかったから。