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本屋さんが帰った後、私はおいていってもらった見本をぱらぱらとめくる。最近は難しい本ばかり読んでいたので、読みやすい物語がすうっと心の中に入ってくる。まるで、乾いた土に水がしみこむように。
内容は、こういう本を子供たちが眠る前に読んであげたら喜ぶだろうなという内容だった。とても読みやすくて、わかりやすいのに、それでいて哲学的な教訓が盛り込まれている。私が一番好きなお話は、『クマと旅人』というお話だった。
簡単な内容はこうだ。2人の旅人が、不幸なことに道中で大きな熊と遭遇してしまった。一人の旅人は、あわてて木によじ登って逃げた。しかし、もうひとりの旅人は、逃げ場を失って仕方がなく死んだふりをする。
熊は死んだふりをした旅人に向けて、何か言って、その場を後にした。
幸運なことに助かった旅人たち。木から降りてきた旅人は、死んだふりをしていた友人に、熊は何と言ったのか確認した。
熊はこう言ったのだという。「友達を見捨てて、自分だけ逃げるような薄情者とは、早く離れたほうがいい」と。
この話を読んで、私は芽衣と陛下のことを思い出した。
この後宮に来るとき、私はすべてを失った。一番苦しい時間だった。国内の権力をすべて失って、ただの人質になる。そんな状態で、私に付き従うことに利点なんてなかったのに、芽衣は自分から私の侍女になると申し入れてくれた。
そして、家族ともう会えないかもしれないということまで覚悟のうえで、私と一緒に来てくれた。そんな忠臣をもてて、私は本当に幸せだ。芽衣は、きっと私が逃げ遅れたら、あの小さな身体で熊に立ち向かっていってしまうだろう。私は彼女に逃げて欲しいのに。
やっぱり、彼女のことは一生ものの友人だと思う。身分こそ違うけど、この後宮で疑いなしに味方でいてくれる存在は本当にありがたい。
陛下に彼女の家族の件を話してみた。内々に受け入れてくれるように取り図ってくれるそうだ。すでに、両国の往来はほとんど制限がかかっていない。もしかすると、思った以上に早く、芽衣と家族を会わせてあげることができるかもしれない。
早くそうなればいい。それこそ、両国の平和の象徴になると思う。
現在、西月国は、兄上が行方不明となって、大きな混乱が発生している。穏健派の叔父上が族長の代理となっていると聞いた。これで少しずつ問題も収束していくことになるだろう。まだ、こちらには守兵はいるし、向こうから西月国に侵攻する力はもっていない。どこかで和平交渉となるはずだ。そもそも、今回の件で主戦派はことごとく戦死したとも聞いた。
大順以外の周辺国と比較して圧倒的な軍事力を持っていた戦前の力に回復するには、数十年はかかる。西月国としても、大順との和平をどんなことがあろうとも維持していかなければいけなくなった。
陛下の目指す平和な世界は、今回の大敗で皮肉的なことだけど進んでいる。
芽衣と一緒に平和な世界を見ることができる。それは、戦争で親を失った彼女にとっても目指す世界だろうと思った。
そして、陛下のことだ。
陛下は本来、なにがあろうと守られなくてはいけない人だ。
にもかかわらず、あの時、私が女暗殺者に誘拐されそうになった時、危険を顧みずに前線に出てきてくれた。あの日の陛下のことは目に焼き付いている。凛々しい声と無駄が一切ない美しい所作。完璧な射撃技術。暗殺者が陛下を狙うかもしれない。それでも、私のために熊と戦ってくれた。
この童話の考えを応用すれば、ふたりは私のために巨大な敵と一緒に戦ってくれる障害の親友という存在だ。
思わずため息をつく。
さきほど、陛下のことを思い出して、身体が熱くなる。
心臓が高鳴り、何度もあの力強い視線を思い出してしまう。
本当にあの一瞬で、私の運命は変わってしまったのかもしれない。
変えられてしまったと言ったほうがいいだろう。でも、嫌な気はしない。むしろ、幸せな気持ちが強くなる。幼少期から族長の娘として厳しく教育されていたからこそ、自分にこんな町娘のような恋をするなんて思わなかった。
たとえ、叶わない思いだとしても、私は今、幸せだと思う。
「翠蓮様、陛下が明日の朝食をいっしょにどうかというお誘いが」
芽衣の声だ。噂をすれば、大切な人から声をかけてもらえる。
「もちろんよ、今日の話も早く陛下にご報告しなくてはいけないからね」
「そうですよね」
「そうだ。芽衣もこの見本、読んでみる? 私は面白くて一気に読んでしまったわ」
「えっ⁉ いいんですか」
「もちろんよ。芽衣は先生役だから、先に読んでもらわないとね。勉強を忘れるくらい熱中してしまうわよ。今日は私もすぐに寝るから、芽衣もゆっくり休んでね」
私は目を輝かせている芽衣に、本を渡した。
忙しい侍女の仕事に加えて、医術の相談、薬畑の手入れ、下女たちへの教育係。彼女は、本当に大変なことをしているのに、笑顔を絶やさない。もしかしたら、無理をしているのかもしれない。
だから、たまには面白い本でも読んで、息抜きをして欲しい。
たまのお菓子だけじゃなくてね。
「ありがとうございます。お話楽しみです‼」
「面白いからって夜更かしはダメよ」
私たちはそう言って笑う。こういう関係がずっと続く。それは私にとって、本当に幸せなことだと思った。彼女は生涯の友だちだ。