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「はぁ」
私は図書館でため息をつく。司馬が迷惑そうにこちらをにらんだ。
「何度目のため息だ」
「わからない」
今日の彼は少しだけツンツンしている。いや、私のほうが陛下と梅蘭様がどうなったのか心配で気が気でないから、うるさいのだろう。梅蘭様の思いが報われてほしいけど、その反対で自分の恋心をどうすればいいのかわからない。恋愛初心者には難しすぎる状況を作り出してしまった。
それに梅蘭様の気持ちが成就した時は、私なんて用済みになってしまうかもしれない。後宮にいるただの政治顧問のような扱いを受けて、陛下の支援をすることだけを求められる。それはそれで、幸せなはずなのに、私はもうそれだけでは満足できなくなってしまっている。
私はもう陛下に恋をしているのだ。
いくらなんでも、陛下を独占できるなんて思ってはいない。皇帝は、複数の妃とともに子供を作ることも重要な仕事だ。特に、弟君が死去していることで、今までの皇帝の直系皇族がいなくなってしまっている。今の皇位継承権第2位は陛下のいとこにあるらしい。
直系の男子がいないというのは、帝国の将来の頭痛のタネになりやすい。やはり、お家騒動につながりやすいし、出世を求めて官僚たちが派閥を組み、内戦を誘発することだって歴史的にみたらたくさんある。
だから、私も妃としての立場は保証されるはずだ。でも、寵愛を受けるのは、梅蘭様になるだろうし、陛下は私のことを政治の補佐役として求めるばかりで自分の恋を成就はできなくなるかもしれない。
それは、とてもつらいことだ。たぶん、これは醜い嫉妬の感情だと分かってしまうからこそ、余計につらい。もし、感情のままに暴れることができたらどんなに楽なんだろう。それこそ、国を傾けてしまうかもしれない。
私は、女としては見られなくても、陛下を支えることができればそれでいい。梅蘭様だって、同じ覚悟でこの後宮に入ったのだろう。そして、四妃の筆頭として、他の妃が暴走するのを防いで、自分の感情すら押し殺して、陛下を支えていた。
すごいことだと思う。梅蘭様がいなければ、たぶん陛下の心は先に潰れていたと思う。冷徹な仮面の皇帝ではなく、ただ冷徹の暴虐皇帝。それも、陛下の頭脳をもった残酷な独裁者が誕生したら、間違いなく暴君として歴史に名前を残してしまっただろう。
「まったく、そんなに気にするなら、あの場で皇帝を独占してしまえばよかったじゃないか」
司馬には一通りの話を説明していた。彼は、とても頭がいいし口もかなり堅い。
「そんなことできるわけがないじゃない。あんな純粋な気持ちを見せられてしまったら」
司馬は本から顔をあげずに、苦笑いしていた。
まったく、自分でもどうしてこんなことになってしまったのかわからないのに。
「千里姻緣一線牽(せんりいんえんいっせんけん)と思えばいいさ」
彼は聞いたことがない言葉を発していた。
「せんりいんえんいっせんけん?」
私はかなり漢語が得意だけど、母語話者じゃない。たぶん、何かしらの教訓とかことわざだと思うけど、知らない言葉だった。
「そういえば、翠蓮はこちらの言葉を勉強して覚えたんだったな。あまりにも流暢だから、それをつい忘れてしまう」
「褒めてもらっているのよね」
「どうだろうね。砂漠の女帝にも意外な弱点があったなと、おもしろがっているのかもしれない」
「絶対にそれが本音でしょ」
私は少しむくれた。
「で、それってどういう意味?」
とりあえず、知らない単語に出会ったら、意味を確認して、覚えてしまうのが一番。
「ああ、意味は簡単だよ。こういう漢字で、どんなに遠い縁であっても、それがあれば結ばれるという意味だ。梅蘭にも、翠蓮にも同じことが言えるだろう」
「随分とロマンチックな言葉ね。実利主義なあなたに似合わないくらい」
「こう見えても、宦官になる前は婚約者だっていたんだ。それに、歴史はロマンだぞ。数百年から数千年前に生きた人間が何を考えていたのかを探っていくんだからな」
意外なことを聞いてしまった。歴史がロマンというのは否定できないけど、婚約者がいたなんて……
「どうした、婚約者のことか?」
「そう。聞いてもいいの?」
「別に問題ないさ。僕は歴史と結婚したんだ。だから、未練なんて一つも残っていない。彼女にはあったのかもしれないけど、こんな罪人を思うよりももっと幸せになる方法はたくさんあるさ。今は遠くで幸せにしている。僕が宦官になっても、誰も不幸になっていないんだよ」
いつになく寂しそうに言っている。こんな顔をするんだ。
ここに来てから、一番長く時間を共有した友人の一人は見たこともないくらい悲しそうに、それでいてさっぱりとした笑顔をこちらに向けていた。
「好きだったの?」
「どうだろうね。親愛の情はあったかもしれないけど、男女の恋愛感情になっていたとは言えないかな」
「そっか」
私は少し納得した。彼の過去をもっと知りたいと思いつつ、私がこれ以上踏み込むことは避けたほうがいいとも思った。
「そんなに悲しむ必要もないさ。言っただろ、千里姻緣一線牽ってさ。僕と彼女には、恋愛関係の縁がなかった。だから、結ばれなかった。どんなに近くにいても、運命付けられていない出会いは実を結ばないのさ。少なくとも、そう考えてあきらめるほうが、健全で美しいものだよ」
彼の言葉の節々から、元婚約者をどう思っているのかが伝わってくるような気がする。それを断定してはいけない。彼の気持ちは、彼のものだから。
「少なくとも、美しいとは思っているのね」
「ああ、ここまで歴史に殉教できる人間なんてそうは居ないさ。境遇はまさに『史記』の司馬遷だろう。始皇帝による焚書坑儒によって、学問を守るために死んだ学者たちを僕は尊敬している」
焚書坑儒とは、たしか、秦の始皇帝の側近である宰相・李斯が、体制を批判していると言って、学者たちを弾圧したことの総称だ。儒学を中心に弾圧が加えられて、儒学の聖典である六経のうちのひとつ『楽経』もこの時に焼き払われて、後世に伝わらなくなってしまったと言われるくらいひどい弾圧事件だったらしい。
ほかにも焚書と呼ばれる事件は何度もある。ほとんどは、戦乱期の混乱によって書物が焼き払われてしまったことが原因だけど、それについてもこの前、司馬は憤っていた。彼は戦乱は、時代を後退させる悪しき事件だと思っているらしい。それには、私も同意だ。
「司馬にとって理想の国ってどんなところ?」
「わかりきったことを言うな。民が飢えることなく、戦乱で本が焼けることもなく、ただ文化と知識が蓄積していく。別に、人々が豊かすぎることは必須じゃないんだ。富みすぎても、人間の心はすさむ。それよりも、ちょうどいいということを知るのが大事だと僕は思うよ」
「知識欲の権化であるあなたがそれを言う?」
「ふん。しくじったからこそ、これを言えば重くなるだろう。まあ、少なくとも僕はこの生活をやめるつもりはないけどな」
それを聞いて、私たちは笑いあった。