図書館を抜け出して、私は一人で翡翠宮に帰る。
歩きながら、一人で考えた。
私たちの存在もやがて、歴史書の中で事実として記憶されることになるはず。どういう風に描写されるんだろう。私は、両国のためにここに嫁いできて、陛下とたくさんのことを話して、これからもずっとこういう生き方をしていくのだろうか。
それが誰かの日記や公用文の中に記述されて、私の人生は書物の中で記録され続ける。不思議なことだと思う。
もしかすると、その記録は永久には残らないのかもしれない。でも、『史記』に書かれている歴史は、数千年前のものも継承されている。ならば、私たちの生き方が、数千年先にまで伝わってしまうのかもしれない。
陛下は何というだろうか。どういう風に、歴史に刻まれていきたいのだろうか。妃である自分は、歴史に名を残す可能性は低いのかもしれない。でも、陛下は間違いなく歴史に名を残す人間だ。
それは自分の生きた人生が、永遠に残るという栄光を手に入れるわけだけど、その一方で、何かを失敗すれば、その事実も永遠に近い歴史の中に刻まれてしまうということになる。それは、どんなに大きな重圧だろうか。
でも、陛下ならきっとこういうだろう。
「自分がのちの世にどういわれようが気になどしていない。それよりも、今を生きる人間のために、私は政(まつりごと)を行うのだ」と。
それは一瞬、無責任のようにも見える。
でも、違う。陛下は責任感の塊だから。彼は、自分が世間に何と言われようとも、忠実に職務に励み、そして、平和な世界を作ろうとしているんだ。
そのためには、きれいごとばかりは言っていられないのだろう。将来的に、自分の悪評になろうとも、経歴が傷つこうとも、民衆のためになることならためらわずにやる。自分の事よりも、民のために動く。
そういう人だと思う。それは素晴らしい覚悟だ。私も否定できない。でも、人間としての自分にはその決断は寂しいものに思える。
たぶん、梅蘭様も同じように思うだろう。
後世に陛下の美徳が伝わらないのは、近くにいる人間として悲しいのだ。
冷徹な皇帝。おそらく、世間は陛下についてそういうイメージを持っているし、それは後世にも伝わるはず。
「でも、冷たいだけじゃないんだよね。彼は、本当は優しいし、自分の事よりも他人のことを考えてしまう。自分を犠牲にしてでも、責任を全うとする。それが強くて……でも、どこか危うくて……そして、それがとても魅力的……せめて、私たちだけでも、それを理解してあげないと、彼がかわいそう」
不思議な気持ちを抱いてしまったと思う。
私は、族長の娘として生まれた。将来は、どこかの有力者と政略結婚をする運命にあった。兄と関係がぎくしゃくして、敵国に人質のような立場で送り込まれた。きっと、兄は私を切り捨てようとしていたんだと思う。この国の重鎮たちも、私と陛下が接近することなんてありえないと思っていたはずだ。
私はここでただの道具になるはずだったのに……
でも、よく考えれば、国内で政略結婚していたとしても、幸せになれなかっただろう。
武人の国。だから、夫に先立たれる可能性は高い……
だから、どんな運命をたどったとしても、私は不幸になる可能性が高かったはずなのに……この宿敵の国で、私は運命と出会ってしまった。幸せを見つけてしまった。
本当に運命って不思議ね。私は、ここで見つけられるはずもない幸せを見つけてしまったんだから。
だからこそ、私は彼を支えなくちゃいけない。たとえ、向こうが恋愛感情を持っていなくてもいい。少しだけ苦しいけど、それでも彼の近くにいることさえできればいい。
梅蘭様もきっと同じ気持ちなんだろうな。
報われるはずがない恋。それは、幸せな感情のはずなのに、どこかで心が苦しくなる。そして、私にとっては一番苦しいのは……この恋が……
遅い初恋だったこと。
本当にバカだな、私は……
でも、幸せなことに変わりはない。陛下の道を一緒に歩くことができるのだから。
明日は、大長秋様に頼んでおいた貸本屋さんが来てくれることになっている。後宮改革のために、下女たちにも文字を教えようと思っている。そのために、みんなが興味を持ってくれる教科書になる本を見つけたい。
教科書と言えば、定番の『論語』とかも使ってみたんだけど、どうも難しすぎるらしくて、反応が悪いらしい。たしかに、真面目過ぎる本を最初から教えるのは難しいし、勉強する側も、気持ちを続けるのが難しいだろう。
私と芽衣は、漢語を覚える時は、先生から短編小説や西遊記のような面白いと思えるものを教材としておススメされた。それは理にかなっていると思う。楽しいからこそ勉強は続けられるんだ。
それに、私は本を読むのが好きだから、新しい本を見るのも楽しみ。
化粧品や衣装は最低限のものしか買わないようにしているから、使える宮廷費も残っている。
また、忙しくなるわね。
でも、新しいことをするのはとてもワクワクするものね。
ちょっとした高揚感を覚えながら、私はゆっくりと歩いた。今の大切な気持ちを忘れないようにしたかったから。