陛下は、少しだけ驚いたように目を開いて、そしてフフッと噴出した。
何も笑わなくてもいいのに。ちょっとだけムッとしたけど、陛下の次の言葉で、私は天にも昇るような気持ちになる。
「まさか、翠蓮からそんな申し出を受けようとは……こちらから誘うつもりだったのに。もちろんだ。さすがに二人きりと言うわけにはいかないが、いすを並べて、一緒に観よう。そうなれば、演劇が楽しみになってきた」
「あ、ありがとうございます」
自分の提案を受け入れてくれて、本当にうれしかった。でも、それ以上に嬉しいことは……陛下が私を誘おうと思ってくれていたってこと‼
どうして、あの陛下が……だって、冷徹皇帝として評判で、たとえ、長年連れ添った妃にもなかなか心を開かないのに。
でも、聞けなかった。どうして、私を特別扱いしてくれるのかってことを……もしかして、陛下も私と同じ気持ちだったりするのだろうか?
そんなはずがない。
きっと、今回のお誘いも、仕事の延長線にある。そうわかっているはずなのに。
もしかしたらと思う気持ちが、私を幸せな世界にいざなってくれる。そうだったらいいなと思うだけで、こんなに幸せな気持ちなれるなら、もしすべてが報われるなら、どうなってしまうんだろう。
「演劇を観るには、美味しい茶菓子などを用意しておこう。もちろん、女官たちや下女に渡す。そのほうがいいだろう?」
「はい……もちろんです」
たぶん、本番には他の妃も陛下の周囲に集まるはずだ。少なくとも四妃は、陛下の周囲に集まる。私は陛下の横に座るとしても、最古参の梅蘭様も反対側に座るだろう。だから、町娘たちのような逢瀬というわけにはいかない。
それでもだ。
一緒に楽しい時間を共有できる。それだけでも胸が躍る。
「楽しみにしている」
「こちらこそです」
そう言って、私たちの朝食時間は終わった。
幸せな余韻を残して。
※
朝食を終えた後、翡翠宮に戻る途中で、梅蘭様と偶然出会った。
「あら、翠蓮さん」
彼女は優しそうな笑顔を向けてくれる。私は、自分が抜け駆けをしたという少し負い目を感じながら、微笑みを返した。
「梅蘭様、いかがいたしたんですか?」
「いえ、ただのお散歩ですよ。外の空気を吸いたくて。翠蓮さんは、いつもの?」
「はい、すみません」
「何を謝っているんですか。私には絶対にできないことです。陛下の政治を補佐することなんて……あなたにしかできないんですよ。謝るよりも、誇ってください。せめて、友人の私くらいには……」
そう言ってもらえることが嬉しい。でも、梅蘭様は、本当に陛下を愛している。彼女の気持ちを痛いほどわかっているのに……
私が何か言いたのに動けないでいると、梅蘭様はすべてを察して笑った。
「演劇の件ですか?」
「は、い」
「お気になさらず。私はあくまでも妃。最も優先するべきは政治であり、皇帝陛下の血脈をつなげることだとわかっています。あなたが陛下に気に入られるのは、とても喜ばしいことです」
思わず絶句してしまう。それほど、彼が大事なんだと……自分はやっぱり梅蘭様には勝てない。どうして、彼女は私欲がないんだろう。それほど、高潔に陛下を愛しているんだと、思わず震えてしまうくらいには、深い愛情を見せている。
自分の事なんてどうなったとしてもかまわない。
でも、陛下が幸せになるのであれば、それでいい。
梅蘭様は、そして、自分の気持ちが重荷にならないように、陛下にもあえて、その深い感情を気づかれないようにしている。
でも、この深い愛情を陛下が知れば、陛下は彼女の好意を無視できるんだろうか。陛下は冷徹に見えて、深い愛情を持っている。私なんかよりも、梅蘭様の方が彼の横にいるべき人なんじゃないかと思ってしまう。
でも、やはり梅蘭様は賢かった。
「翠蓮さん。あなたがどう考えているのかはよくわかる。あなたは優しい人だから。でもね、そうじゃないのよ。私は、あなた以上に月日をかけても、陛下を癒したりすることはできなかった。たぶん、私は陛下の内情を知りすぎてしまっているのがいけない。だから、お互いに遠慮してしまう。もし、私とあなたの陛下と出会う順番が違ったら、こうはならなかったのかもしれない」
優しい声で、それでいて深い後悔を含んでいる。
「梅蘭様……」
彼女は私に誠実に向き合ってくれているのがわかった。
「でもね、そうはならないの。それに、私は今までの陛下との思い出を否定することもしたくはない。辛い思い出はあったわ。自分の無力感を何度も痛感した。でもね、それでもそれ以上に、私は陛下と一緒に歩んだ時間が楽しかったの。これは翠蓮さんにも渡さないわ」
そう言うと、梅蘭様は笑った。とても美しい笑顔で、思わず守ってあげたくなる。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとう。また、お茶をしましょう」
やっぱり、彼女はとても素敵な女性だった。