「翠蓮さん、どうしてここに……」
私たちは落ち着いた後で、身体を離して、見つめあった。
お互いにたくさん泣いたからか、化粧が落ちて大変なことになっている。これは向こうに戻る前に、お化粧を直さないとね。
「梅蘭様が心配だったから……それに、陛下と梅蘭様の関係を見たら、私が踏み越えるべきではないと思ったから」
最後は負け惜しみだ。照れ隠しという名の負け惜しみ。
それを聞いて、彼女はくすくすと笑いだした。「ひどい、どうして笑うの」と聞くと……
「だって、そうじゃない。普通の妃なら最大のチャンスなのに。それを捨てて、私のも解きに来てくれたんだもん。それは普通じゃないわ」
たしかに陛下の寵愛を求める普通の妃なら、最大の障壁ともいえる梅蘭様がいなくなったあの瞬間は、自分を陛下にアピールする最大のチャンスだっただろう。でも、嫌だった。陛下と梅蘭様の関係を利用しているようで、それは私が求めているものとは違う。うまくは言えないけど、たぶん、私はこの決断を一生後悔はしないはずだ。むしろ、誇らしいと思っている自分がいた。
「ありがとう。砂漠の女帝と聞いていたのに……本当に噂というものはあてにならないわね」
「たぶん、私も成長しているのかもしれませんよ。西月国にいたときは、私はどんなことをしても自分や大事な人を守ろうとしていました。だから、砂漠の女帝なんて言うあだ名がついたんだと思います」
この言葉には、陛下や梅蘭様も守りたい側の人間であるという意味を込めた。私の目を見て、彼女は首肯する。どうやら伝わってみたいだ。
「ずっとあきらめていたんですよ。陛下と私はどんなに月日を一緒に歩んでも、近づくことはできないと。やっぱり、私たちの間には、彼が大きな壁としてそこにいるんです。そして、私という存在が、陛下を苦しめてしまっている」
たしかに、陛下の性格を考えたら、梅蘭様に対して申し訳ないという感情を持っているはずだ。あのまじめすぎる陛下ならきっと……
そして、梅蘭様は、ほかの人の感情を察することがうまい。たぶん、これは名家に生まれた彼女の一種の処世術なんだと思う。財力と名声を持っている彼女の家に取り入りたい人は多く存在するはずだ。誰が信用できるのか、だれが信用できないのか。それを見極めなければ、彼女の立場も危うくなる。皇族に嫁ぐ立場だったこともあって、彼女の心理的な能力は良い方向に働くはずだった。皇族を支えるためには、彼女の機微を読み取る力は、とても頼りになるはずだった。
でも、それが今では負の方向に作用している。それは不幸な偶然のせいだ。
陛下の申し訳ないと思う罪悪感を強く読み取ることで、自分が近くにいると彼を苦しめるということを理解してしまっている。そこに気づかなければどんなに幸せだろう。部外者の私でもそう思わざるに入られない。
むしろ、私は陛下との関係が薄かったからこそ、今の関係を維持できているともいえる。本当に偶然で、運命が変わってしまった。
でも、ふたりはすれ違っているだけなのかもしれない。私にはそう見えてしまった。
せめて、梅蘭様がもう少しわがままだったら。陛下がもう少し強引であれば……二人の運命は変わっていたはずなのに。
「私でも、自分が馬鹿だとは思うのよ。陛下の気持ちにも少し鈍感になって、自分の気持ちにもう少しわがままになれば、関係は変わっていたかもしれないって……」
やっぱり、同じ結論に達していた。そして、その結論は私が簡単に踏み込んではいけないものだともわかっている。
やっぱり私が言うべき言葉を持っていない。
「大丈夫よ。そんなに悲しそうな顔をしないで。私まで悲しくなってしまうもの」
この状況でも、私をいたわってくれる梅蘭様の言葉を聞いて、私はまた泣きそうになる。
「陛下は梅蘭様のことを心配していますし、申し訳ないと思う気持ちはあなたを大事に思うからこそ浮かぶものだと思います」
彼女はうなずいて、私をやさしく抱きしめた。
「そうね。もう少しだけ、私のほうからも陛下に歩み寄ってみるわ」
それが一番いいと思う。少しだけ嫉妬心を抑えきれなくなるけど、このままお互いにすれ違ってしまえば、陛下は弟君だけじゃなくて、梅蘭様すら失いかねない。
そんなことになれば、陛下はたぶんもう立ち上がれなくなる。
「本当に優しいわね、翠蓮さんは……もしあなたみたいな妹がいれば、私も楽しかっただろうな。こんな後宮で出会わなければ、私たちはもっと仲良くなれたのにね」
「私も梅蘭様のような姉がいれば、ここに嫁がなかったかもしれません」
そして、私たちは笑いあった。少しだけ運命の残酷さを呪いながら……
「行きましょう。私がお化粧を直してあげるわ」
梅蘭様は優しく私を導いてくれた。
※
梅蘭様のお化粧はとても手際が良く、二人分の化粧もすぐに直してしまった。
「うまいんですね」
「ええ、好きだから自分でもやっているのよ」
宦官に頼んで個室と鏡を用意してもらって、私たちは身なりを整えた。
梅蘭様はどこか吹っ切れように表情が明るい。
すぐに、化粧を直して、演劇に戻る。
物語はクライマックスへと進んでいた。
陛下は、私たちのほうを見て「もう大丈夫なのか」と小さな声で確認する。
私たちはほぼ同時に頷いた。陛下はそんな私たちを見て、優しく笑った。