「ん……」
食事を終え、さらに火山の奥まで進んだところで、ボクたちは立ち止まった。
足を止めた理由は、聞き覚えがある声が耳に届いたから。
聞こえた感じからしてまだ遠いけれど、確かに竜の声だ。
「これは……警告の咆吼ですね」
「そういうの、声で分かるの?」
「はい。竜も魔物……つまりは、生き物ですからね。怒っていれば怖い声を出しますし、家族には優しい声で語りかけますよ」
シアは魔物に詳しいので、声を聞いただけでそういうのが分かるのだろう。
ボクには竜の鳴き声なんてどれも、あんぎゃーって感じにしか聞こえないけど。
「つまりボクたちが縄張りに入って来てるって、分かってるわけだ。まだ姿は見えないけど……」
「竜は魔力を感じる器官を持っていますから、リーナの魔力を察知して警戒しているんでしょう」
「ああ、周り冷やすのに魔法使ってるからそれでバレやすくなってるんだね……まあ隠れるつもりなんて元々無いけど、逃げられたりしないかな?」
「その場合、帝様は残念がりそうですが、竜がここから離れてくれるならそれはそれで戦いがなくて良いと思いますが……にゃ」
確かに、コルトの言うとおり、戦わずに済むならその方が楽ではある。
魔王軍に組み込まれていた竜はそういうふうに『調整』されていたから確実に攻撃してきたけど、相手は野生の竜。
ボクの魔力を察知して危険を感じて逃げてくれるなら、戦わなくても火山で作業をするひとたちの脅威は消える。
その場合、帝様の言った『竜を食べてみたい』は達成できなくなってしまうけど。
「そうですね、私も竜が逃げてくれるなら、わざわざ追いかけてまで倒す必要はないと思っていますが……それは、あまり無いでしょう」
「……どうしてですか、にゃ?」
「竜は自分自身の強さをよく分かっていますし、なにより営巣しているということはここはもう竜にとっては『家』になっています。……知らない生き物が家に入ってきて、しかもそれが自分より弱そうな相手だったら、家財を置いてすぐ逃げたりはしないでしょう?」
「それは、ひとの考え方ではないですか……にゃ?」
「ひとも動物も魔物も、同じですよ。生き物にはそれぞれ縄張りがあり、そこに入ってくるものに対して取る行動は主にふたつです。攻撃するか、逃げるか……そして竜は、基本的には自分が逃げる必要のない側だと思っています」
「まあ、あれだけ大きかったら自信くらいは持ってるよね。実際、まともに攻撃を食らったら危ないもん」
竜の爪や吐息を対策なしで受けたとしたら、一呼吸の時間すらなく死んでしまうだろう。
彼らから見て、ボクたちはあまりにも小さい。いくら魔力を持っているとはいえ、そんな相手からわざわざ巣を捨てて逃げるようなことなんてしない。
あの臆病なコカトリスだって、小さな虫に襲われたくらいならびっくりはするかもしれないけど、逃げることはないだろう。
「それと、今回は時季はずれの営巣ですから、竜の方にもなにか理由があるかもしれません。……もしかすると、どこかでほかの竜や冒険者と戦って離れざるをえなかったとかで、もの凄く気が立っている可能性もあります」
「機嫌悪いかもだから気を付けた方が良い、ってことだね。竜のあの大きさなら奇襲されたりもないだろうから、そこは心配なさそうだけど……わっ」
ふいに、足下をなにかが走って行く感覚があった。
びっくりして下を見ると、ちいさな影が急いだ様子でボクたちから遠ざかっていく。
しかもその影はひとつではなく、たくさんだった。
「アレは……溶岩ネズミですね」
「ええと、魔物、だよね?」
「はい、溶岩ネズミという名前のとおり、火山地帯に住んでいる魔物です。センカジンショウと同じで自分の耐熱性を高めるという魔法が使えて、そのお陰で溶岩の中を泳いでも平気なくらい熱には強いのですが……魔物の中では臆病ですし、攻撃力のある魔法は使えないので危険の少ない種類ですよ」
よく見ると、ちっちゃくて可愛い。
ネズミたちは慌ただしく、ボクたちなんてまるで見えないみたいに急いで走って行く。
その方向は、竜の声が聞こえてきた方とは完全に真逆で、明らかに脅威から逃げるための動きだった。
「じゃあこの子たち、今の竜の声でびっくりしちゃったんだね。ちょっと悪いことしちゃったかな……」
「竜を退治すれば、結果として彼らも安心して暮らせるようになりますよ。こういう時季はずれの営巣は、ほかの魔物や動物にとっても少なからず影響がありますからね」
言いながら、シアは腕を組んで周りを見渡す。
叫び声をあげた竜がどこにいるのか、探しているのだろう。
「さきほど食べたセンカジンショウも……トゲがあるとはいえ、竜に踏まれたら簡単に折れてしまいます。本来なら竜の営巣前に花を咲かせて種ができるのですが、今折られてしまうとセンカジンショウの個体数にも影響が出るかもしれません」
「……この間のアルラウネのときと同じで、強い魔物がいることで、周りにいろんな影響があるってこと、だね」
「はい。もちろん、竜の方にもなにか理由はあるのでしょうが……できれば取り除いてあげた方が、環境の変化が少なくて済みますから」
強い力を持った存在は、そこにいるだけで周りを動かしてしまう。
それは自然のことでもそうだし、ひとや国でもそうだ。
魔王という大きな力が世界を団結させたように、ボクという存在がいるだけで竜に警戒されてしまうように。
あるいは、アルラウネが周囲を森に変えて、温泉は破壊してしまったけど、森に集まってきた生き物たちには恵みをもたらしていたように。
良いか悪いかはおいておいて、イレギュラーな生き物や出来事はぜったいに周囲に大きく影響を与えてしまう。
「にゃ……」
「コルト?」
「……学園長、シア様。たぶん、竜がこちらに来ます、にゃ」
猫の耳をぴんと立てて、コルトが言った。
そこからすぐに、遠くの山陰からそれが現れた。
鱗に覆われ、翼を備えた巨体。炎の属性を色濃く示す紅色の鱗は、まるで太陽が昇ってきたみたいに鮮烈だった。
魔王を倒して平和になって、二十年。戦後も何度か戦う機会はあったけど、それでも何度見ても大きいし、力強い生き物だと思う。
「やはり、火炎竜ですね」
「向こうから追い出しにくるなんて、だいぶ警戒されてるね」
「……相手は追い出す、なんて生やさしい気分ではなさそうですよ」
縄張りに入られた怒りをあらわしているかのように、竜の口の中、凶悪なキバの隙間からは炎が漏れていた。
地上にいるボクたちに聞こえるくらい、竜は大きく息を吸う。お腹の部分が明確に膨れ上がって、
「リーナ、防御を」
「もう準備してあるよ、ほいっと!」
視界いっぱいに炎が広がった瞬間には、もうボクは魔法による防御を展開していた。
直接炙られたら一瞬で骨まで焦げてしまいそうな熱量が、魔力で生み出した障壁に遮られる。
「にゃあぁっ!?」
「コルト、離れちゃダメだよ」
「わ、分かってます、にゃっ」
戦闘になる前にコルトに離れてもらうべきだったけど、すでに相手の攻撃が周囲を焼いている。それならなるべく近くで、自分ごと守る方がいいと判断した。
コルトは炎に驚きながらも、ボクの近くに寄ってきてくれる。
シアの方は冷静で、すでに弓を構えようとしていた。
「ブレスの切れ目に攻撃します。視界が開けたら障壁を解いてくださいね、リーナ」
「うん、任せて。ほい、矢も作っておくよ」
防御を解いたら一瞬で焼けてしまうけど、この大火力は長くは続かない。
この炎は、息を使うことで吐き出されている。
いくら竜が大きいと言っても、何時間も息を吐き続けることは不可能だ。
相手が息切れをするまで、ボクはただ障壁を展開し、周囲の温度を下げるだけでいい。
そして、竜の喉奥から吐き出される炎の勢いが弱まった。
「ふっ……!」
炎の壁が消え、ボクが防御魔法を解除した瞬間、シアが矢を射った。
びぃん、と弓弦が空気を弾いた音を置き去りにして、魔力でできた矢が突っ走る。
矢は吸い込まれるようにして、殺意の灯る竜の瞳へと突き刺さった。
ぎ、という竜の苦しげな叫びは、空気を引き裂くような大音量だった。
「リーナ、あと三本お願いします」
「ほいっ!」
シアの指示通りに、新しい矢を生成する。
「ひるんでいるうちに、堕としますっ……!」
彼女はふたたび弓弦を引き絞り、矢を放った。それも文字通りの、矢継ぎ早に。
追加で生産した最初の一本が、未だ空中にいる竜の左翼へと飛んでいき、貫通した。
ダメージで竜がバランスを崩したところに、さらにシアは残りの二本をまた左の翼へ撃ち込む。
片方の翼を集中的に狙われたことで、竜は完全に体勢を保てなくなり、大地へと落ちる。ずぅん、と重たい音が火山に響き、衝撃で土埃が舞った。
「竜の身体は鱗に覆われていて頑丈ですから、狙えるところは多くありません。ですが……」
弓を降ろして、シアはナイフを抜いた。
彼女が愛用している、よくよく手入れされた切れ味のいい短剣。
とはいえ、竜に対抗する武器というにはあまりにも短く、頼りないものだ。
だけど彼女がそれを選んだのなら、充分なのだろう。
「リーナ、おそらくまたブレスが来ます。コルトさんを守ってあげてください」
「シアの方は防御いらない?」
「ええ、問題ありません。行ってきます!」
突っ走っていくシアの背中を見るボクに、不安は少しも無かった。
「が、学園長!? シア様は大丈夫なのですか、にゃ!?」
「……本当はああして突っ込んでいくのはスタンとラッセルの方が良いと思うよ。でも今は、ふたりともいないから」
かつての旅であれば、撃ち落とした竜へ突撃するのは勇者と聖騎士の役目だった。
シアは軽装だし、もし竜の爪や尻尾で打撃されたらそれだけで致命傷になってしまう。
なによりあの旅では、リーナとボクが後衛を担当する分担が明確になっていたから、シアも無闇に突撃はしなかった。
「でもさ……スタンもラッセルも、ふたりともいつも突っ込む前にシアに魔物の弱点を聞いてたんだよね」
「へ……?」
「ボクたち四人の中で、魔物のことを一番よく知ってるのはシアで……そのシアが問題ないって言ったなら、ぜったい大丈夫ってことだよ」
土埃の隙間から、片目になった竜が顔を出す。
まだ無事な方の瞳から、変わらずに殺意がこもった視線が投げつけられてくる。
ぶく、と膨らんだ喉奥が、既に追加のブレスの気配を感じさせていた。
「ほいっ!」
シアに言われたとおり、自分とコルトを包むようにして障壁を展開する。
ふたたび、光の渦にも似た炎の濁流で視界が塞がれる。
シアの背中が炎に飲まれて消える瞬間も、ボクは不安に思わなかった。
問題ないと彼女が言ったのだから、怖がる必要なんてどこにもない。
「……ほら、ね」
二度目のブレスは、一度目よりもずっと早く消えた。
理由はもちろん、竜が炎を吐く余力を失ったから。
開けた視界の先、竜の首にシアの短剣が突き刺さっているのが見える。
今度は炎ではなく血を吐き出して、竜はその場へ倒れ伏した。
音を立てて崩れた巨体の影から、気軽な調子で金の髪が現れる。
怪我どころか、毛先ひとつ焦げ付かせていない様子で、シアはゆっくりと吐息した。
「ふぅ。……終わりましたよ、リーナ」
「お疲れ様、シア」
気を緩めた足取りで、シアがこちらに笑顔で戻ってくる。
コルトだけが驚いた顔で、竜とシアを何度も交互に見て、
「にゃ、え、あ、あんなに短いナイフで、竜を……!?」
「竜の首には逆鱗といって、急所がありますからね。そこを狙えば、ある程度の切れ味がある刃物があれば倒せますよ」
「それはそうですがっ、いくらなんでもそんなちっちゃいナイフで……そ、そもそも、シア様、どうやってそんな高い位置にナイフを刺したのですか、にゃ……!?」
「それはこう……するするっとよじ登って、えいっと刺して、ぐりぐりっとしました」
「よじ登っ……えぇぇえぇぇ……? 竜の身体を、そんな木登りみたいなノリでぇ……?」
「あ、炎は至近距離ですから簡単に避けられました。放射状に広がるので、近づいてしまえば顔の前に立たなければ当たりませんからね」
「は、はあ……」
なにを言ってるんだこのひと、みたいな顔でコルトがシアを見る。
うん、ボクの方も、そんなことできるの? って思うけど。
シアが嘘をつくとは思えないので、できたのだろう。
彼女は竜のブレスを避けて、するするっとよじ登って、えいっと刺して、ぐりぐりっとして倒したのだ。
「それにしても……竜をひとりで狩るのは久しぶりでしたが、魔法のお陰で不意打ちや罠がいらなくて楽でしたね」
「学園長もですが、シア様もちょっと凄すぎませんか、にゃ……?」
「んー……まあ、世界を救うよりは簡単だったよ。ね、シア?」
「そうですね。危険はありましたが、あの旅を思えば苦戦というほどでもなかったです」
「せ、説得力がありすぎます、にゃ……」
呆然とするコルトの目の前で、ボクはシアと気軽に笑い合うのだった。