「今から仕事ですよね。為末社長」
「はぁ、そうだね。今日からきらりも社長だよ『果物屋』のね」
何でもないような事のように告げられる林太郎の言葉に私は戸惑いしかない。自分が結婚する未来、出産する未来は想豫したことがあるが社長になる未来は考えた事もない。
「独立、するんですね」
「バシルーラが危ない事務所だって分かっているんだから当然でしょ。そもそも枕なんてやってる事務所続かないから。夢見る子たちの将来が使い捨てられるだけだよ。きらりは『フルーティーズ』を守りたいんだろ」
「守りたいです」
私は真っ直ぐに林太郎の目を見つめる。
社長などやった事がない。
正直、社員として与えられる仕事をこなしている方が楽。
人の人生に責任を持つ自信はない。
「ふふっ、不安なんだね。可愛い。俺がいるから大丈夫だよ」
林太郎は私の唇にキスしようとして躊躇い、前髪を上げて額にキスをした。
「為末社長、キスは流石にセクハラ」
「そんなに頬を高揚させて言われてもな。キスして欲しいって顔してたからしてあげたのに面倒なアラサー女子め」
先程キスされた額をツンツンとされ、私は何と返して良いか分からない。一生に一度は彼のような男に振り回される恋愛をしても良いかもしれない。でも、それはもっと私が若かったらの話。長く付き合った彼氏に捨てられ、定職も失い崖っぷちな今。アイドル活動でさえ先が見えないのに、未来の見えない男と恋がしたいとは思わない。
「為末社長のおっしゃる通り、私かなり面倒なんで変にモーション掛けるのやめてくださいね。これからは本当にお仕事だけのお付き合いで」
私は食べ終わった食器の片付けをしながら言葉を紡いだ。なぜだか、林太郎の表情を見ることができずに動揺していた。
林太郎の借りてくれたテナントで、私と3人娘は再び練習を始めた。雑居ビルのワンフロアーだった『バシルーラ』よりも、元が富裕層向けのバレー教室だったせいか練習環境自体は良くなっている。
「『バシルーラ』も大手事務所ってわけじゃなかったけれど、こんなの不安だよね」
私の言葉に桃香が首を振る。
「全然、不安じゃないですよ。大船に乗ったつもりでいます。梨子姉さんと巨大企業がバッグについてますし」
私自身は特別な力なんて何もない。芸能界も経営もド素人。林太郎がお膳立てしてくれたものに乗っかっているだけ。
「やれる事をやるしかないよね⋯⋯」
「梨子姉さん、私たち別に失敗しても良いと思ってますよ。芸能界で成功するなんてほんの一握り。もっと綺麗な子や歌が上手い子が存在するのに、そうでもない子が売れたりしてるの見て来てますから。実力だけじゃなくて、運や利権が絡んでるなんて分かってます」
りんごが私の不安を察するように言ってきて、私はドキッとした。やるからには成功しなければならないと考えていたのはいつからだろう。10年以上付き合ったから結果としての結婚が欲しかった。雅紀との付き合いも首を傾げたくなるような瞬間は幾度とあったが目を瞑ってきた。
「梨子姉さん、やるからには全力を出すけれど私たちに責任は感じないで欲しいっす。が梨子姉さんと違って私たちは若いんで失敗してもやり直しが効きますんで」
苺のフォローに私は自分が情けなくなった。私の不安が明らかに伝わって、優しい子たちにフォローさせてしまっている。
「何だかみんな私の事年寄り扱いしているけれど、30歳なんてあっという間だからね。じゃあ、今日も練習頑張ろー」
私たちは円陣を組んで練習を始める。
「今晩もまたミュージックタイムですよね。『ベジタブルズ』と一緒ですけれど⋯⋯」
桃香の言葉にふっと気持ちが暗くなる。『ベジタブルズ』はまだ『バシルーラ』に所属している。この間、『ベジタブルズ』の小松菜子とのトラブルで病院送りになった。
小松菜子は17歳で高校生。彼女の未来を思って、特に警察に被害届は出していない。彼女を含め『ベジタブルズ』の子は裏では飲酒も喫煙もしているアイドルグループというよりヤンキーグループ。もしかしたら、彼女のたちは早くから芸能界という特殊な世界に身を置いて感覚が狂っているのかもしれない。注意してくれる大人も導いてくれる大人もいない『ベジタブルズ』。この間の一件への謝罪もない。
「同じ業界にいる以上、関わるのは避けられない。私たちは私たちだよ」
自分の言葉とは裏腹に私は何か良からぬ事が起きるような不安を感じていた。