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第54話


 ※


 翌日。陛下から借りた資料を読んでいたら、本屋さんがやってくる時間になった。

 今日は、芽衣にも同席してもらうことになっている。彼女は、下女とも仲が良く、彼女たちがどんなお話が好きかもよくわかっていると思うから。意見を参考にしたいんだ。


「失礼します。文例堂の凜(リン)と申します。この度は、お招きいただきありがとうございます」

 私たちよりも少し年上の理知的な女性だった。陛下や王族以外、後宮は男子禁制。よって、行商人たちも、後宮に入るのなら、女性だけしか許可されない。普通なら、宦官たちのところで用事は終わってしまう。だから、妃が自ら呼び寄せるようなことがなければ、商人がここに来ることはめったにない。


 ただ、癒着をする心配などもあり、大長秋様などは気にしているらしい。だから、あまり許可は下りないらしいが、今回は後宮改革のために必要なことだから……特別な許可をもらうことができた。


「翠蓮です。こちらは、私の侍女の芽衣です」

 芽衣も少し緊張して、頭を下げていた。


「下女に文字を教えたいということでしたが……」

 凜さんは、おずおずと聞く。そういえば、本を持ってきている様子がないわね。どうするのかしら。


「ええ、後宮で働く下女は、文字がわからない者も多く、こちらの職が終わったあとで困るものも多いと聞いています。ですので、そのような者たちが、外でも最低限困らないようにしたいのです」


「なるほど……」

 本屋さんはうんうんとうなずく。


「ですので、文例堂さんには、下女たちが楽しんで勉強ができ、なおかつ教材として、なるべく廉価な本を教えて欲しいと考えています」

 ここが難しいところだろう。写本を作ることはすべて手作業である。私として、教師役用の教材を少量買っておいて、あとは自主学習用に貸し出しできる本を数冊用意できればいいかと思っていた。


「それは難しいですね」

 やっぱりそうか。私たちは、少しだけ苦い顔をしていたと思う。


「やはりそうですか」

 でも、それは仕方がない。


「いえ、そうではなく……」

 彼女は少しだけ恥ずかしそうに、つぶやく。


「文例堂以外の書店であれば、難しいでしょうね。だから、私たちが呼ばれたのですねということです」

 謙虚に見える女性は、目を輝かせて自信をのぞかせていた。


「どういうことですか……」

 大長秋様には、「頼りになる人を紹介します」と言われただけだった。

 だから、この女性がどんなにすごいのか、私は胸を高鳴らせた。


「そうですか。詳細は知らないのですね。では、ご説明いたします。我々は、東方の島国である和という国の技術を持っているのです。その国では、庶民も含めて、文字が読めます。みんな娯楽で、書を読むことを愛していますし、貸本屋といった文化もあるのです」


「貸本屋……本を貸し出す商売ですか?」

 私が聞き返すと、彼女は頷いた。


「庶民が廉価で本を読む一種の知恵ですね。その和の国では、できる限り本を安く読むために、木版印刷が発達しているのです。木版印刷はもちろん順でも発達していますが、私たちの仲間には、和の国で技術を学んできた凄腕の彫師がいます。彼の技術は、まるで魔法のように短い時間で仕事を達成できるのです」

 木版印刷とは、西月国ではあまり発展していなかったけど、木の板に文字を彫り、墨を塗って紙に文字を写す印刷技術の事ね。もともとは、仏教の仏典を印刷するために使われていた技術と言われていると司馬が言っていた。


 ちなみに、文字の少ない西洋の国は、活字という方法を採用しているらしい。和の国や順はたくさんの漢字があるせいで、それはまねできないと聞いた。


「では、こちらの提示した条件で、本を譲ってくれるのですか?」


「もちろんです。私たちは、できる限り庶民にも手が届く範囲で本を提供するのが使命だと思っています。そのため、他の本屋ではできない速度で、文字を彫りたくさん本を作ることで安く良質な本を提供できるのです」

 さすがは、大長秋様の眼鏡にかなった商売人だと思った。利に聡く、それでいて、器も大きい。彼女と知り合うことができたのは、自分にとっても幸せだと思った。


「素晴らしいと思います」

 芽衣のほうを見ると彼女もウンウンと首肯している。


「それで、こちらが翠蓮様の条件に合う本でございます」


「イソップ童話?」

 本のタイトルを読んで、私たちは頭をかしげてしまう。聞いたことがない話だった。


「これは西洋の国で多く読まれている物語ですが、漢語に翻訳されています。昔話を集めたものだと思ってください。短い物語がたくさん入っていて飽きないですし、教訓になるお話が多いです。子供達でも楽しめるような内容のものです。試しに読んでみてください」

 私たちは言われるままに、本の中に入っていた『北風と太陽』という物語を読む。


 旅人の上着を脱がせるために、競争をはじめた北風と太陽。北風は力任せで、上着を吹き飛ばそうとするけど、寒さを防ぐために上着をきっちりと握りこみ離さない。そして、太陽の番になった時、太陽は日差しを強く照らすことで、簡単に旅人は上着を脱いだ。


「なるほどね。強引に誰かに従わせるのでは、反発も大きくなる。でも、優しく寄り添うようにすれば、たやすく人の心を変えることもできるということね」

 私がそう言うと、芽衣もウンウンと同意してくれる。


「これなら話も分かりやすいし、勉強にもなりますね。わざと、簡単な単語を使っているようにも思えますし」

 芽衣がそう言ってくれるなら、この本は教材として有効だろう。


 翻訳したものだと言っていた。これは、つまり、教材にしようとして、この本を作ったということだろう。もし、これが国の機関に採用されて教材となれば、それだけ信用を得ることができるだろう。後宮の御用達の本と知れば、子供に与えたいと考える人も増えるはず。


 この本屋さんは、理想に燃える人だけど、それでいて冷徹な商売人でもある。

 利益が出なければ、どんな理想も叶えることができない。


 そういう理想だけではなく、現実に生きている人だとわかれば、信用できる。地に足がついていない理想化ほど、危ない存在はいないから。


「わかりました。こちらで、お願いします。店主の方にすぐに伝えて、できれば200部ほど用意して欲しいのだけど」


「もちろんです。すぐに用意します。ですが、翠蓮様……ひとつだけ勘違いしていますよ」

 凜さんは、いたずらな笑みを浮かべて続けた。


「店主は私です」

 私は一瞬、しまったと思って固まってしまう。そうか、なぜその可能性を排除してしまったんだろう。後宮には、女性しか入れない。だから、彼女は店主から頼まれた使いの人間だろう。そう勝手に解釈してしまった。思い込みの怖さを痛感する。


「それは失礼しました」

 自分を恥じて、そう言うと彼女はかぶりを振る。


「いえ、私もわざと誤解させるような言い回しを使ったのです。ちなみに、和の国で技術を学んだ者というのは、私の夫の事なんですよ。翠蓮様は、そちらを店主だとは思いませんでしたか?」

 見事に当てられてしまっている。自分でも人の心裏を読むのは得意だと思っていたけど、彼女はさすが大長秋様も認める凄腕の商人ね。


うまく誘導されてしまった。


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