ガタン!
その時、扉を開く音がして薬剤師予備校の生徒である関君が現れた。
「どうしたの? 遅刻だよ?」
私は遅刻したことがない彼の登場に驚いた。
「父が、倒れました。もう、授業料が払えません。辞めさせてください」
「あと試験まで3ヶ月なのに辞めて大丈夫なの?」
関君の言葉に私は慌てた。
試験まであと3ヶ月ちょっとだ。
独学で大丈夫だと思うなら、皆、最初から予備校など通ってないだろう。
「父に借金があることが分かって、それどころじゃないんです。もう、試験も諦めた方が良いかもしれませんね⋯⋯」
関君の顔が絶望してて、私は胸が締め付けられた。
「じゃあ、ここのバイトをやらない? この小さい画面で中の授業が見られるし、毎日5千円くらいは貰えるよ。私も忙しくなってきて誰か代わりを探してたんだ」
私の都合が悪くなって、関君がピンチヒッターとして助けたことにしたら勘繰られることもなさそうだ。
「え! 良いんですか。そんなことができたら助かります」
「じゃあ、私の方から成田さんに話しておくよ。じゃあ、今日からでも変わって。私、今日は時間的に結構厳しかったんだ」
関君としては今日からバイト代を貰えた方が良いと思って、私はバイトを関君にかわった。
音楽番組の会場には19時半にはついていなければいけなくて、バイトは19時までだったのでギリギリだったのは事実だ。
私は林太郎とアイコンタクトを取り、その場を去った。
「ごめん、お昼買って来て貰ったのに。どこか公園ででも食べよっか」
「なんか、きらりってお人好しだよな。今日ってプロデュースしている子たちの音楽番組だよね。きらりも観覧に行ったりするんでしょ。それまで時間あるなら、俺にその時間ちょうだい」
私は林太郎には自分も『フルーティーズ』のメンバーとしてパフォーマンスをするとは言っていなかった。
(流石に三十路の私が中学生アイドルに混じるとは言えなかったわ)
私は彼の前では大人ぶっていたので、『フルーティーズ』のメンバーではなくプロデューサーということにしていた。
♢♢♢
公園で一緒にファーストフードを食べた後、後楽園ドームに連れてこられた。
なんと見たかったジャパンシリーズが、バックネット裏から見られるらしい
今日、日本一のチームが決まるかもしれないという大切な戦いだ。
正直野球を見るのは好きだが、いつも外野席からでこんな近くで見るのは初めてだ。
バックネット裏のチケットの値段など、チェックしたことすらない。
「バックネット裏から見るなんて初めてなんだけど。チケットいくら? 高かっよね」
「チケットは貰いものだから気にしないで。野球好きだって言ってたよね」
「うん、ありがとう。連れてきてくれて」
野球というか、スポーツ全般が好きだ。
本気でぶつかり合っている様が心を燃やしてくれる。
「きらり、就職も決まってないのにバイトも辞めちゃって不安じゃないの?」
私を覗き込みながら言ってくる林太郎の言葉にドキッとした。
不安じゃないと言ったら嘘になる。
「一回就職活動に専念しようと思ったから、これで良いの。心配しないで! まあ、情けないけど、いざとなったら実家に帰るよ」
本当に情けないが、家賃の15万円がなくなれば楽になる。
家に7万円くらい入れさせてもらいながら、仕事を探した方が良いかもしれない。
(先にラララ製薬を辞めたことを親に言わなきゃだけどね⋯⋯理由が理由だけにハードルが高い)
「じゃあ、俺と一緒に暮らさない? 部屋も余ってるし」
林太郎は何を言っているのだろう。
私と彼はそんな仲ではないはずだ。
「前の会社の同期がシェアハウスしてくれるって言ってたんだった。なので、ご心配なく。私をペットの犬かなんかと勘違いしていない?」
私は玲香が、経済的に厳しくなったらシェアハウスをしようと言ってくれたのを思い出した。
「してないよ。俺はきらりのこと、素敵な女性だと思っているよ」
私は林太郎の言葉に居心地が悪くなった。
友達のように話しやすい彼だが、たまにドキッとするようなことを言ってくる。
そして私を素敵な女性だと少しでも思ってくれているのなら、絶対に今晩のミュージックタイムは見ないで欲しい。
「そう、ありがと。ほら、始まるよ! 今日、日本一が決まっちゃうかもしれないんだから」
私の言葉に林太郎が私の頭を撫でてくる。
私の方が5歳年上なのに、何だか不思議としっくりきた。
「いい試合だった。ありがとう! 私、頑張る勇気を貰ったよ」
「本当にどっちを応援しているとかないんだな。どっちの点数が入っても喜んでて見てて面白かった」
大切な試合なのに林太郎は私ばかりを見ていた。
私は今晩の生放送に緊張していた気持ちが、全くなくなった。
今はとにかく『フルーティーズ』のパフォーマンスとルナさんの魅力を皆に伝えたい。
「送ってく」という林太郎の申し出を断り、私はテレビ局に急いだ。
テレビ局に到着し運動がてら階段で控え室に行こうとすると、階段の踊り場でタバコを吸っている男の子がいた。
彼には見覚えがある。
『イケダンズ』の不動のセンター倉橋カイトだ。
彼はプロフィールによると18歳になったばかりのはずだ。
キラキラの好青年を演じているのに、実際はかなり擦れてそうだ。
「ここはタバコを吸う場所じゃないですよ。それに成人年齢が18歳になっても喫煙は20歳からです」
「なんだお前、うるせーな。誰に向かって口聞いてるんだよ」
「倉橋カイトさんですよ。かなりキャラ作ってるんですね。タバコで喉がダメになっているから、いつも口パクなんですか?」
喧嘩腰で偉そうにされたので、つい対抗してしまった。
「カイト! ここにいた。今からリハーサルだって」
非常階段に続く扉が開いて、サラサラのロングヘアの美少女が顔を出した。
彼女は『フルーティーズ』の元メンバーである黒田蜜柑15歳だ。
『フルーティーズ』の3人娘が幼い可愛い系であるのに対して、彼女は大人っぽい綺麗系の子だった。
『フルーティーズ』は元々彼女を売るために、果物の名前の可愛い子を集めて作ったグループだったらしい。
しかし、プライドの高い蜜柑は媚びたようなアイドルの挨拶やハグ会を嫌がったという。
今、彼女はアイドル活動以外にも『フィフティーズ』というファッション雑誌の専属モデルもしている。
要するに熱量が違ったという以上に、方向性が違ったのだ。
倉橋カイトは私を一瞥すると、タバコを床にポイ捨てして去っていった。
(裏の顔が酷すぎだろ。最低だな、倉橋カイト!)