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第49話


 ※


「どうしたの、芽衣?」

 翡翠宮に帰ると、ため息をついた侍女の姿が見えた。いつも元気いっぱいの彼女が落ち込んでいると思うと、少し寂しい。心配になって思わず聞いてしまう。


「あっ、翠蓮様。仲の良かった女の子が昨日でお暇をいただいたんですよ。昨日は笑って別れて、手紙とか書いてくれるって言っていたんだけど……急に寂しくなっちゃったんですよね」


「そういうことなの」

 妃も粗相をして実家に戻されることもあるけれど、私のような立場の女は基本的にもう後宮を出ることはない。女官や下女たちは選択制で、花嫁修業の一環や賃金を得るために後宮に働きに出ていることが多い。つまり、どこかで別れがやってくる。それは仕方のないことだ。


「ええ、商家の息子さんと縁談があるって聞いたので、おめでたいことなんですけどね。翠蓮様が始めた後宮教育のおかげで、簡単な文章や計算もできるようになったから、縁談が来たってよろこんでいましたよ。私もうれしいはずなのに、やっぱりお別れはだめですね。今日、二人でよく手入れしていたハーブ畑に行ったらちょっと泣けちゃって」

 私は彼女の頭を撫でた。優秀な彼女をこの後宮という檻に閉じ込めてしまったかもしれないとずっと後悔していた。彼女はとてもよく働いてくれるし、明るくて親切だからみんなの人気者だけど……


 それでも……


 私は勇気を振り絞って覚悟を固める。そして、口を開こうとしたときに、芽衣に首を横に振られて、遮られてしまう。


「ダメですよ、翠蓮様。それ以上言ったら、私が怒ります」


「えっ⁉」


「どうせ、私のことを憐れんで、あなたが自由になりたいなら、大丈夫とか言おうとしていたんでしょ。違いますよ、私は自分の意志でここにいるんです。それに、みんなに必要とされています。外だったら医者にかかることもできないのに、涙を流してくれる人だっているんです。大きなやりがいを感じています」

 彼女は見たこともないくらい力強かった。


「どうして、わかるの?」


「わかりますよ。どれだけ一緒にいると思っているんですか」


「そうよね」


「私は翠蓮様と一蓮托生です‼ だから、そんな寂しいことを言わないでくださいね」


「うん」

 私は西月国にいた時のように、気安く笑い合う。実際、芽衣はよくやってくれている。後宮教育の読み書き担当をしてくれて、年少の女の子たちにも優しく勉強を教えていると聞いている。自分よりも年上の人たちにどう接すればいいのか悩んでいた時もあったけど、彼女の性格からすぐに打ち解けて、可愛がられているらしい。先生なのに、お菓子まで餌付けられているようだ。


 彼女らしくて笑ってしまう。それでいいのだろうかと少しだけ不安になりながら。


「そうだ、みんなが私を心配して、お菓子を用意してくれたんだった。一緒に食べましょうよ」

 いつもの彼女が戻ってきた。


「そうね」

 彼女は大好きなお菓子を食べるために、ハーブをいくつか取り出してお茶を作ってくれる。


 それにしても、本当に彼女は誰とでも仲良くできるわね。それも才能だ。彼女は小さいときに、父親を失ったのに、本当にすなおでいい娘だ。


「私、こっちのお菓子では月餅が好きですね。翠蓮様は何が好きですか??」


「自分は水菓子が好きね。砂漠じゃみずみずしいフルーツなんてなかなか食べられないから……夏に食べられる桃を楽しみにしているわ」


「桃‼ 桃源郷で食べられる甘い果実ですね」


「ええ、一度食べたことがあるけど、とろけるみたいに甘かったわ」

 桃源郷とは、中華世界で信じられている楽園の事ね。


 たしか、古い時代に生きた陶淵明という有名な詩人が描いた場所よ。桃林に囲まれて、俗世間から離れて晴耕雨読の世界で、周囲の人たちと仲良くお酒を飲みながら生活する理想郷。ある漁師が仕事中にその楽園に迷い込んで、住民たちから歓迎されるけど、里から出てしまったら二度と理想郷に行くことはできなかったという詩のような小説ね。


まあ、作者自体が官職に就いたのに、わずらわしい俗世間を嫌い、田園地帯に隠居しながら詩を書いていた自由人。


 私もちょっと憧れるわね。こういう政治の世界に身を置いているから、それが終わった後は、自然豊かできれいな場所で、気ままに生きてみたい。そんなことが実現するわけがないのに。憧れてしまうのはいけないことだろうか。もし、陛下と一緒に普通の夫婦みたいに、田舎生活ができるのなら、どんなに幸せだろうか。


 そんなありえないことを妄想する自分がまるで少女のようだと思う。ずっと国家への重い責任を背負ってきてしまった。普通の女として生きるなら、私はどう生きたのだろうか。でも、普通の女だったら、この後宮には来ていないわね。そうしたら、陛下とも出会えていなかったわけだし。本当に自分の人生は、わからないことだらけ。


 桃源郷はきっと妄想の世界にしかないのだろう。残念なことだ。でも、こんなことを考えてしまう自分は傲慢だろうけど……


 陛下と一緒なら桃源郷に近い世界を作ることはできるのじゃないだろうか。子供たちは自由に遊んで楽しそうで、老人たちも楽しそうに遊んで暮らす。お金や新しい華美な服や宝石なんて物だけの幸福じゃなくて、精神的な豊かさを求めて、それを満たして笑っている。


 順と西月国の戦争が、私腹を肥やすための官僚や商人、出世を求める武官達によって、求められているのは、彼らが精神的な豊かではなく、俗物的な利益を求めているから起きている。仏教や老荘の世界ではないけど、無理をして強欲に求めれば、どこかで無理が生じて、大きな被害が出るし、国も消耗していく。


 そして、内乱が起きて、さらに多くの命が奪われるのだ。私欲は、もともと自分の家族や本人の幸せを満たすはずの物なのに、国が乱れれば、多くの人たちを苦しめて、私欲を求めた本人たちも最悪の結末を遂げている。


「翠蓮様、あんまり難しく考えちゃだめですよ」


「えっ⁉」


「だって、さっきから厳しい顔になっていましたもん。また、難しいことを考えていたんでしょう?」


「うっ……」

 やっぱりすぐにバレてしまうわね。芽衣には勝てないわ。


「それに桃源郷って、考えれば考えるほど、出て行きたくなっちゃうものだと思うんですよ」


「でも、桃源郷って理想郷だけど、一度出てしまったら、戻れないじゃない」

 あの詩のような小説でも、桃源郷に迷い込んだ漁師が、桃源郷から出る時にもう一度戻ってくるために目印を付けて、里を出るんだけど、二度と戻ることができなかったという結末に終わる。


「そうなんですけどね。人間って恵まれすぎていると不安になるというか。だから、なかなかそういう理想郷に定着するのは難しいと思うんですよね。だって、ほとんどの国が理想郷を作ろうと思って、初代の王はある程度うまくいきますけど、後継者たちはどこかで失敗してしまうものじゃないですか」


「それはそうね」

 最初から悪政を敷こうとした国はほとんどない。少しずつ歯車が狂っていき、制度が腐敗して、根元から倒れていくわけだ。司馬から借りた本のほとんどはそのような結末で終わっている。


「あの桃源郷の本もちょっと暗示のようなものだと思うんですよね。理想郷は、一度作ってしまっても、すぐにバランスが崩れて、二度と戻れない。だって、漁師さんも最高の場所ならふつうとどまるじゃないですか、桃源郷に‼ でも、漁師さんは、数日で桃源郷から離れた。それって人間は完璧じゃないってことを表しているようにも思えるんですよね。まあ、私みたいな平民にはですけどね」

 この子は、やっぱり本質をとらえる能力がある。物事の核心みたいなものを見つけるのがうまいというか。どんな学者も見つけることができなかった、もしくは、バカバカしいと最初から考えるつもりがない盲点から本質を拾って鋭く切り込んでくるというか。


 もしかしたら、医術の才能がそちらにも作用しているのかもしれない。

 患者のどんな異変からも病の情報につながることはママあるわけで、患者と言うシロウトの言葉もバカバカしいなどと思わずに誠実に聞くことが大事ということは、芽衣がよく言っていた。


「芽衣と話していると勉強になるわ」


「えー‼ 翠蓮様に褒められると嬉しすぎます」

 芽衣は本当に反応がかわいいし、嬉しそうにしてくれるから、褒めごたえがあるわね。


「本当よ。だって、芽衣の考え方って、盲点から鋭い切込みって感じで、とても気づかされることが多いのよ」

 そういうと破顔一笑という言葉がこんなに似合う女の子はいないだろうというくらい嬉しそうな顔になった。


「そういうところですよね」


「えっ? なにが?」


「翠蓮様、最近、後宮で自分が何て呼ばれているか知らないでしょう?」

 私はちょっとだけ苦い顔になる。だって、私はうわさ話に疎いし、そもそも他の妃でなかよくさせてもらっているのは梅蘭様くらいだし。梅蘭様だって、お忙しいから、なかなか会えないし。


「知らないわ」


「やっぱり」

 もったいつけられると、余計に知りたくなる。でも、どうせ元敵国の姫でスパイみたいな扱いだから、知りたくもない気もする。


 でも、私への悪評だったら、芽衣はこんなにうれしそうな顔はしないだろう。彼女は、ふたりきりなら、こういう感じだけど、外ではまさに忠臣のような行動をしてくれる。


「教えてよ」


「どうしようかなぁ?」

 普段はこんな感じだけど、彼女は忠臣……なのかな。思わず揺らいでしまったけど、芽衣は少しだけ私をからかいたかっただけのようで、すぐに教えてくれた。


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